さらば、わが愛 覇王別姫のレビュー・感想・評価
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まだそこに生きている
チェン・カイコーは歴史を憎まない。それを谷間を抜ける風や浜辺に寄せるさざ波のように、自然的なものとして受け入れる。たとえそれが屋根を吹き飛ばし大地を抉るほど強大で残酷なものであっても。
彼の人生は、有り体に言えば波瀾万丈だ。映画監督の父の家に生まれ、経済的にも文化的にも恵まれた幼少期を過ごすが、反右派闘争や文化大革命の過激化に伴い次第に凋落。反共的で穏健派の父親に失望し、遂には自ら紅衛兵となる。文化大革命末期には雲南省の山奥に下放され、そこで幾年もの間過酷な農作業に従事する。毛沢東主義が下火になると北京へ戻り、北京電影学院で中国映画第5世代もう一人の英雄、チャン・イーモウと出会う。彼と組んだ『黄色い大地』は国外批評で大成功を収め、以降チェン・カイコーは(そしてチャン・イーモウも)中国屈指の名監督へと成り上がっていく。センシティブな主題を取り上げることも多い彼が中国国内で日の目を見ることができたことには、当時の中国が文化大革命と天安門事件の間の政治的に凪の時代だったことも大いに関係している。ちなみにこのあたりの話は彼の自伝『私の紅衛兵時代(講談社現代新書)』に詳しい。
さて、このように彼は歴史に散々振り回されてきたわけだが、「政治が悪い」「国が悪い」といった論調からは慎重に距離を置く。もちろんそれは中国共産党の主導する現代中国の政治体制に賛同することを意味しない。そうではなく、彼は主語を肥大化させることで問題が政治・社会批判の次元に抽象化されてしまうことを危惧している。彼が描きたいのは、歴史のダイナミズムにひたすら耐え続ける個々人の尊厳なのだ。
レスリー・チャン演じる蝶衣は京劇『覇王別姫』の虞美人役を務める女形役者。相手役の項羽を務めるのは小さい頃から兄貴分の小楼。幾度となく修行と公演を重ねるうちに、蝶衣は次第に小楼のことが好きになっていく。彼が虞美人という役柄に入り込み過ぎてしまったがゆえの恋慕か、それとも単なる同性愛か、そのあたりはよくわからない。重要なのは、男が男を好きになってしまったという客観的事実だ。中国は今なお同性愛に厳しく、そうしたテーマの文芸作品は基本的に製作を禁じられている。ましてや日清戦争から文化大革命の時代にそうした「自由主義的思想」を持つことは国賊の謗りを免れ得なかったに違いない。蝶衣の感じた孤独や閉塞感は計り知れない。
また、彼らが演じる京劇という文芸も、時代の変遷に伴い徐々にその足場を狭めていく。映画冒頭、1920年代においては「いまだかつてこれほど隆盛を極めたことはない」と言われていた京劇は、文化大革命の折には反共的なブルジョワ趣味と見なされ、大衆に顧みられなくなる。蝶衣と小楼が紅衛兵率いる群衆の前で総括を迫られるシーンは胸が締め付けられる。小楼は蝶衣を裏切り、彼の日中戦争時代の親日的態度や阿片中毒に陥った過去を暴露する。追い詰められた蝶衣は小楼に向かって反撃に出るかと思いきや、なぜか小楼の妻、菊仙の悪辣を大声で暴き立てはじめる。そのさまはほとんど八つ当たりに近い。
思えば蝶衣と小楼の蜜月関係にヒビを入れたのは他ならぬ菊仙だ。もちろん彼女に悪意があったわけではない。小楼と菊仙はただ運命の導きによって惹かれ合ったに過ぎない。しかし蝶衣にとっては残酷すぎる日々だった。最愛の彼を女郎屋の女に取られ、しかも彼もまた彼女を愛している。
同性愛嫌悪、京劇の衰退、そして愛の否定。蝶衣は歴史がもたらすさまざまな不条理に押し潰され、遂には壊れてしまった。ゆえに彼は舞台上での凜として美麗な立ち振る舞いとは真逆の、八つ当たり的な絶叫に及ぶ。「その女を殺せ!」
波乱の文化大革命は終了を迎え、中国にひとときの平和が戻るが、けっきょく蝶衣は自ら命を絶ってしまう。冒頭のタイトルカットの背景が自刃する虞美人だったことを思い返せば、彼の自殺は予め運命づけられたものであるといえる。
しかし我々には、彼がただ単に歴史に翻弄され、弱々しく蹲りながら絶命していったようには到底思えない。やはり思い出されるのは、舞台で舞い踊る蝶衣の凛と透き通った、それでいて芯のあるふたつの眼だ。その双眸は京劇という枠を超越し、今や映画史に深く刻み込まれた。
