アフター・ザ・ハントのレビュー・感想・評価
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ルカ・グァダニーノがまたも描く欲望の果て
2019年にアメリカの名門大学、イェールで(起きたこと)。そんな文字で始まる本作は、同校の哲学教授である主人公のアルマ(ジュリア・ロバーツ)が、学内で起きたアルマの同僚、ハンク(アンドリュー・ガーフィールド)にまつわる性的暴行疑惑と、アルマ自身が過去に犯した罪とを徐々にリンクさせて、捻れた人間の本性を静かに炙り出していく。従ってこれを心理ミステリーにカテゴライズすることも可能だろう。
名門キャンパス内にほぼ限定した舞台設定とか、抑制されたタッチはルカ・グァダニーノらしくないと感じるかもしれないが、さにあらず。人間が一度欲望の表現方法を間違えると、振り切れすぎると、とんでもないしっぺ返しを喰らうというストーリー展開は、明らかに過去のグァダニーノ作品を想起させるもの。まして、規則に縛られた名門大学内の話なので、アイロニーは増し増しになるというわけだ。なので、ハンクを告発する学生、マギーの行動から#MeTooを連想するのは少し違うと思う。むしろ、最初のボタンを掛け違えたばかりに病を煩うことになるアルマの現状に作品のテーマが集約されているのではないだろうか。
にしても、ルカ・グァダニーノは実に神出鬼没。本作の後には『君の名前で僕を呼んで』の続編を含めて合計4本の新作が待機中だが、その中にはルーニー・マーラがオードリー・ヘプバーンを演じるオードリーの伝記映画も、ハリウッドに実在した売春斡旋人の仕事とその周辺を描いた実録ドラマ(脚本はセス・ローゲンが担当するはず)も含まれてない。あれはいったいどうなっているのだろうか?
不満パフォーマンスの実践。
「今時の若者は、」とレッテルを貼る先生陣の下で、自分を押し殺して生きてきたことを自覚する学生マギーは、ハンクの煽りに導火線に火がつく。そして教授アルマを慕う学生マギーはホームパーティーでアルマと同僚ハンクの間の過去を知り、それをネタにアルマへの距離を縮めようと画策する。
アルマとの距離を縮めようとしたものの、アルマには簡単に懐に飛び込ませることができない理由が。冒頭のホームパーティで交わされるキーワード「不満パフォーマンス」と、互いを言葉で傷つけ合うスリリングな展開に引き込まれた。
入院を経て5年後に切り替わるラストシーン。その転換にÉ Preciso Perdoar。どうして許せたのかは不明。なぜ問題起こした教授が学部長になったかは不明。だけど、この曲を使うことで、個人的にはほっくりしてしまった。
ルカの作品に欠かせない音楽演出。今作品もビンビンきてます!
私にとっては大事なところを描いていない作品
観てストレス、終わってストレスの作品
心理ドラマを謳っているが、心理ドラマではない。
心理ドラマの醍醐味は「窮地に立たされた人間が、どのような知略や犠牲を払って這い上がるか」という過程にあるのだが、この部分は「5年後」というテロップがほんの少し表示されて終わるという、詳細は自分でAIで調べてくださいといった構成。
タイトルに書いたように、最後、なぜこのような結果・解決が出来たのかを記す場面が1秒も描写されない。仕事の成果物でこれを出されたら、即座に突っ返すレベルの作品。
ストーリー性が無い一方で、芸術性も無い。そして社会性も無い。
美しかったころのジュリア・ロバーツ(主人公アルマを演じる)をスクリーンで観てきた人には、「彼女の顔を流すことだけが、この映画の目的だった」と許容できるかもしれない作品。
多くの人には時間がもったいないだけなので、ありていに書きました。
私の勘違いかと思いUSを中心とする論評を見ましたが、見事に低評価ばかりです。
私は12人に紹介し、9人が「時間の無駄」と評価、3人は次々と上がる「時間の無駄」という評価に最後まで鑑賞せずに終わりました。
以下、ネタバレ&疑問・私の印象
1.イェール大学で心理学や哲学を教える者(主人公アルマとその愛人男性ハンク)が、学生がハメたことに苦悩(人間関係が壊れたり、職を失うなど)するストーリー。
学生がどうハメたのか?
