「原作の雰囲気と違う…なんで戦争映画に…?」ナルニア国物語 第1章:ライオンと魔女 とみいじょんさんの映画レビュー(感想・評価)
原作の雰囲気と違う…なんで戦争映画に…?
さすがアカデミー賞受賞もかくやというメイクアップ。+舞台+俳優…。
その世界観には酔わせていただいた。
今では珍しくないけれど、ライオンが、ビーバーが演技してるよ…。
けれど?あれ?
「サンタに武器もらって子供達が戦争という名目で虐殺している」
そう見えても仕方がない話になってしまっている。
違うよ、違う。本当の『ナルニア』は、説教臭さも満載だけど、そんな話じゃない。
原作を読んだのずいぶん前で、細かいストーリーは忘れちゃっているけど、原作読んで感動した印象とずいぶん違うものになっている。
あれ?ス―ジ―の出番てこんな感じだっけ?等、要所要所で?がちらつく。
エピソードの取捨選択&膨らまし方が本来の『ナルニア』の持ち味を殺しちゃっている。
お気にいりだった、いかにもイギリス文学・パブリックスクールに通っている子女が主人公というエピソードが抜けちゃっている。
例えば、開戦前に、開戦状=ビジネス文書みたいに様式の整った手紙の書き方を応用して作ったやつを敵方に送ってから対戦になるとかね。そういう手紙を書ける(教育を受けている)”人”としてピーター達が、ナルニアの人々(教育を受けていない”動物”)から尊敬されるとかね。他にもお茶をふるまう作法とか…。
この映画ではハイライトみたいにたっぷりと描かれる戦闘場面。原作では数ページであっさり終わるのに…。
私にとって『ナルニア』は、自然な感情の豊かさとそれをコントロールする知恵と知識・学習の大切さ、そして自分以外の他の為に何ができるかと考え行うことの尊さみたいなものが、ワクワクハラハラする冒険談の中にうまく組み込まれている物語だ。
感情のままにふるまう、恐れる時はひたすらびくびくするだけで知恵を使って回避しない、パニックになって騒ぎまわるような振る舞いや、力での支配・きまぐれな愛情表現とやりたい放題のナルニアの人々。
そんな人々に礼儀をはじめとする、相手を想っての振る舞いや、考えてことを行うことの大切さを、子供達が、あちらこちらに振り回されて冒険しながら、いつの間にか伝えていくことになるところの面白さ(教育を受けた人としての価値)。上記の開戦状も、「頭にきたから相手をつぶす」「一方の話だけ聞いて”悪”と決めつける」ではなく、社会のルールにのっとって、なぜ戦わなくてはいけないかを相手に説明して、相手にも再考の余地を残す作業として重要なんだけれど…。
そして、人間としての弱さ・欠点をもつ兄弟も、ナルニアの人々から影響を受けて徐々に成長していく。
そんな”人”と”ナルニア”の人を、大局を見据えながら、見守り動くアスラン。
その延長上で、彼らの欠点の克服であり、長所の象徴である品物を、サンタから兄弟が受け取り、なんとか使いこなしていけるようになるという話だと思っている。
けれど、
この映画は、エドモンドの稚拙な想い(お菓子と兄より抜きんでたいという虚栄心)が巻き起こす事件の顛末にエピソードが絞られていたように思う。成長してからの、フィリップを気遣うエドモンドをみると、やっぱり成長譚なんだろうと思う。
映画ではこの部分を子役の演技と共に堪能させていただいた。
映画では、エピソードを絞ることも大切なのは理解する。
けれど、原作ではあっけなく終わる戦いの場面を、あんなに膨らまして、兄弟とナルニアの人々との心の交流・成長を削っちゃったから、ナルニアの人々に感情移入して、敵を打倒したくなることもない。白い魔女はすごい迫力だったけど、『64』のあの部長達や『欲望のバージニア』のレイクスとは違い、観ているこちらがやっつけたくなるほどの憎々しさは感じられない。
だから、異世界にやってきた子供達による、ただの侵略映画になっちゃった。
疎開で来た子どもたちに、キリスト教を教えるために書かれた物語と、何かで読んだような。
とはいえ、もっと、どの国にも、どの宗教にも通じる、世界的に普遍な要素があるから原作はこんなに世界中に愛されている。
大好きな『ナルニア』。
もう一度作り直してほしいなあ。映像はあれ程豊かに表現されていて、役者も頑張っているんだもの。