「笑えます!が、しかし…。」アメリカン・サイコ たけろくさんの映画レビュー(感想・評価)
笑えます!が、しかし…。
この映画では、80年代アメリカの、リッチで能天気でプラスティックな「頽廃」が描かれます。確かに、「資本主義」に踊らされ、物欲・名誉欲にかられ、日々「見栄のための消費」に明け暮れる登場人物たちの有様は、滑稽ですらあります。
でも、そこから「物質主義・拝金主義・商業主義は良くない!」というだけでは、ちょっと物足りない気がします。実際、以上のフレーズは、劇中、主人公パトリック・ベイトマン自身の口からも語られています。
パトリック・ベイトマンは一流大学卒の、ハンサムでリッチな「ヤンエグ(死語?)」です。でも実は、殺人の衝動を抱えている「ヤバいヤツ(本来の意味で)」で、実際、自分の欲望・衝動の赴くまま何人かの命を奪っていきます。
そんなベイトマンを取り囲むヤンエグたちは、互いに他愛のない話しかしません。流行りのレストラン、新調した名刺、イケてるクラブ…。その会話の内容には「人格的な関わり」がなく、お互いがお互いにとって「代替可能」な存在です。まるで、自分たちの関係が商品抜きでは語り得ないものであるかのように…。
そんななか、深夜街中で人をあやめ、それを目撃されてしまったベイトマンは警察に追われます。ようやく逃げ込んだ自分のオフィスでベイトマンは、知り合いの弁護士に電話をしますが、相手が留守だったため、留守電にメッセージを残します。いましがた人を殺したこと、そしてこれまでも多くの人を殺してきたこと…電話で自分の犯した罪を「告白」するその姿は、まるで迷える子羊の懺悔のようです。
にも関わらず、翌朝になると、ベイトマンの告白は弁護士に単なるジョークと受け取られてしまいます。また、別の事件に関連して崩れかけていたアリバイも、周囲の人間がベイトマンを「ベイトマンその人」として認識しておらず、また被害者(これもヤンエグ)も被害者その人として認識されていないなか、ベイトマンは一連の事件の犯人とは目されなくなってしまいます。つまりベイトマンは、周囲にとって「透明な存在」で、結果的に、その罪に応じた罰さえ与えてもらえなくなるわけです。更に言えば、ベイトマンだけでなく、劇中の人物全員が、お互いにお互いのことを十分には認識しておらず、互いが互いにとって「透明な存在」なのです。
はたして、パトリック・ベイトマンとは何者なのか?「人生に意味を見出だせない人間」「人生に飽きている人間」「自ら進んで社会の外側に身を置いている人間」…様々な見方があると思いますが、多くの人間が無自覚に物象化した社会を生きているなか、ベイトマンだけが「何かがおかしい…」と感じているのではないでしょうか?さらには、ベイトマンの内面には、他の人物は自覚されていない、ある種悲痛な「叫び」さえあるように思われます。
この映画を見て、パトリック・ベイトマンという人間について全く理解が出来ないという人は「健康」だと思います。でも、現代社会を生きている以上、ベイトマンが抱えている出口のない「もがき」の一辺は、我々も共通に抱えているのではないでしょうか?だとするなら、この映画を単純に拒否してしまうことは、現代人として道徳的に白痴であるとの謗りを免れないでしょう。
それにしても、名刺のシーンの「逆ギレ」は、やっぱり笑えます。