39 刑法第三十九条のレビュー・感想・評価
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森田芳光 生まれるのが遅かった
バカヤロー!を見た時に思ったよ これは映画じゃない。テレビ だって 日本映画は1980年代に死んでしまって テレビ映画しか作れなくなった 何もかもレベルが低いんですよ これは脚本だけは悪くないけどあとは全部レベルが低かった もしも優れた俳優とカメラマンとたっぷりの時間があれば傑作になっていたかもしれない。 しかし、ただ ただ 暗い映画になってしまった。そして何を喋っているのか聞き取れなかった来なかった。もっと 質の高いものが揃ってる映画界だったらきっと それらの演出も面白かったんじゃないか・・ とそういう予感・・いや喪失感を感じさせる作品であった
心神耗弱と少年法
1999年。森田芳光監督作品。 最初から最後まで面白かったです。 22年前の作品ですので、最初の犯罪・・・ これは、刑法39条(心神喪失者と心神耗弱者を特例として裁く・・・無実もある) 39条より、少年法で裁かれたと思われます。 (加害者を成人にしておくと良かったと思います) つまり、工藤啓輔の妹・温子(当時小学生)が、15歳の少年に惨殺されます。 (骸を発見した啓輔は、側に妹の切り落とされた手首を見てしまう) これが第一の犯罪。20年位前です。 そして第二の犯罪(現在) 男とその妊娠中の妻が惨殺された。 現場に落ちていた芝居のチケットから、劇団員の柴田真樹(堤真一)が 犯人として逮捕される。 柴田は法廷で、シェークスピアの「ハムレット」を大声で暗唱したり意味不明の発言を繰り返す。 また、殺された妊娠中の妻の胎児を腹を割いて取り出した・・・と、 非常に常軌を逸した猟奇的犯行だった。 それを理由に「精神鑑定」が提案され採用される。 精神鑑定人・藤代(杉浦直樹)と、助手の小川香深(オガワ・カフカ=鈴木京香)が登場する。 藤代も小川も、一般常識で判断するなら、精神病質に分けられる二人です。 この二人の演技は舌を巻くほど上手い。 カフカは深い鬱屈を抱えた女性です。 (父の死に方・・・彼女が告白した事件の真偽?及び、過食症のどこからみても病的な母親を抱えている・・・) その二人。 藤代は柴田を解離性同一症候群(二重人格)と診断する。 (柴田は突然、両手をブルブル震わせ、それを合図にして別人格を現す。 ・・・獰猛な表情・・暴力性(カフカに飛びかかり首を絞める)・・など、 一方カフカは柴田を詐病と診断する。つまり二重人格のフリをしていると診断する。 詐病と判定したカフカは、正式な精神鑑定人として採用され、 柴田の長時間鑑定を行うこととなる。 そして別件で新事実が判明する。 《柴田が殺した男・夫の方は工藤の妹・温子を殺した仮名の男だったのだ》 いつのまにか仮名の男は、少年法でプライバシーを保護され、結婚して幸せに暮らしていた。 カフカと刑事の名越(岸部一徳)は、柴田の過去を掘り下げて行く。 柴田は黙秘を貫いてる訳ではなかったので、事件当初の捜査で、柴田の過去に空白の5年間・・・が、存在することはある程度分かっていた) カフカと名越は、柴田の父親(國村隼・・・故人)の故郷を訪ねる。 そして判明したのは、柴田の息子・真樹(堤真一)が、5年ぶりに現れて、 父親が喜んだとの事実を掴むのだった。 同時にカフカと名越は、幼児誘拐殺人事件の被害者・工藤温子の兄・工藤啓輔の アパートを訪ねて当時のことを聞く。 なんとなく工藤啓輔と柴田真樹の接点が浮かんで来ませんか? 私の柴田真樹への第一印象は、なんと聡明な雰囲気を持つ男性だろう!!でした。 「知的で聡明」 その男が別人格に豹変する。 カフカもまた柴田の聡明さをいち早く理解した一人です。 ラストに柴田のカフカによる「公開精神鑑定」が仕組まれています。 そこで明かされる《衝撃のドンデン返し》 柴田の告白を、事件の目的を、是非とも、ご確認ください!! 森田芳光監督の本作品は、『家族ゲーム』同様に実験的側面を持つ映画だと思います。 樹木希林の弁護士、江守徹の検察官・・・隠し玉ですね、効果的な・・・。 「銀残し」・・・急に画面が暗く遠くなり、配信が途絶えたかと思った・・・その手法。 原作(永井泰宇)脚本(大森寿美男)そして場面場面の切り返しや 差し込まれる風物に流れる実にマッチした音楽(佐藤俊彦) そして何より鈴木京香と堤真一の演技力。 素晴らしいコラボレーションの秀作だと思います。
病者にも死を、と私は考える
