はなればなれに(1964)のレビュー・感想・評価
全10件を表示
B級の犯罪小説はいつの間に
ジャン=リュック・ゴダール監督作品。
「B級の犯罪小説」みたいな映画なのだが、面白い。
映画でどこまで遊べるかを試しているかのよう。
本作は、アルチュールとフランツという二人の小悪党が、英会話教室で出会ったオディールの叔母の家へ強盗に行く話である。
だが肝心の強盗のシークエンスは、終盤の20分ぐらいに雑に行われる。そこにハラハラもなければドキドキもない。むしろ3人が英会話教室をサボって街をふらつく様子が中心に描かれている。
取り留めのない物語である。しかし本作では映画的手法で多くの遊びが仕掛けられている。
まずナレーションである。ナレーションは物語の場面や登場人物の心情説明で用いられる。本作でもそのように使われてはいるのだが、さらに館内に遅れて入場した観客のために物語の要約が語られたり、心情説明を括弧を開くと表現し、ナレーションとは何かというナレーションが行われる。つまり観客に直接語りかけることもされよりメタ的な語りが展開される。
そのことはナレーションとは何かという問いにも向かう。それがアルチュールとオディールがフランツを出し抜いて地下鉄に乗るシーンで象徴的である。このシーンで、オディールは地下鉄の乗客の顔について物悲しいと語る。しかし後に続くナレーションで、乗客の前後の物語が補完される時、私たち鑑賞者の目には違った表情としてその顔が現れてくるのである。このことからナレーション=言語的メッセージが映像イメージの解釈を促すことがよく分かる。つまりナレーションは映像イメージを説明する機能だけでなく、むしろ説明によって映像イメージを生成するのである。
次にイメージの反復である。オディールは英会話教室で詩人エリエットの言葉を引用しながら重要なことを述べる。「すべて新しいことは無意識のうちに伝統的な事柄に基づく」と。つまりそれは英語の先生が言うように、「古典的=現代的」ということである。
本作の序盤にフランツがアルチュールをビリー・ザ・キッドに見立て射殺するくだりがある。このくだりはアルチュールの倒れ方の下手さからつまらない余興だと解釈される。しかしこれは、アルチュールが強盗に入り叔母の知人に射殺される運命を示してもいるのである。このように物語の伏線の機能も果たしているのだが、さらに深い意義がある。そもそもビリー・ザ・キッドとは誰か。調べてみるとアメリカ合衆国・西部開拓時代の特に知られたアウトロー、強盗であり、「盛んに西部劇の題材となり、1つの時代を象徴するアイコンとして、アメリカでは現代でも非常に人気の高い人物である」(wikiより)。つまりここでビリー・ザ・キッドを取り上げるとは、西部劇のイメージを用いているということでもある。西部劇とは『駅馬車』に代表されるようにアメリカ・ハリウッド映画を興隆させた一大ジャンルであり、古典である。このように西部劇=古典的なイメージと、本作のクライム・サスペンス=現代的なイメージを等式的に反復させながら物語を展開させているのである。しかも本作のように新しいと観客が思うものも「無意識のうちに伝統的な事柄に基づ」いていることを私たちに教えているのである。
また本作をクライム・サスペンスというジャンルに収めながら、あえて犯罪の場面を描かず物語を脱臼させることは、古典的なクライム・サスペンスを現代的なクライム・サスペンスに等式化させてもいるのである。
他にも英会話教室にいる美しい女性マルチーヌは、顔のクロースアップがされたり、再びカフェに登場したりと物語に意味ありげな人物である。しかし何も起こらない。彼女は物語の筋には全く関係ないのである。
そしてセリフを重複させる切り替えしショット、音声がオディールのセリフによってかき消されること、突然踊り出すダンスシーン、アルチュールはフランツを「誰かが撃ってきても映画のように奴が俺の身代わりだ」と言っているのにそのようにならないこと、挙げたらきりがない遊びが散りばめられている。
このように現代からみれば古典的と呼ばれる本作も、全く現代的であり面白い。恐るべきジャン=リュック・ゴダール。彼と戯れる映画言語が求められている。
これこそ映画だ!
