「視線の解剖」殺しのドレス 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)
視線の解剖
当時50歳弱だったアンジー・ディキンソンのシャワーシーンではじまります。
(ディキンソンは存命で現在(2022年)91歳です。)
不可解な絵でした。
映画がはじまると、すでに若くない女が、思いっきり扇情的にシャワーを浴びているからです。
カメラがトップへ寄ると明らかに違うぞ──なボディダブルになります。
ケイト(アンジー・ディキンソン)の裸身を、舐め回すように見せますが、ちぐはぐなボディダブルが示す通りじっさいは彼女の内なる妄想です。
ケイトは欲求不満を抱えた有閑マダムです。
満たされることのない性的飢餓が彼女に白昼夢を見せている──のがこのシャワーシーンでした。
さいしょに殺しのドレスを見たのはテレビの洋画劇場だったと思います。
殺しのドレスを「親と見る裸の気まずさ」と併せて記憶している人は多いはずです。
VODに入ってきたので30年ぶりに見ることができました。
大人になって見ると欲情したぶざまな年増をたくみに演じたディキンソンに感心します。
この映画のディキンソンにいいところはひとつもありません。
欲求不満に身悶えしながらシャワーを浴び、カウンセラーに不倫を迫り、美術館で会ったワンナイトスタンドのお伴に性病をうつされ、結婚指輪を置き忘れ、あげくに剃刀で切り刻まれます。
にもかかわらず、殺しのドレス(Dressed to Kill)の外販用ティーザー、VODのサムネ、プロモポスター、メディアの装丁にディキンソンの裸は使われていません。使われているのはすべてナンシー・アレンの下着姿です。
ディキンソンが演じたケイトは、ようするに、やりたくてしかたのないおばはんでした。かつ自身も要所で脱ぎながら、もっていくのはぜんぶナンシー・アレンです。踏んだり蹴ったりな役回りのディキンソンの根性につくづく感心したわけです。
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改めて見ると(昔の)ブライアンデパルマは謂わば「視線の解剖」だったと思います。
わたしたちがなにかを見るとき、たんにそれを見るだけですが、デパルマの映画では、元にあった目の位置から舐めるように追って(長回して)最終的に見ようとしていた対象にたどり着きます。
視線は映画の登場人物のときもあり、観客のときもあります。
同時に見せたいときは画面分割して追いかけます。
そのような視線の解剖──なにかを見ようとしている主人公や観客のアイ・トラッキング(視線軌道)を呆れるほどの下世話さで再現する──のがデパルマです。
話は言ってみれば変態に襲われるだけの他愛ないものですが、デパルマは映画製作というものが本質的に視覚的なストーリーテリングであることを実証してみせます。
この方法論はサイコのようなものです。
世界中の映画ファンが賞賛するサイコ(1960)ですがストーリーを覚えている人はどれほどいるでしょう。
サイコは見せ方だけの映画でした。
殺しのドレスも見せ方だけの映画であり、見せ方(スタイル)だけで視覚的にストーリーテリングしてしまいます。
上品なヒッチコックタッチに下品なダリオアルジェントの俗気を足したような印象で、長回しをもてあそびながら、なんてことない話を興味津々に語ってしまうのです。
ただブライアンデパルマもやがて普通の映画監督になっていったように、こんにちではスタイル(撮り方)に腐心する監督や映画はなくなりました。デパルマ自身スプリットスクリーンなんて二度とやらないでしょう。
だからこそ久しぶりに見た殺しのドレスはどきどきするほど新鮮な映画でした。