彼はまだそこに生きている。
美しい映画
久しぶりに鑑賞しました。
中国の激動の時代を生きた京劇役者の話です。幼少期〜壮年期?までを描いた3時間ほどの映画ですが、まったく長さを感じさせません。
静かなシーンが多いですが、その映像や役者の細かい表情が台詞だけではない感情、退廃美を感じさせます。京劇のシーンでは一変、あの独特の音楽が大音量で流れ、それもまたいい‼︎
華やかな京劇の世界と、現実のギャップを思い知らされます。
蝶衣の小楼、演じる京劇への執着と愛、京劇のなかでしか生きていけない姿、決していい方向へ向くことはない人生を生きる姿は、美しく魅力的です。
話の途中まで、あまりいい印象のない菊仙でしたが、恋敵である蝶衣が阿片におぼれた際の献身的な姿、弟子に自分の役を取られてしまった蝶衣を思いやるような表情…言葉ではいい表せられない関係ですね。同じ人を愛した者同士憎しみもあるのですが、だからこそ、蝶衣をよく見て弱さを分かっているのは菊仙なのかなと思います。
今年6月頃に日本での上映権が終了したようで、映画館で観ることができず残念ですが、これからも観たいと思う映画です。
<追記>
4K上映されていたため映画館で鑑賞。
待ってました、映画館上映‼︎
自宅のテレビで観るより作品に没入できたことと、自分自身、中国近代史について少し知識がつき、以前観た時よりも時代背景を理解できたので、新鮮な気持ちで鑑賞しました。
映像が鮮明になったことで、これまで気づけていなかった演出があっことがショックでした。
大人になった蝶衣の化粧前に、子供の頃、指を隠すために使っていた手袋?が置いてあること等…
それに気づいた後に阿片を抜こうともがく蝶衣が母親を恋しがる姿を見ると、つらかったです。
そして、レスリーチャン美しすぎる。
普遍的ですね。
あのなで肩で衣装を着るとより女性的な体型に見えます。
この美しさは女性では出せませんね。
大きなスクリーンで拝むことができて、幸せでした。
恐るべき傑作 映画史上屈指の名作だと思います 「ラストエンペラー」より数段は上です
物語は1924年から、1977年頃までの50年以上もの中国の物語
冒頭の体育館のようなところのシーンが1977年のこと
22年前とは1956年頃の「百花斉放・百家争鳴」という、知識人が共産党の政策を批判することを毛沢東が奨励した頃のこと
結局「百花斉放・百家争鳴」は罠で、批判した55万人もの人々は「反右派闘争」によって全て追放されています
現代劇について主人公が意見を述べるシーンはそれを表現しています
11年前とは1966年の文化大革命のこと
11年後の1977年に四人組が失脚して文化大革命が終結して、京劇も踊れる世の中になり、二人はまたコンビを組もうとしていたようです
四人組とは文化大革命を主導した、中国共産党の幹部4名のこと
江青(中国共産党中央政治局委員、中央文革小組副組長、毛沢東夫人)
張春橋(国務院副総理、党中央政治局常務委員)
姚文元(党中央政治局委員)
王洪文(党副主席)
文化大革命については、劇中にあるとおりの凄まじい政治的ヒステリーで、決して誇張されていません
筆舌に尽くし難いことが本当にあったのです
ラストシーンの1977年は、主人公の蝶衣と小楼はそれぞれもう60代のはず
それ故に美しい姿のままで記憶の中に生きようとしたのだと理解しました
2022年8月3日
米国の下院議長が台湾に政府専用機で降り立ち、台湾の総統に面会したという大ニュースが流れています
二つの中国、大陸と台湾
中国はひとつだと中国共産党は怒り心頭で今にも戦争を起こしそうな雲行きです
大陸と台湾、なぜこうなったのかも本作の物語の背景として描かれます
台湾、正式には中華民国
中国の長い長い数千年の歴史初めての民主主義共和国
美しい理想
しかし中華民国は大陸の内戦に敗れ台湾に逃れてきたのです
確かに第二次大戦頃の中華民国政権は腐敗していたようです
しかし中国の民主主義共和国なのです
大陸は中国共産党が支配しています
皇帝のように一人の人物が君臨して人民を支配しているのです
ラストシーンのテロップにこうでます
「1990年北京では、京劇一座北京入城200周年を記念する祝賀上演が行われた」と
1990年は天安門事件があった翌年です
大陸と台湾
どちらが本当の中国なのでしょうか?
