「ヤッピーの百鬼夜行wをカリカチュアにしてコミカルに風刺」アメリカン・サイコ 徒然草枕さんの映画レビュー(感想・評価)
ヤッピーの百鬼夜行wをカリカチュアにしてコミカルに風刺
酷いと聞いていた吹替版を観たら、ホントに吹替が酷かったので驚いたw ま、これしか観られなかったのでしょうがない。
それはさておき、本作はうろ覚えだがアルトマン『ザ・プレイヤー』を連想させる。
第一に、若いが高収入の都会的専門職業人ヤッピーが好き勝手し放題に大衆を見下し、遊びまくって物欲、金銭欲、名誉欲、性欲等、欲望の限りを尽くすことに対する批判。
第二に、彼らが欲望の果てに犯罪に巻き込まれ、そこから逃げようとする姿。
片やハリウッド、片やウオール街という違いはあるものの、この辺りが共通の発想のように思えた。
奇しくもというべきか、案の定というべきか、原作の発表時期は『ザ・プレイヤー』が1988年、『アメリカン・サイコ』が1991年と近く、ともに1980年代に登場したヤッピーたちの生態とその批判がテーマとなっているのは間違いない。映画は前者1992年だが、後者の映画化である本作は2000年発表と若干間が空くこともあってか、彼らがマンガのようにカリカチュア化され、ほとんどコメディになっている。
特に笑えるのが、冒頭に紹介される主人公の朝のルーティーン。腹筋1,000回にシャワーを浴びる際のソープ、顔の角質を取るソープ、保湿用の顔パック、ローション等々には腹の皮がよじれるw
また、オシャレ名刺競争も面白い。朝からレストランで人脈や雑学を自慢し合った挙句、最後は名刺のような最もどうでもいい小物を持ち出して、素材の質の良し悪し、色調、フォントの趣味、デザイン等々に一喜一憂するのが滑稽極まりない。
さらに音楽の話も間抜けている。セックスする前にヒューイ・ルイス&ザ・ニュースやジェネシス、フィル・コリンズ、ホイットニー・ヒューストン等々、誰でも知っているヒット音楽について、評論家受け売りの話を延々と講釈し、ベッドでは鏡に写った自分の姿に陶酔しながら行為するので、怒った女性は無言で睨みつけて帰っていくww バカ丸出しである。
ちなみに音楽担当は元ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのジョン・ケイルで、恐らくスコアを書いているのだろう。ここで取り上げられている曲に彼の意見が反映されているか、ちょっと興味のあるところだ。
さて、このお間抜けヤッピーが突然、殺人を始めるのでビックリさせられるのだが、そこには何も理由がない。強いて言えば欲望の追求の果てにたどり着いた人間への無関心、憎悪と、その時々の気分が動機らしい。
しかし、彼が同僚まで殺したことから探偵が捜査に乗り出し、彼も慌て始める。
映画は主人公が実は何十人も虐殺しまくってきており、その死体をマンションの1室に保存している精神異常者、まさに「サイコ」なのだと描いていく。殺し方もマサカリ、電動ノコギリ、美容機器等々、バリエーションに富んでいるようだw
ところが最後になると、主人公は実は誰も殺していない、ただの妄想だったという話が描かれていき、観客はどちらが正しいのか皆目わからないまま終わるのである。
レビューを読むと、殺人は事実なのか妄想なのかに焦点を当てているものが多いが、映画の重箱の隅を突いてどっちなのか論じてもあまり意味がないような気がする。
要は、欲望追求の果てにたどり着いた価値観の倒錯、人間への無関心と社会性の喪失、人間憎悪と殺人妄想――ひと言で言えば人間性の喪失がヤッピー批判の着地点で、本作の主要部分なのである。そんな主人公をどんな酷い目に遭わせるか、殺人鬼にしてしまうか、精神異常者で勘弁してやるかは、監督の趣味の問題だろうw
本作はサイコホラーなどと分類されているが、小生にはコメディにしか見えなかった。怖いとしたらむしろ原作者や監督の徹底的な嫉妬と侮蔑の視線の方である。
こうしたヤッピーたちの百鬼夜行は2008年のリーマン・ショックまで続いていく。米国ではその後、中産階級の転落が著しいと聞くが、最近はヤッピー批判より『ジョーカー』『ノマドランド』等、社会の二極分化に対する批判に移行しつつあるのではなかろうか。