「ノスタルジーとデフォルメとカリカチュアに彩られた、おばあちゃんたちの奇妙な冒険活劇」ベルヴィル・ランデブー じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
ノスタルジーとデフォルメとカリカチュアに彩られた、おばあちゃんたちの奇妙な冒険活劇
おばあちゃんが、誘拐された孫を救出するために、海を越えて大活躍!
というと、ずいぶんと健全な「アニメらしいアニメ」のように聞こえるが、その実、かなりダークで苦味のきいた作品だ。およそきれいごとからは縁遠い、想像以上に「バンド・デシネ」らしい挑発的なアニメで、観てちょっとびっくりした。
悪にさらわれた身内を取り返すため、田舎から飛び出して工業化された大都市に乗り込み、現地の老人たちの助けも借りて敵の牙城に潜入する……。こう書いてみると、なんだか『未来少年コナン』みたいなあらすじだな。でしょ?
男勝りに活躍する老婆といえばなんといっても『ラピュタ』のドーラだし、徹底した「乗り物」へのこだわりや、「からくり」への執着、高低差を意識したアクションなど、本作には意外と宮崎駿との共通点も多い。
でも、宮崎作品とは決定的に異なる部分もある。
主人公であるおばあちゃんにしても、救出される側の青年にしても、なんというか、感情移入しづらい得体の知れなさがあって、ぶっちゃけあんまり「可愛げがない」のだ(笑)。
特に孫のほうは、幼いころからどんよりしてる割に自転車の記事をぎっちりスクラップしてたり、そこそこいい齢なのに未だにおばあちゃんがつきっきりだったりと、すこし何かあるような裏設定なのかもしれない。
おばあちゃんも、無言でがしがしミッションをクリアしていく、どこかサイボーグばあちゃんめいたところがあって、視聴者にこびたり、逆に視聴者に対して説教臭かったりする要素はほぼ皆無である。
むしろ、孫を助けるという目的のためなら、無賃乗車もすれば、置き引きだってやるし、人が死のうがどうでもいいくらい、とことんセルフィッシュにもなれる、「ちょっとこわい」おばあちゃん。
なので、宮崎アニメみたいに、主人公を一生懸命応援しながら作品にのめりこんで観るというよりは、表面上はオーソドックスなストーリーラインに乗っかりつつも、作品との距離を適度に保って、随所で投下される膨大な量の小ネタを心穏やかに楽しむ、そんな「大人の楽しみ方」を、監督は僕らに要求している気がする。
とにかく、『べルヴィル・ランデブー』は、「くせ」が強い。
何よりまず、絵が強烈だ。
とことんまで歪められたデフォルメと、あくどいまでのカリカチュアライズで、全編が徹底的に異化されている。鼻とヒラメ筋の妖怪みたいな孫の造形とか、ぬりかべのようなギャングのボディガード2人組とか、なんだか観ていて不安になってくるレベルだし、そもそも人だけでなく街自体が、世界全体が、いびつにねじ曲がっている。
それをすべて「ユーモア」と「エスプリ」に還元できるかというと、さてどうだろう。
「抑えきれない悪意」や「辛辣すぎて笑えない皮肉」をつい嗅ぎ取ってしまう人だって多いのではないだろうか。
徹底したノスタルジーへの傾斜も本作の特徴だ。
物語の舞台自体が過去に設定されていて、1950~60年代の風俗や街のようすが描かれるだけでなく、作中のTVにはダンサー時代のアステアやジャンゴ・ラインハルトなど、それよりさらにひと昔前の有名人たちも登場する。おばあちゃんたちは基本「昔を振り返って懐かしがる」ばかりで、進取の気性に富んだ「イケてるばあさん」としてはあまり描かれない。ラストでは作品全体が過去のこととして回顧される。
実はこの作品に「未来志向な部分」などほとんどないのだ。
