ヴィクトリアとベッドで
2016年製作/96分/フランス
原題または英題:Victoria
スタッフ・キャスト
- 監督
- ジュスティーヌ・トリエ
- 製作
- エマニュエル・ショーメ
- 脚本
- ジュスティーヌ・トリエ
- トマ・レビ=ラスヌ
- 撮影
- シモン・ボーフィス
- 編集
- ロラン・セネシャル
2016年製作/96分/フランス
原題または英題:Victoria
原題「VICTORIA (ヴィクトリア)」
裁判官や検察官とは違って、弁護士や司法書士や行政書士たち(=つまり士業の人たち)は「いったい全体どこから手を付けて良いか判らない」クライアントとの直面から全てが始まる。
話を聞き、クライアントの嘘と思い込みを見破り、証人を探し出し、もつれた人間関係を遡り、書面を作り、問題の交通整理を成し、
そうやって法廷のシステムに乗せていくまでのお膳立て。
・・その「表には出ない下準備の作業」に士業は忙殺されるわけだ。
そして彼らの仕事には終わりが無いんだな。一応の手数料の受領書の発行が済んでも、人間相手の仕事に100点満点の日本晴れは皆無なのだ。
結局、弁護士たちの心身には疲労と、そしてお客がたっぷり残していってくれた「毒」が残る。
社会的優先度が低い=やり甲斐の無い事象を弁護士たちは引き受けるからだ。
「負け組だけが」、そして「病人たちだけが」、弁護士事務所のドアをノックしてくれるからだ。
・・
本作、【ヴィクトリア】のもとには
・痴話喧嘩と訴訟手続きの親友(メルヴィル・プポー)が、またもや弁護の依頼に転がり込んでくるし、
・ヤクの売人の やさ男も「あの節は弁護をありがとうございました」とヴィクトリアの前に現れて居座ってしまい、なんと住み込みの見習い&セフレになってしまう。
・そして前夫は完全にオツムがおかしい暴露本作家で。
・加えて子育てもワンオペで てんてこ舞いだ。
しかし、というかそれ故だろう、
「退行現象なのよ」と本人は告白していた。
ベッドの中でもメイクラブに入魂出来ないヴィヴィアンが迫真だ。
ステディの体に股がりながらも、この美人弁護士さんは、依頼された訴訟手続きの、その人間関係の複雑さと困難さについて もう頭が一杯。裸の彼氏に向かって連綿と話し続けるわけで・・
で、彼の悲鳴と怒りですよ
「ヤメロ!」
「ちょっと黙っててくれよ!」
「もういい。萎えた・・」って。
もー、ワロタ。爆笑。
わかるよね、男性諸氏。
面談に訪れた女性を前にしても、心ここにあらず。上の空で彼女自身の生活の惨憺たる有り様を思っている呆然としたヴィクトリア。クライアントから逆に心配されてしまうあのシーン。目がどこかへイッている。
あれは実によく撮ったリアルな演出だった。
「掛け持ちの法廷シーン」は
笑顔になって謝辞を述べながら弁護士のもとを去るクライアントたちもいるけれど、
けれども世のヴィクトリアたち、=士業の苦労人たちは、こうやってクライアントに踏みつけにされながら、泥沼の地べたを這いずって汚いものを散々見せられ、にもかかわらず、まさに
「私の背中を踏み台にどうぞ」と差し出してクライアントたちを立ち上がらせているのだ。
劇中、犬も、女も狂っている。
シンメトリーで美しい裁判所の建築も、裁判官たちの赤い法衣も、もはや全てがヴィクトリアの幻覚ではないかと思えるほどだ。
凄まじい法曹ドラマだった。
・・
僕の弟が、まさしくこれで・・。
企業や富豪の顧問をやっていれば(劇中のセリフにもあった通り)すべてが余裕で外車に乗れたものをね。
でも弟は他の法律事務所からも断られて、たらい回しに回されて流れてきた貧乏人のクライアントたちを、社協や福祉課から泣きつかれて全力で抱きとめる。寝ないで救う。孤独死の部屋を片付けに行き、葬儀を上げる。
喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く男だ。
弟は、おそらくきっと くも膜下出血か、燃え尽き症候群の自殺で、その職を終えるんだろう。
でもそれが人間と関わろうとするヘタレの士業の生き様なのだと思う。彼の天職なのだと思う。
寝ていない彼には時間を取らせるわけにはいかないから、
「映画ヴィクトリア」、「これ『士業あるある』の面白い映画だったよ〜」とはとても彼には推薦は出来ない。
だから僕はせっせとビタミンCのサプリメントを送ってやるのだ。僕自身が彼の手を煩わせる人生を送らないように注意もするのだ。それだけだ。
それで最大の応援なのだと思っている。
だから、
誇らしいし、笑ったけれど、
刺さってしまって、悲しい映画だった。