この映画には、原作も脚本もあったに違いないが、かなりの部分まで即興で撮られたのだろう。圧巻は、アンナ・カリーナの演技。最初は憂鬱そうだった。その時の彼女の心の状態を反映していると思われる。それが、小津の映画との一番、大きな違い。
しかし、深夜のカフェのダンスで一変する。可憐なアンナ!動き出しの瞬発力(加速度)が素晴らしい。残念ながら、わが同胞との違いがここにある。しかも体が動くと気分も活発になる。有名なルーブル美術館のシーン。私が何より好きなのは、買い物に行くと叔母に偽って家を出て、小道を走り、セーヌの支流に設置されているボートを伝って川を渡るところ。かっこいい車と犯罪も、主人公たちの動きの下地となる道具か。ただ、叔母の家に、仲間と押し込むところから、また表情が曇るところは、残念。ゴダールとの仲が影響しているのかも知れない。
ヌーベルヴァーグの雰囲気もあちこちに。男友達の一人の名は、アルチュール。途中で出てくるのは、ルイ・アラゴンの詩。ミッシェル・ルグランの音楽には「シェルブールの雨傘」の一節も聞こえる。ゴダールのナレーションもよい。この映画の続編が「気狂いピエロ」であることを教えてくれる。
それにしても、邦題は何とかならなかったのか。原題はbande à part, 英語のタイトルは、band of outsiders, もし私が訳すのなら「はずれ者たち」か。
スタイリッシュ!
誘われて予備知識なく鑑賞。扉のところから60年代モノクロフランス映画の遊びの映像世界にはまりました。実存的に生きる若者たちの物語は予測不能。
このところ「パリタクシー」、「幻滅」、当作品、と続けざまにセーヌ川に酔った!
映像と音楽と役者の表情の小気味良いマッチング。シンプルな映画製作の時代だったんですね。
私には理解できなかったけど、ゴダールなりに過去の他の人の作品へのオマージュも散りばめられていたらしいです。
そしてアメリカが世界の中心だった時代。パリの若者が英会話教室に通うって、なんだか別世界みたいだった。
パリところどころ
もし物語的カタルシスだけが価値のある映画の条件なら、映画はとうの昔に文学によって駆逐されているに違いない。エクリチュールの饒舌に比してパロールはあまりにもたどたどしく拙い。しかし映画は言葉とは別に運動を有している。人間や動物や乗り物やあるいはカメラによる、言葉を超越した動きのダイナミズムがある。それこそが映画だ、と言い切ってしまってもいいかもしれない。一瞬で生成消滅する「運動」を逃すことなくカメラに収め、それを一流料理人のように流麗かつ大胆な手捌きでカッティングできる自信があるというのなら。
ゴダール映画の中では言葉が嵐のごとく乱れ舞う。それらは時に詩のように受け手の心に突き刺さり、時に無意味で難解なレトリックとして思考の稜線を滑り落ちていく。おそらく多くの受け手にとって、こうした言葉の、つまり物語のどっちつかずで不安定な手応えが「ゴダールはとっつきにくい」という苦手意識を生み出している。私もマジでそうだった。
だってわけわかんねーじゃん、ふとした日常の話の中にランボーだのパウル・クレーだの毛沢東主義だのが唐突に混入して、しかも特に何も説明ないし、そういう物語的脱臼が延々と続いて、これがヌーヴェル・ヴァーグだと開き直られたらハイそうですか私がバカでしたと回れ右せざるを得ない。
しかしよくよく見てみれば、実のところゴダールは運動の人なのだ。彼の映画において言葉は、物語は、言ってしまえば添え物に過ぎない。小説でいえば、それまで一言一句を丹念に追っていた目線がスーッと滑っていくような、そういう他愛のない箇所。それゆえ彼の映画を見る際に、本当に見るべきは運動なのだ。目を見開き、スクリーンの上で何が起きているかに着目する。
犯罪小説に憧れて強盗を企む3人組。彼らは唐突に夜のカフェで踊り出す。BGMに合わせ、軽妙なステップで延々と踊り続ける3人。しかし周囲の客はそれを歯牙にもかけない。すると突然音楽が止まる。カフェの環境音が戻り、3人の靴音がカンカンと鳴り響く。するとまた音楽が始まる。3人は踊り続ける。また音楽が止まる。始まる。延々と続く。