時代の最先端を志向しないことに関しては、ポリコレの扱いもいっしょだ。
「批評精神の優越」を昂然と掲げることで、ほぼ「何それ?」状態で押し切っている(笑)。
なにせ出だしでいきなり、あのジョセフィン・ベイカーが例の恰好でTV画面内のショーに登場して、猿と化したオッサン連中に身ぐるみ(=腰のバナナを)剥かれちゃうとか、ひっでえネタかましてくるからなあ。アメリカ(ベルヴィルはケベックシティとモントリオールをベースにNYに見立てたものらしい)は完全に「百貫デブの国」扱いだし。
音楽の使い方も、結構くせが強い。なんとかシスターズ風のスイングやジプシー・ジャズが陽性なので、気分的にはそっちが印象に残るが、実は短調のもの悲しい劇伴が流れていることのほうが多い。おばあちゃんが孫を追って海を渡るときの音楽が、なんでモーツアルトの大ミサ曲なのか。
ベルヴィルで助けてくれる「歌う三婆」だって、おそらく元ネタは「マクベスの三人の魔女」なんだろうが、外の湿地でつかまえた「アレ」を大鍋で煮ては貪り食い、老婆となったいまでも「音の魔法」で生活の糧を得ている様子を見れば、正義のヒーローというよりは、明らかに「魔女寄り」のキャラクターだ。
「きたないはきれい、きれいはきたない」ってやつですね。
僕はこう思う。
『ベルヴィル・ランデブー』は、深層においては「魔女の物語」なのではないのか?
地方に棲む「魔女」であるおばあちゃんが、庇護下に置いて愛情を注いでいた「一般人だった息子の忘れ形見」を強奪され、それを取り返すために、「使い魔」とともに大都会に出てくる。そこには大昔から歌で人を操ってきた「三人の魔女」がいて、「同じ魔女のよしみ」で助けてくれる。魔女にちょっかいを出した「悪い人間」たちの末路は悲惨だ。
終盤展開される、ギャング団とおばあちゃんズの壮絶なカーチェイス&銃撃戦は、このダークで容赦のないエキセントリックなアニメの「毒」の核心でもある。
「お約束」を逆手にとって、「えげつないこと」を「大丈夫なこと」に置換してしまう詐術が総動員されているとでもいおうか。むかし『トムとジェリー』で、トムがぺしゃんこにされたりミンチにされたり黒焦げにされたりして頭にわっかができるたびに、子供心にぞわぞわしたものだが、本作の場合は似たようなことを、「わざと」「大人向けに」「21世紀に入ってから」やっているので、まあまあタチが悪い気がする(笑)。
そんな、決してほっこりするだけのアニメではない『ベルヴィル・ランデブー』のなかで、唯一、観客が無条件に心を許せる愛すべきキャラクターが、犬のブルーノだ。
形状こそ、犬というよりは四足歩行ロボか箱型のクモみたいな動きをするキモイ動物にデフォルメされているが、とにかくこいつのいちいちのしぐさや行動が可愛いのだ!
というか、このアニメのなかでリアリティ・レベルがブルーノだけ何段も現実に近い感じがする。
犬を飼った経験のある人なら、「ああわかる!!!」と思わず膝を打ちたくなるようなことしか、ブルーノはしない。
うちで飼ってた子も、なんでか郵便カブが回ってきたときだけ異様に吠えてたよなあ……。
ともあれ、このデフォルメとカリカチュア精神と懐古趣味にあふれる「大人のためのアニメ」が、フランスの地で、21世紀に入ってから作られたという事実は、とても重たいものだと思う。
2002年といえば、ディズニーはちょうど谷間の時期で、むしろピクサーが最初の隆盛を誇っていたころだったと記憶するが、20年経った今のアメリカン・アニメは、当時以上に「3D、大衆性、ポリコレ」の呪いに骨の髄まで犯されてしまった。
本作は、まさにそういった米国アニメに対する「アンチテーゼ」とでも呼ぶべき作品だ。
これが2021年の映画館で、改めてロードショー公開されることの意義は大きい。