病者にも死を、と私は考える 我が子、あるいは私自身が当事者であったとしても。 「心神喪失」ないし「心神耗弱状態」の者が重大犯罪を犯した場合、 犯人が“病人”として弁護され、検察は法文に従ってそれを飲み、結果無罪で放免される「39条システム」。 しかし我が子、あるいは私自身が当事者であったとしても、それでも敢えて「病者にも死を」、と私は考えるのだ。 病人ではなく“一個の完全な人格”として重んじて私を、また我が子を、死刑に処してもらいたい ・・これが常日頃から私が考えていたこと。 心疾患患者=イコール「罪を償う資格さえない半端者」と、国家が一部の国民をみなすことへの重大な人権蹂躙を、私は受け入れる事は出来ないから。 (↑ここまでが映画鑑賞まえに書いた部分)。 以下は鑑賞後のレビュー↓ ・・・・・・・ 堤真一は39条の欺瞞を暴いた。被害者無視の法制度の欠陥を突いて。 鈴木京香は鑑定人としての立場から詐病を見抜けない精神鑑定の限界を明らかにしようとした。 この二人の挑戦は見ものだった。 図らずして共闘だったと堤は言った。 レビューを書く前の私の意向に沿ってくれていたと思う。 しかし心は揺れる。 じっくり映画を見つめていると自死を選んだ鈴木京香の父親の影や精神を病む母親との同居は 患者と家族の日常生活を割り切れない現実として映すし、 他人になりすまして復讐を果たそうとする堤が“正常”であったかわからなくなってくる。 そしてこの映画には犯人の家族はほとんど登場しない。 ・・・・・・・・・・・・ 猟奇事件の犯人になってしまった患者=少年=の家族の側から(その苦悩を主題に)この作品が撮られていれば、物語の様相はまたガラリと変わっただろう。 しかしここではそこに触れずに、ぶれずに、監督の森田芳光は徹底して法論議に徹して撮りきったことなのだと思う。 ・・・・・・・・・・・・・ “病者”だからガス室へ(ドイツ)。 “病者”だから患者にも政治犯にもロボトミー施術を(米ソ、各国)。 国家が“病人認定”することで人間を抹殺してきたこの恐ろしい歴史を人類は背負ってきている。 それを教訓として 疑わしきは罰せずの原則、そして 安易に法の行使を国家に許さないタガとしての役割、 これも基本的人権の遵守に依拠する「刑法39条」の存在意義だろう。 【病人ゆえに赦すか】 【病人ゆえに亡き者にするか】 これがギリギリ裏腹である危険性を思いつつも 【裁く責任】と 【裁かれる権利】について、 鈴木京香と堤真一が法廷で突いた問題提起は「そもそも人間の尊厳とは何なのか」を我々に問うていることは確かだ。 全員が聞き取れないほどの小声。 みんな病者に見える。 裁判官も裸体だ。 法の ひ弱ささが露呈されていた。 ・・・・・・・・・・・・ 重たい問題提起を見させられた。 そして鑑賞後に私は思うのだ ― (冒頭述べた)自分自身が裁かれることになったあかつきに、 あるいは我が子が被告として法廷に立たされる日がもしも来てしまったあかつきに、 私は勇ましく理想を主張する自信がなくなってしまった気がする、 そして 「お願いです、病気だったのですから助けて下さい!許して下さい!」 ときっと懇願して叫んでしまうだろうなぁと思うのだ。 裁かれる権利とか 被害者のことは一切忘れて。
護られるべき人権について
「精神鑑定は確かに犯罪の抜け道になる。だけど、それで鑑定人の心までは抜けられない」 刑法第39条 犯行時に心神喪失、心神耗弱状態にあった場合、善悪の判断ができない状態であるため罪には問わない、あるいは減刑する。 それは、そのような状態で犯行を犯してしまった被告人の人権を守るための法律である、という建前で成立しているが、本当にこの法律にその機能が果たせているのだろうか。 ただ単に「罪を罰しないこと」が人権を守ることではない。 「罰しない」という判断によって奪われている人権が、被害者だけでなく加害者の側にもいくつあるだろうか。その判断によって単に心神喪失者とみなされることで、加害者の心の中にある問題がこぼれ落ち、抱えている問題が見落とされてしまう。加害者の人権を守るための法律ならば、本来はその問題に立ち向かい、解決するためのものでなくてはならない。「罪に問わない」ことは、その問題を解決するどころか、むしろ蓋をしてしまう。永遠に闇の中に葬られ、事件は「運の悪い事故」として処理される。加害者は振り返りの機会をなくし、社会に適応してなかった、未成年だった、病気だった、善悪の判断ができないなかで犯罪をしてしまったという「ただ運が悪かったうちの1人」として処理され、彼の内面はこの法律によって蓋をされる。 結局何の裁きもないまま社会に出て再犯を繰り返す、という負のループである。 そして被害者はただ泣き寝入りするのみである。 それこそが、本来人権を守るはずの現行の刑法第三九条が、結局は誰の人権も守っておらず、逆に人権を大きく侵害してしまっているという最大の落とし穴である、と。 