さらば、わが愛 覇王別姫のレビュー・感想・評価
全86件中、41~60件目を表示
レスリー・チャンを閉じ込め永久保存する映画
蝶衣の波乱の人生と悲しい最期が自殺を選んだレスリー・チャン自身の人生に重なる部分もあり、なんとも言えない気持ちになる。
それと共に、レスリー・チャンがこの映画を残してくれた事が本当に尊い。
映像は閉じ込められ、永遠だ。
クリストファー・ドイルの撮影する作品は全部好きだ。視点が美しすぎる。この映画であれば阿片と金魚のシーンが特に。
ストーリーは幼少期からの一生をかけての愛憎劇でもあるし中国の歴史の変革に弄ばれる運命を描いた大河ドラマ的でもある。
職業俳優は舞台は舞台、私生活は私生活と切り離すことが出来る。
しかし、役が憑依する俳優は、私生活がどうであれ、舞台の上にいるのが本当の自分で舞台の上が人生だと、舞台の上で生きて人々を魅了する。
この映画を観てレスリー・チャンに魅了されない人がいようか!
美しい身のこなしに、その声に、その眼差しに。
4Kで蘇らせてくれてありがとう!
レスリー・チャンに酔いしれる…
レスリー・チャンがあまりにも美しく、あまりにも儚いので…その姿を見ているだけで泣けてきます…
心が震えます。
映画好きの友達が「映画館で見られるチャンスあるんなら絶対見て欲しい‼️‼️」と激推ししていたので、
初めての観賞。
見る前は
3時間長いな…集中して見られるかな…と不安でしたが、なんのなんの、
長さなんて全く感じず、それどころか
まだ終わらないで、
まだ見ていたい…とさえ思いました。
レスリー・チャンの息をのむほどの儚い美しさは
ずっと見ていられます。
母親に捨てられ、
有無を言わさず入った京劇の世界…
そこで生きるしか選択肢はなかった。
そんな過酷な運命の中で、かばい、優しくしてくれたお兄さんに、いつしか特別な感情を持つ…
どんなに辛く苦しい人生であろうと、
お兄さんへの想いはぶれることなく
一途に持ち続けていた。
レスリー・チャンの、
幸薄い蝶衣を演じる全てが
儚く、壊れてしまいそうにあやうい…
胸が締め付けられる思いでした…
こんなに苦しくなるのに
また見たいと思う映画です。
しばらく作品の世界から抜けられませんでした。
あの儚く美しい
レスリー・チャンにまた会いたくなります。
傑作を劇場で観られる幸福
最後は?
久しぶりの京劇
覇権に翻弄される京劇の主役達
近代中国の変遷の度に上手く饗応され、
伝統芸能で世渡りする技芸達。
その生き様は、耐え難い辛苦の思いで習得した何百年も伝わる芸妓なのだ。
その周到さは、親友や恋女房の娼婦さえ裏切れる役者として生きる執念が凄まじい。
それにしても、
短期間に幾度となく覇権が180度変遷し、
生き抜いてきた今日の華人達が、
ただ成らない国家と言うことよく分かりました。
( ^ω^ )
2人の京劇俳優の波乱に満ちた生きざまを描き、中国語映画として初めてカンヌ国際映画祭パルムドールを受賞した一大叙事詩。
京劇の古典「覇王別姫」を演じる2人の京劇役者の愛憎と人生を、
国民党政権下の1925年から、文化大革命時代を経た70年代末までの50年にわたる中国の動乱の歴史とともに描いた。
デビュー作「黄色い大地」で注目され、本作の成功によって中国第5世代を代表する監督となったチェン・カイコーがメガホンをとった。