まるで蝶衣と小四です
蝶衣が、小四に主役の座を追われたシーンは1971年に台湾が国連から脱退させられたことを思いださせます
劇中劇の覇王別姫の物語
クライマックスは四面楚歌となり、残ったのは、一頭の馬と一人の女のみ
もはやこれまでと、馬を逃がそうとしたが馬は動こうとせず
愛姫も王のそばにとどまった
愛姫は王に酒を注ぎ剣を手に王の為に最期の舞を舞ってそのまま我が喉を突き王への貞節を全うした
京劇一座の師匠はこう言います
「この物語は我々になにを教えているか
人はそれぞれの運命に責任を負わねばならぬということだ」
蝶衣は老いて醜くなり、そして舞も出来なくなる自分の運命を受け入れたのだと思います
責任を負うとは、彼にはこういう事であったのです
そして大陸と台湾
四面楚歌なのは台湾?
それとも中国共産党?
運命に責任を負わねばならないのはどちらなのでしょうか?
「かっては絶大の権勢を誇った楚王
如何なる英雄といえども定められた運命にはさからえないのだ」
20年ぶり?
大作で名作
霸王别姬胶片版东京重映,去看了。我买的位置不好,第一排中间偏右,两...
切なくてやり切れない
レスリー・チャン
レスリー・チャンその人と重なって
京劇の花形役者二人の人生を軸に、日中戦争前後から50年間の激動の中国社会を描いた大作。
公開当時のレスリーは俳優活動がめざましかったけれど、その後突然に亡くなったこともあって、彼自身の運命にも重なるような気がした。
そして第二次文革とも言われる事態が進行する昨今、この映画のようなことがまた起きていそうなのも悲しい。
舞台の上の彼はこの上なく美しく、3時間近くある長さもあまり気にならなかった。
中国の近代史に疎かったけれど
レスリーチャンにつきる
レスリーチャン、、、。天才か!
彼はもうこの世にいないけど、こうやって作品の中で生きている。
鳥肌ものの演技。
正直、周りが霞むほどに。
香港は今、あの頃とだいぶ様変わりしたけど、今の香港を見てレスリーチャンは何を思うんだろうと考えてしまう。
男として生を受け・・・
見にいってよかった。昨年、映画館で見たのより映像も音もクリアで、昨年も配信でも見た記憶がないシーンがあったのでやっと全部を見ることができたように思う。戦争、内乱、芸術、貧しさ、美、天地のひっくり返しをもたらす革命と権力と思想。蝶衣と菊仙の嫉妬と憎しみと駆け引きの激しさと苦しさをレスリー・チャンとコン・リーが命を輝かせて演じた。何度見ても涙する。(2023.08.04.)
映画館で見ることができるとは夢にも思っていなかった。鏡の使い方が素晴らしいことに気がついた。レスリー・チャンとコン・リーの演技に心打たれた。演劇「M.バタフライ」を見る心の準備もできた。レスリー・チャンの不在が悲しい。(2022.6.3.)
レスリー・チャンの演技があまりに素晴らしくて胸が痛い。子どもの時、少し大きくなって、そして大人になって、きっかけは色々で、涙が一筋(または沢山)こぼれる場面が美しい。それから血。手の指から流れでる血、その血で判を押す、台詞を間違えた小豆を滂沱の涙を流して石頭がわざと折檻する、口から血を流して今度は完璧に演じる小豆、手の平の血で唇を拭う蝶衣、法廷で指で判をおし赤くなった手で唇を拭う。蝶衣にはいつも赤がつきまとう。赤い金魚もそう。蝶衣の部屋の金魚柄の薄布、金魚鉢の中を泳ぐ金魚。全部、蝶衣みたい。金魚は中国だなと思った。でも、文化大革命の赤色は蝶衣の色じゃない。荻原浩の小説『金魚姫』を思い出した。
習慣なんだろうか。背中から長衣をかけてあげるシーンが沢山ある。親愛の情を示す行為なのかな。久しぶりに見て、菊仙の孤独と絶望がわかってきた。蝶衣の母親も菊仙も同じ境遇、自分が京劇の役者になったのも石頭と出会ったのもそもそもは母親ゆえ。運命から人は逃れられないのか。(2020.11.23)
大柄で背の高い石頭の横に立つ小柄な蝶衣。その佇まいが映画の最初と最後におかれている。そのシーンがすべてを語っていた。蝶衣が愛らしくて涙が出る。
蝶衣は男性の装いの時も、足さばき、立ち止まる、振り返る、寄り添う、発声と話し方、笑顔、眼差し、師匠の前にひざまずいた時の足が正座重なりをしているなどすべての身のこなしが(一昔前の)歌舞伎の女形の役者さんと同じ。こんなこと稽古無しに一朝一夕にできる訳がない。衣装と鬘をつけて顔を作って照明を浴びた舞台の上の姿は美しく、嫋々とした、という言葉は蝶衣の為にあるとしか思えない。レスリー、天才だと思う。