これは被害者であり、加害関係者でもあったカフカだからこそ立ち止まれた問題であったと思う。 だから「刑法第三九条にナイフを突きつける」という工藤の「共犯者」になり得たのだと思う。 カフカが工藤に感じた違和感。「鑑定書に書かれているものはただのデータだ」と言い切れたのは、犯罪加害者の家族として生活してきたから感じられたこと、その中での苦悩や、身近な人物である母親が、おそらく(その心理的な負荷によって)なんらかの精神疾患を患っているのを身近でみてきたから感じられたものなのかもしれない。「直接感じたこと」を信じたからこそ、工藤の心の中を抜けることができたのだと思う。 ラストシーンで、工藤の目には周囲が異質に見えていた。 それはもしかしたら、彼がなんらかの精神病症状を呈していた、ということなのかもしれない。それを主張すれば、あるいは刑法第三九条の適応になったかもしれない。だが彼は必死にその幻覚を振り払い、踏みとどまった。(現実的にそんな症状コントロールが可能かどうかというより、そういう演出として) それは彼自身が、自分の行いに向き合うためであり、自分の人権を守るための、社会に対する必死な最後の抵抗だったように思う。 加害者の人権を守ることとは、罪に問わないことではない。加害者が自分の罪に向き合うことができる権利を守ることである。罪を理解できないただの病人ではなく、1人の人間としてなぜその罪を犯したのかということを考える権利のことであり、それを考える人間として罪を償う権利を守ることである。それによって、罪によって奪われた被害者の人権を守ることである。刑法第三九条は、罪を問わないことによって犯罪加害者やその関係者からその権利を奪ってしまっているのだ。 この映画ができた時代からかなり時間も経っているため、細かな運用や医療観察法のあり方などに変化はあるとは思う。池田小の事件をきっかけに「医療観察制度」ができたこともある。精神病患者の場合、刑務所に行くよりも適切な治療を受けた方が再犯率も低いことや、刑務所からの出所者に比べ、医療観察のもとで治療を受けた人の方が再犯率は低いなどの実態も事実としてはあるらしい。しかし、今でもこの法律の適応が広すぎることなど、疑問、問題は多いように思う。つまり、この映画で提起されている問題自体は、未だに現代的な問題として十分考えうることでもある。そういう意味でも、意義深い作品だったと思う。
40点
映画評価:40点 すっごく長々と、 ダラダラしながらミステリアスに 事件について見つめ直していく 要点だけを縛れば30分で終わる。 その30分の本筋自体も、 正直なところ良いシナリオとは言えず、 見終わってモヤモヤします。 ただ、 着眼点は面白く、 これを観た人は間違いなく 刑法39条について何か思うのだろう。 他にも、 役者陣が素晴らしかった。 エモリさん、樹木希林さんが演じた 弁護士、検察官はリアリティがあって良かった。 実際は何件も何件も担当する訳で もう事件解決とかどうでもよくて、 作業になっているんだなぁと改めて実感しました。 あとは堤真一さんの鬼気迫る演技は圧巻。 鈴木京香さんも魅力的で良かった。 当時、世間をザワつかせた映画なだけあって、 今こうして観られて良かったです。 【2021.10.25観賞】
2回目ながら
もう20年以上前の作品とは思えない、 実際観るのは2回目なのだが、 素晴らしい演出、カメラワーク、演技に 作品として★を付けずにはいられなかった。 淡々としたリズムの進行 淡々とした役者の演技 だからこそカメラワークや音楽がビシビシ効いてくる。 鈴木京香の女優としての気配の消し方、 そりゃ最優秀主演女優賞とるよ
寄る辺なし
何を吐いているのか岸部一徳、のっぺらぼうのような江守徹、家に帰れば吉田日出子と三方寄る辺なし。演出が効きすぎて心が寒い。ホラー感のある遺骸には閉口。 法律に一石を投じているのかはよくわからぬ。真相はあっと言わせる力があり、推理サスペンスとしてよくできている。芯の強さと弱さが伴う鈴木京香の演技に堤真一の怪演が怖い。
もう少し明るくてもいいんじゃ・・・
暗い。暗すぎる。映像から登場人物の性格にセリフまで全てが暗い。観始めた時はあまりの暗さに「あ~、こういうタイプの邦画ね」とギブアップしかけたが、気づいた時には物語に引き込まれ最後まで観終わってしまった。 多重人格の殺人犯と、詐病を疑う精神鑑定人との攻防を描くことで、刑法39条の理不尽さや精神鑑定の難しさ(いい加減さ)を教えてくれる社会派サスペンスでした。 ただ、犯人の正体と真実が中盤の割と早い段階で明かされてしまうので、ラストのインパクトが薄くなってしまったのは残念。
1999年の作品ということで、ある程度時代を感じるだろうなーとは思...