あるいはルーブル美術館での疾走。3人は9分40秒ほどでルーブルを一周したアメリカ人の記録を打ち破るべく、全速力で美術館を駆ける。おそらく撮影の許可などは取っていないのだろう、他の客は何事かと彼らを瞠目し、警備員は全力で彼らを止めにかかる。
あるいは隘路をグルグルと回る小さな車。庭先をあちこち野放図に駆け回る子犬のように。
あるいはオディールを柱越しにやんわりと抱くフランツ。
あるいは「キスの仕方がわかるか?」と問われてベッと舌を出すオディール。
それらの鮮烈な運動のフラグメントは、物語からも演出からも隔絶したところで営まれる断続的なモンタージュによってより一層輝きを増す。『爆裂都市』が「暴動の映画ではなく映画の暴動」であるとするならば、本作はさしずめ「映画のフリージャズ」といったところか。そこでは言葉や物語といった旧弊なコードは後退し、運動の身体的な享楽と解放感がいきいきと現前する。
思えばヌーヴェル・ヴァーグとは、メロドラマ的な物語と壮大な音響によって受け手を催眠術的に陶酔状態へと陥れるような旧来の映画作品に対する反感をその最大の推進力としていた。そして本作は、それまでのクラシックな「映画」の要件を抜きにしても映画が成立することを、男や女や車や街やカメラやカッティングの荒唐無稽で自由闊達な運動によって示した。
要するに、ゴダール映画の物語に馴染めずに途中で寝落ちても、それをシネフィル的怠慢と気負って落ち込む必要などはそもそもなかったということだ。うつらうつらとわけのわからぬまま見終わって、それでもあそこのショットはよかったな、と一つでも心に刻まれる一瞬の運動があれば、それでもう十分なのかもしれない。てか映画ってそういうもんだよね。
ようやくゴダール映画の見方がわかった気がする。ちょっとだけ。マジでちょっとだけ。でも『イメージの本』とかは無理。何アレ。やっぱゴダールなんもわからん。
ゴダールの中だと分かりやすい
あくまでゴダール作品の中ではということだけど、まだ分かりやすい。
面白いかと言えば、う〜ん…。
では『気狂いピエロ』みたいに美しいのかと言われれば、う〜ん…。
ゴダールを理解したいなら見とくと良いくらいにしか言えない。
気軽に見れるゴダール
初期のゴダール。割と肩が凝らずに見れる。
犯罪映画だがサスペンスフルな要素は少なく、チープかつ行き当たりばったり風な展開の中、いつもの男女間のトークがメイン。
“ヌーベルバーグ”に自覚的でありつつフットワーク軽めな姿勢には好感が持てる。
退屈といえば退屈、楽しいといえば楽しい、といういつものゴダール的センスな映画。
アンナの前髪かわゆす
早稲田松竹での二本立てにて。
この感じは『パルプ・フィクション』を観た感じに似てるな、と。
ちょっと悪くてチープで馬鹿馬鹿しくて笑える、でも暴力はない世界観というか。
最初に観た『女は女である』のインパクトが強すぎて本命だった本作の印象が薄れてしまったのでもう一回観たいな。
アンナ・カリーナの小悪魔っぷり
「女は女である」のキュートさ「気狂いピエロ」とA・カリーナは男を手玉に取る。
本作でもバカなフリして何気に薄情で無意識に男二人を振り回す。
ゴダールも出会ってから一緒になってからと振り回され続けたであろう魅力全開のA・カリーナ。
あっ、振り回したのはゴダールか!?
相変わらず天然にセンス溢れる映像に演出と物語ドウってヨリも字幕を追わずに映像を観ているだけで良い。
印象的なダンスシーンに猛ダッシュする三人のシーンは魅了される。
"ビリー・ザ・キッド"と"パット・ギャレット"のシーンも楽しいしA・カリーナの小悪魔全開なゴダールの撮る最高なA・カリーナ。
一番のゴダール
個人的に、ゴダールで最も良いと思えた作品。
モノクロだからこそ、彼の色彩感覚が感じられる。
テンポ良く進み、ところどころ挟まれるスパイスが観る者を飽きさせない。
でも突飛すぎないのがこの映画の特徴である。
物語自体を純粋に楽しめる。
有名なシーンがたくさんあります。
是非、わくわくしながら観て下さい。
全10件を表示