「ジャン=リュック・ゴダールの、軽妙なる三文小説風 実験」はなればなれに(1964) きりんさんの映画レビュー(感想・評価)
ジャン=リュック・ゴダールの、軽妙なる三文小説風 実験
〽春という字は三人の日と書きます♪
あなたと私、そして誰の日〜?
アイドル歌手石野真子さんのお歌でしたね。
アルチュールとオディールの会話はこうだ
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ノ = そうか
トレビアン = いいさ
OK
マコー = 分かった
パルフェ = 良かろう
ウイウイ = よしよし
コワ = 何それ
女は喜び
男が悲しむってことさ。
キスをしたことは?
舌を使うんでしょ。
このやり取りの「字幕」がなかなか良いのだ。
言葉が発せられる方向への「ベクトルの矢印」が画面に見えてくるような会話。
吹き替え版ではなく、原語での観賞でもなく、「字幕」だからこそより鮮明に見えてくるものが有るのだ。
眠い映画かと思ったが、このシーンから俄然覚醒した。
射的の屋台では、銃の弾丸は的の真中を貫くけれど、人の言葉の矢はこの映画ではすべてが外れて宙を舞い、泥や河にポトリと落ちていた。
札束は消え
窓には鍵がかかり
番犬はおとなしく
約束はすべて反故にされ
死んだはずの叔母は生きており
シムカの幌は破れ
煙草もコカ・コーラも破綻している。
言葉性の破れが至るところで小道具として、「記号」に成っている。
・ ・
一見すればラブストーリーだ。
三角関係のつばぜり合いは微笑ましい。
つまりは「こそ泥 が強盗殺人事件になるという大枠」で、人も死ぬようなバイオレンス物な訳ではある。
そして悪友のアルチュールと フランツ。そして金づるのいいカモにされるのが おバカな外国人オディールという、いとも単純な、ありふれたお話しではある。
しかし、場面転換のリズムは突飛であり、
そこに、やる気のないゴダール自身の、ト書き朗読の、言い訳のようなナレーションがかぶる。
ミッシェル・ルグランが劇中音楽を書いているが、寂し気なブラスのワルツが流れるかと思えば、意表を突くサイケなBGM。
カフェでの椅子取りゲーム (=オディールの隣に座りたがる男たち) や、へんてこなダンスとかも緩くって、全てが洗練とはほど遠い。
人間たちは徹底して弛緩している。
ところがそれとは対照的に油断が出来ないのが、やはり「言葉」。
「言葉」がゲームの駒として鋭利に行き交って、人間たちの間に取り交わされる姿が見所であり、そこが実に面白いのだ。
1人の1シーンに1つの台詞。
けれど放たれた言葉がいずれも相手の胸には届かず
はて?相手に聞こえていなかったのだろうか?という一方通行の台詞の畳み掛け。
ものすごい雑音に耳を押さえたくなるかと思えば、次の瞬間には1分間の無音をこちらに喰らわしてくれる。
私は 私を 私に、私たち。
あなたは あなたを あなたに、あなた達。
彼 彼ら あなたの 彼らの、
・・南へ行こう。
と、言葉遊びをしながら、ついにオディールを手中にした二番手の男フランツには笑みが浮かぶが、
でも返事は無しというラストであった。
・ ・
僕は、若い頃は「対話の出来ない人間とは絶対に一緒に暮らせない」というタチだったのだが、
いまの僕のガールフレンドはオディールに似て言葉が通じなくて、期待する反応がいっさい返って来ないという、かつての好みとは正反対の人間。
そのへんが、この映画に心 くすぐられた要因かも知れない。
この作品で妻を使って根無し草の主人公を撮るゴダールもたいがいだが、
そのご当人たち二人が映画と同時に別れた事も、
長すぎる尺に観客に我慢を強いる作りも、
そして結局はラブストーリーでなければウケないだろ?って陳腐な割り切り方も、
すべてをひっくるめてのニューウェーブ=ヌーベルバーグなのだ。
パリの男二人は英語を習い、
北欧からの女もパリで英語を習う。
所詮どこを取っても自分の言葉が通じないこの三つ巴が、ズッコケている。
アルチュール+フランツ+オディール=三人の数日間の冒険は、まるで自分の台詞だけを覚えてきた小学生たちによる“素朴な学芸会”のようだった。
(ゴダールは人間と言葉の溝を、かくも見える形で可視化して、キャラクターに仕立てていたのかと思う)。
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上滑っている人間どもの生態とは乖離して、自由に動き回る言葉たちの反乱と増殖。
オディールの大きな目ならずとも、台詞の一人歩きに目が離せなくって、そこ、楽しめた。
グルグルと回ったり、猪突猛進・爆走しながら
トンマな人間たちが言葉を追いかけて、ルーブルを駆け抜けている映画でした。
主演は「言葉」でした。