1925年の北京。遊女である母に捨てられ、京劇の養成所に入れられた小豆子。
いじめられる彼を弟のようにかばい、つらく厳しい修行の中で常に強い助けとなる石頭。
やがて成長した2人は京劇界の大スターとなっていくが……。
時代に翻弄されながらも愛を貫こうとする女形の程蝶衣(チェン・ディエイー)をレスリー・チャンが演じ、
恋敵の高級娼婦役でコン・リーが出演した。
製作から30周年、レスリー・チャンの没後20年の節目となる2023年に、4K版が公開。
172分は長いと思うはずが、長さを感じなかった
劇場ではないが、一度観ているはずの作品
ただ、あまり印象に残っていない
だから、今回、再上映を知ったものの、最初は素通りした
けれど、なにかが引っかかって、劇場に足を運んだ
素通りしたままにしなくてよかったと本当に思う
エンドロールが終わると、すぐに立つ方なのだが、今回はしばらくスクリーンから目が離せなかった
最初から最後まで、引き込まれるように観ていた気がする
選んだ人生ではなかった
与えられた、というより、むしろ押し付けられた人生だったのではないだろうか
それでも、生き残り、掴み取った人生
そこに、中国の激動の時代までもが襲いかかってくる
時代に翻弄され、生き残るために選ぶ道が、人によってはのちに仇になって返ってくる
それほど価値観が次々と一変するような難しい時代
その中で、レスリーチャン演じる蝶衣が放つ存在感
子供時代の役者も素晴らしかったが、レスリーチャンの演技の素晴らしさにとにかく引き込まれる
彼が背負い続ける悲哀、ただそこには強さもある
その一見すると相反する印象が、このキャラクターをさらに際立たせる
ラストシーンの選択は、そんな蝶衣だからこその選択であり、舞台と現実の区別がつかないと言われた蝶衣の演じた虞姫、最初の方で語られた覇王別姫のストーリーを思い出させるものだった
文革はどうしても理解できないし、失われたものや人を考えれば、なぜこんなことが起きてしまったのかと思わずにはいられない歴史のひとつ
一部の人間たちの思惑でここまで民衆が動いてしまう恐ろしさ、集団化した人々の恐ろしさをまざまざと見せられる
そして、追い込まれた小樓が吐露する過去、どこまで本音かわからない思い
それにより、蝶衣も言葉にまではしなかった思いや過去を暴露する
そうして、菊仙もまた追い込まれた
普段は隠すことができる、自覚すらしていないかもしれない人の弱さや醜さを吐き出させる
こんなことが必要だったのだろうか
言わずとも、聞かずともよかったはずの言葉たち
文革の残した傷跡は、目に見えるものだけではなく、人の心にも及んでいる
小豆と呼ばれていた幼き蝶衣が預けられた直後、母を呼びながら振り返った時にはすでにその姿はなく、雪のちらつく寒風だけがその扉の向こうにある
それほどあっさり子を手放した母を蝶衣はどこかで忘れない
満たされないなにかを、彼はずっと抱えたまま、時に阿片に溺れ、それでも自分の力で、脚で、生き続けた
その強さと弱さが、観終わったあとも、どうしても胸を突いてくる
レスリーチャンの選んだ最期が、なぜかここに重なって、なんともやり切れない気持ちになる
彼の演技の放つ存在感に、その悲哀があるとは思いたくないけれど
20数年ぶり?に再鑑賞
芸の道
覇王別姫、別格!