あまりに蝶衣に感情移入してしまったので、菊仙憎し!になってしまった。前の方の席に座っておいて芝居が終わらないのに途中で帰る菊仙ダメ!お行儀も悪い!海千山千の菊仙は計算づくの芝居じみた言動をして嘘をつき、何度も石頭を蝶衣を、沢山の人を騙した(コン・リーが上手い役者だからこそ)。でもそんなこと、最初から蝶衣にはお見通しだった。苦界から抜けたい彼女の思いはわかる。けれど母からやむなく捨てられ折檻に耐えながら居場所がそこしかない所で歯を食いしばってきた男の子が、体をはって涙を流して守ってくれた石頭と離れられる訳がない。蝶衣が阿片中毒から立ち直るために苦しんでいた時に抱きしめてくれた菊仙は、でもその時だけは蝶衣の母だったかも知れない。
蝶衣は芯が通っている。法廷で嘘をつかなかった。日本軍は自分の体に指一本触れなかった、青木が生きていれば京劇を必ずや日本に持って行ったはずだと述べた。日本人は京劇の素晴らしさと美しさをわかっていると、歌い踊りなから蝶衣は感じたからだ。それに、大嫌いな菊仙の入れ知恵を諾々と受け入れたら菊仙に借りができる。蝶衣はいつも筋が通っている。
宦官であった爺さんの目にとまってしまった小豆が、布にくるまれて担がれて運ばれる場面。小説で読んだような気がする。若く美しい女性が殿様(?)みたいな人の所に運ばれた時もそんな風だった。そういう運搬方式が中国の習慣だったのかな?
スターになった石頭と蝶衣がスーツ姿で写真館で撮影。その後それぞれが人力車に乗っている場面で、蝶衣には赤い日傘をさしかける人がついていた。乳母日傘!歌舞伎では男も女形も顔は全部自分で作るけれど、京劇では男の隈取りは女形が描いてあげるのか。通常の演出では7歩の所が君は5歩だったねと、京劇の大御所が石頭に言う場面。歌舞伎好きもそういう話をよくする。京劇にはカーテンコールがあるんだ!
中国はこれからどこに行くんだろう?あれだけ芳醇な文化と芸術と歴史をもった国。
コン・リーとレスリー・チャン
1994年劇場公開時鑑賞。
当時、コン・リーが好きでその流れで観たのですが、こういう強さと弱さ、したたかさと純粋さを併せ持つ役どころが、ほんとうにピッタリはまっていて、単なる敵役にとどまらない印象深い人物を作り上げていました。
そしてレスリー・チャンの辛く苦しい恋慕がにじみ出る美しく繊細な演技も素晴らしいです。
二人は後年『花の影』でまた違う役どころでチェン・カイコー監督と組んでいるので、比べてみるのも面白いです。
ただこの二人があまりにも素晴らしすぎたために、もう一人の主役であるはずのチャン・フォンイーは、あまり深みを感じられない演技で見劣りしてしまうのが残念です。
文革時の苛烈な粛清や劇中劇『覇王別姫』などを上手にストーリーに組み込んでいるのもポイントです。
この映画に出会った当時、京劇の煌びやかさにすっかり魅せられ本物の観...
京劇「霸王别姬」と表裏一体の物語、中国近現代史のうねりに翻弄される三人の男女の運命。叙情劇と叙事劇とが見事な合体を見せる映画。
①2回目の鑑賞で初めての映画館にての鑑賞。映画館で観れたお陰でラスト・シーンの意味がよくわかった。
②一方、前に観た時に印象深かったシーンが2つ無かったぞ?記憶違いか、4K版にする時にカットされたか?(そんなことはないだろう…)お陰でレスリー・チャンが前に観たとき程は美しく見えなかった…
③チャン・フォン・イーは男という生き物を、コン・リーは(いつもの様に)女という生き物を体現している。そしてレスリー・チャンは…蝶衣という人間を体現する。
④この映画は前半と後半とで演出方法が微妙に違う。
前半は群衆劇のよう。子役を主役として前面に出すよりも当時の中国の時代背景と京劇の伝統的な世界とを克明に描き出す。
大人になりコン・リーが登場する後半は、その時々の時代相を点描するのは代わりないが、セットが簡素化し、中心人物三人による舞台劇のような様相を呈するようになる。
⑤
かくも怖ろしきかな、中国。 中国少年残酷物語。捨てられ、そして折檻...
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