1999年の作品ということで、ある程度時代を感じるだろうなーとは思ったけど、想像より全然見応えがあった。ただ種明かしで終わらず、刑法39条の是非についてちゃんと考える機会を与えられるところが良かった。
樹木希林の自己ベスト演。
銀残しの画に虚ろな表情で統一される中、樹木希林の自己ベスト演が光る。 超小声早口の巧演に感情を乗せて完璧に聞かせる脚本演出録音も評す。 森田芳光入魂のやり過ぎ技法で濃密な映画的時間を体験。 1999年か。 また見る。
重たい作品だが。
刑法による処罰は、構成要件該当性、違法性、有責性を要件とする。本作は有責性、つまり、その犯罪行為を非難できるだけの責任能力があったかどうかをテーマにしている。 映画を娯楽として捉えるとこのテーマを扱うのは難しすぎるが、娯楽を超えたものとして観るべきかな。全体的に抑えたトーンで粛々と進むが、岸部一徳の刑事がなんとも言えずカッコよかった。希林さんの弁護士ってのも新鮮。
人間の心の不思議
多重人格障害は、実在する病気だ。
多くは子供時代の虐待、特に性的虐待で発症し、辛い記憶を複数の人格に切り分けて本能的に自己防衛をした結果なのだという。
本作の結論は、精神障害があれば刑事責任を問わないという規定の是非について問う、という内容に落ち着いてしまった。
しかし、人の心が持つ奥深さ、不思議さをこの作品は良く描いていると思う。
妹を殺された日から、彼は精神的外傷を負っていた。39条が、その精神状態の異常さに拍車をかけたのは間違いない。
彼は39条の理不尽さを説きながら、自身も39条を利用するかのように振る舞った。
彼の行為も充分異常である。
その彼に、39条の理不尽さを代弁させるというパラドクスと見ると、なんと深い話なのだろうと思った。
精神鑑定師が2人とも精神薄弱に見えるのも興味深い。
結局は主観に過ぎない精神鑑定を、世間的に見ればかなり精神の弱そうな人が行なっていることで、精神鑑定の不確実を強調しようとしたと見るべきか?
いや、私はこのように見たい。結局は法の裁きだって、裁く側の人間の過去をも反映した、ものすごく主観的なものに過ぎないのではないか、という問題提起なのだと。
心神喪失及び心神耗弱者は罰しない、は正しいか
犬山市と北九州市、門司で撮影。新潟という設定もあり。 地味な学者を鈴木京香が好演。 法律に復讐するために半生をかけ恋人と戸籍を犠牲にする。 精神鑑定は結局のところ鑑定人の主観でしかないのに、そんなもので罪を免れさせていいのか!と問うている。 オープニングのぶつ切れの現場検証シーンが印象的。 一定しないカット割りと色味が終始不安を誘う。 裁判中「しかるべく」というのは最近の裁判モノ映画でも聞いた。
問題提起としてはアリだと思う。
心身喪失のため刑が軽くなるのは、本当に正しいのかという問題提起をしている映画。確かに悲惨な事件を起こす犯人は、その人のもともと持っている凶暴性や欠落した良心など、普通の人間の感情ではわからない何かを持っているように思う。 更生をするという目的で刑務所に入っても、その猟奇的な部分が治るとは思えない。その上で、殺人などの悲惨な事件を起こした犯人を中途半端な状態で世の中に戻してしまって良いのか。 被害者やその家族は、きちんと裁かれていないその状況では、気持ちの持って行き場がなくなってしまうのかもしれない。
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