まだそこに生きている
チェン・カイコーは歴史を憎まない。それを谷間を抜ける風や浜辺に寄せるさざ波のように、自然的なものとして受け入れる。たとえそれが屋根を吹き飛ばし大地を抉るほど強大で残酷なものであっても。
彼の人生は、有り体に言えば波瀾万丈だ。映画監督の父の家に生まれ、経済的にも文化的にも恵まれた幼少期を過ごすが、反右派闘争や文化大革命の過激化に伴い次第に凋落。反共的で穏健派の父親に失望し、遂には自ら紅衛兵となる。文化大革命末期には雲南省の山奥に下放され、そこで幾年もの間過酷な農作業に従事する。毛沢東主義が下火になると北京へ戻り、北京電影学院で中国映画第5世代もう一人の英雄、チャン・イーモウと出会う。彼と組んだ『黄色い大地』は国外批評で大成功を収め、以降チェン・カイコーは(そしてチャン・イーモウも)中国屈指の名監督へと成り上がっていく。センシティブな主題を取り上げることも多い彼が中国国内で日の目を見ることができたことには、当時の中国が文化大革命と天安門事件の間の政治的に凪の時代だったことも大いに関係している。ちなみにこのあたりの話は彼の自伝『私の紅衛兵時代(講談社現代新書)』に詳しい。
さて、このように彼は歴史に散々振り回されてきたわけだが、「政治が悪い」「国が悪い」といった論調からは慎重に距離を置く。もちろんそれは中国共産党の主導する現代中国の政治体制に賛同することを意味しない。そうではなく、彼は主語を肥大化させることで問題が政治・社会批判の次元に抽象化されてしまうことを危惧している。彼が描きたいのは、歴史のダイナミズムにひたすら耐え続ける個々人の尊厳なのだ。
レスリー・チャン演じる蝶衣は京劇『覇王別姫』の虞美人役を務める女形役者。相手役の項羽を務めるのは小さい頃から兄貴分の小楼。幾度となく修行と公演を重ねるうちに、蝶衣は次第に小楼のことが好きになっていく。彼が虞美人という役柄に入り込み過ぎてしまったがゆえの恋慕か、それとも単なる同性愛か、そのあたりはよくわからない。重要なのは、男が男を好きになってしまったという客観的事実だ。中国は今なお同性愛に厳しく、そうしたテーマの文芸作品は基本的に製作を禁じられている。ましてや日清戦争から文化大革命の時代にそうした「自由主義的思想」を持つことは国賊の謗りを免れ得なかったに違いない。蝶衣の感じた孤独や閉塞感は計り知れない。
また、彼らが演じる京劇という文芸も、時代の変遷に伴い徐々にその足場を狭めていく。映画冒頭、1920年代においては「いまだかつてこれほど隆盛を極めたことはない」と言われていた京劇は、文化大革命の折には反共的なブルジョワ趣味と見なされ、大衆に顧みられなくなる。蝶衣と小楼が紅衛兵率いる群衆の前で総括を迫られるシーンは胸が締め付けられる。小楼は蝶衣を裏切り、彼の日中戦争時代の親日的態度や阿片中毒に陥った過去を暴露する。追い詰められた蝶衣は小楼に向かって反撃に出るかと思いきや、なぜか小楼の妻、菊仙の悪辣を大声で暴き立てはじめる。そのさまはほとんど八つ当たりに近い。
思えば蝶衣と小楼の蜜月関係にヒビを入れたのは他ならぬ菊仙だ。もちろん彼女に悪意があったわけではない。小楼と菊仙はただ運命の導きによって惹かれ合ったに過ぎない。しかし蝶衣にとっては残酷すぎる日々だった。最愛の彼を女郎屋の女に取られ、しかも彼もまた彼女を愛している。
同性愛嫌悪、京劇の衰退、そして愛の否定。蝶衣は歴史がもたらすさまざまな不条理に押し潰され、遂には壊れてしまった。ゆえに彼は舞台上での凜として美麗な立ち振る舞いとは真逆の、八つ当たり的な絶叫に及ぶ。「その女を殺せ!」
波乱の文化大革命は終了を迎え、中国にひとときの平和が戻るが、けっきょく蝶衣は自ら命を絶ってしまう。冒頭のタイトルカットの背景が自刃する虞美人だったことを思い返せば、彼の自殺は予め運命づけられたものであるといえる。
しかし我々には、彼がただ単に歴史に翻弄され、弱々しく蹲りながら絶命していったようには到底思えない。やはり思い出されるのは、舞台で舞い踊る蝶衣の凛と透き通った、それでいて芯のあるふたつの眼だ。その双眸は京劇という枠を超越し、今や映画史に深く刻み込まれた。
彼はまだそこに生きている。
全86件中、41~60件目を表示