配信開始日 2025年11月20日

「哲学者の言葉の引用が多い作品は駄作が多い」アフター・ザ・ハント 蛇足軒妖瀬布さんの映画レビュー(感想・評価)

4.0 哲学者の言葉の引用が多い作品は駄作が多い

2025年11月28日
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【哲学者の言葉の引用が多い作品は駄作が多い】
何故か?

劇中のセリフ
「私たちが扱う哲学者で現代の倫理に適合する人はいるか」
「全滅だ」
映画において、ニーチェ、ヘーゲル、ハイデガーといった巨人の名を、
あるいはアリストテレスやフロイト、
果てはモリッシーやハリー・キャラハンの如き固有名詞を、
作中で引用することは、
往々にして〈凡作〉の烙印を押されるリスクを孕む。

それらは得てして、脚本の空虚さを埋めるための知的装飾(ペダントリー)に過ぎず、
観客は難解な朗読劇という名の〈退屈〉を強要されるからだ。

しかし、ルカ・グァダニーノは違う。

『チャレンジャーズ』や『クィア』で証明してきたように、

彼は哲学を〈セリフ〉ではなく、
俳優の〈肉体〉とキャメラの〈運動〉へと昇華させる稀有な技術を持っている。

本作においても、その手腕は鮮烈だ。

彼は上記の哲学者、ミュージシャン、刑事(架空)たちの概念を、
スクリーン上の〈現象〉として本作でも具現化してみせた。

グァダニーノ特有の〈不安と孤独〉の演出。

ここで機能しているのは、
まさにマルティン・ハイデガーが言う【気分としての不安】(気分はもう戦争)だ。

登場人物たちは、理屈のある恐怖対象に怯えているのではなく、
世界の中に投げ出された(被投性)ごとき、
根源的な居心地の悪さに晒されている。

その不安を視覚化するために、
グァダニーノは顔のヨリと、
手のヨリを意図的に分断する。

クロースアップで捉えられた顔が平静を装う一方で、

カットを重ねて執拗に切り取られる〈手〉の身振り手振りは、

神経症的な焦燥を露呈する。

魂(意識)と身体(無意識)が乖離していく様を、
モンタージュによって弁証法的に提示しているのだ。

ヘーゲルが説くような精神の統一はそこにはなく、
あるのは引き裂かれた主体としての現代人の肖像である。

また、本作を支配する〈1分近い長回し〉も、
単なる技術的誇示ではない。

凡百の映画における長回しが意味の無い長回しに終始するのに対し、

グァダニーノの長回しは、
例えばベルクソンの言う〈持続(durée)〉を、
観客に強いる体験装置として機能している。

カットを割らないことで、
観客は登場人物が抱える【逃げ場のない時間】を共有させられる。

その持続の中で、言葉にできない感情の澱(おり)のようなものが蓄積し、
やがてニーチェ的な【深淵】が口を開け、

そしてラストの「カット」
監督本人の声だろう、

出来過ぎである。

グァダニーノは、哲学的な問いをセリフで語らせる愚を犯さない。

代わりに、震える指先や、濃色のマニキュアで、
断ち切られない時間の重みを通して、

私たちに【実存】の痛みを触覚的に伝えてくる。

哲学者が言葉でハント(狩猟)しようとした真理を、

彼は映像という網で見事に捕獲したようにみせかける、

まさに「アフター・ザ・ハント」
まるでペテン師か哲学者のようである。

蛇足軒妖瀬布