→ 主人公の愛人が、自分をレイプしたという狂言を起こす。
その動機は、同性愛者の学生が、アルマに恋愛感情あるいは母性を求めていたこと。
2.2時間近くかけて描かれた苦悩は、意外なことで解決した様子。
主人公アルマは、自分のダークな過去を告白することで(関心の矛先を変えたかなにかして→詳細は誰にも不明)解決したと思われる。
ダークな告白
主人公自身が学生時代と思われる頃に捨てられた元恋人に対し、未成年女性への性的事件をデッチ挙げて、その4年後だかに元恋人は社会的信用を失い、孤立して自殺に追い込むことをやっている。
どうやら、このことを告白することで社会的反響を呼んで、自分のトラブルから解放され・・・という展開だと思われることを、この主人公とハメた女学生の飲食店での会話で終えたところでこの映画は終わる。
3.この主人公は、この過去での告白で会的巻き返しを図り、最終的にはイエール大学の学部長に就任する。
どう巻き返しが成功したのか、この部分の描写は1秒すらない。
主人公は哲学を教えていたはずで、哲学というカテゴリーで、他人を自殺に追いやった人間が学部長になれるという事実に驚きました。私の職場にもいるイエール大卒2名の感想としては、「こんなク〇女が学生なり学部長として生きていけるような学校とは思わないで欲しい」などと弁解しておりました。可哀そうに。
4.この主人公の愛人男性ハンクが、学生にハメられるのだが、この男性自身は大学から追放される。そして、とうとう社会的信頼の回復は無かった様子。「(イエール大学で教えていたことを活かして)選挙参謀で稼いでいるから、めでたしめでたし」とハメられた主人公とハメた学生は笑顔で語っている。
5.ハメた学生は、この主人公と愛人男性に全く悪気を感じさせない驚くべき人間性の持主(ハメている期間だけでなく、その後、トラブルの終息後にも悪いとは思っていない)。
この学生と、主人公が最後に談笑して自分たちの現在を前向きに語り合うシーンは、結局は同類同志にのみ理解できす心理。こんなもの、心理ドラマとは言わない。
6.愛人男性は、大学からは追放されたが、その後、選挙活動の参謀的ポジションで成功しているということが、主人公とハメた大学生との間との飲食店での会話で語られる。
成功したから、それで良かったとしている表情を(トラブル時には対立した)2人は見せており、暗い過去とは考えていない。
7.主人公は、ジュリア・ロバーツ。劇中、主人公は「女性を売ることで出世する奴」を話題にした学生や同僚?に対して怒りを見せるシーンが2度ある。こてんぱんに論理的に追い詰めるという場面があるのだが・・・結局は、そういう女だったからあそこまでやったのだと視察した。
この主人公、ジュリア・ロバーツという美人が演じているから映像を見ることができる。
主人公の生き方も、この映画の成立条件も、「醜悪ではなさそうな白人美人」が演じているから成立するという内容。これを皮肉として送りだしているのであれば、業界に対する心理ドラマとしては成り立つのかもしれない。
8.ハメた学生(女)は、大学に極めて多額の寄付が行える超富裕層出身の黒人女性。
これもまた、人種差別的。
たしかに経済的な成功を収める黒人も多くなってこそいるが、比率的にはやはり白人が圧倒的に多く、なぜ黒人にしたのか・・・悪意すら感じる。
なぜ悪意を感じるかというと、この学生は、デッチ挙げ事件を終えた5年後にも、後悔やお詫びの気持ちを見せることなく、悪びれていないため。
こんな嫌な女は、白人女性では成立しなかったのか?と疑問に思う。
監督(ルカ・グァダニーノ)は、あえて「黒人の特権階級」にすることで、「マイノリティという属性さえあれば、これほど醜悪なことをしても守られるのだ」という極めて攻撃的なメッセージを込めた可能性(皮肉)を込めたように私には感じます。
本来、心理ドラマであれば「なぜ彼女はそこまでしてハメたのか」という心の機微を描くものですが、それを描かずに「超富裕層(かつマイノリティ)の黒人だから守られた」としか見えない。それって、人種や階級という属性で思考停止している証拠だし、あまりにも怠慢。そして悪意。この心理がわからない人が、映画を作っているとも思わない。
『女神の見えざる手』、『偽りなき者』、こういう作品を観てから作るべきだと思う。
あまりにも酷い作品だった。
#3の描写が無い以上、この映画は「時間の無駄」としか私は評価できない。
最後となりますが、私は「視聴者の時間を奪っただけの、ひじょうに酷すぎる作品」にしかコメントはしません。観て楽しむものが作品だからです。
ウケなどを狙はず、単なる駄作ではなく、「人の時間を何だと思っているんだ?」という作品を批評します。あとは、修正史観だとか人権などへの偏見を感じるものだけコメントします。逆に言うと、書くのは相当に酷かったものと思ってください。
毎日1~2本は観ています。
マグノリアを2025年に
現代を背景に、自己保身や先入観や正しい姿や、それらの紛れもない醜さが的確に刻み込まれている、正気では絶対に観れない映画でした。
資本主義民主主義のありたい姿とはなんて醜いのだろうと、そんなことこんなに早く表現しないでくれよと思う感度と露光が敏感すぎてもうお酒でも飲まなきゃ見てらんないよ!とお酒が進む(登場人物たちもどんどん飲んでいましたね!)作品でもありました。
チャレンジャーズのあの露悪な楽しさをこんなに嫌な映画にしてくれてありがとうですね。
登場人物が嘘を言ったときに、嘘を言っているかもしれない、と観客に思わせる演出は本当に力のある監督がするととんでもない緊張感がある映画になると思いました。
最後のシーン、『カット!』の意味、これ、お前のお前たちの私たちのことだよ?っていう被虐性もいいですね。
『羅生門』方式を用いない事実の集積が、観る者をかえって混乱させる考えさせる系の作品
性、世代、人種、そして経済格差…。自分の行いを気づかせる"他者"を、"特別な他者"と認めることなく(=距離を置いてなお自分の過ちを認めず?)、二元論では収まらない現実社会。偏見に満ちた世論が未だに世の中に渦巻いているのだから、社会倫理は幻想。どんなに本を読んで賢い人も、自分のこととなると?
女が声を上げたら損をするから黙ってろ?たとえ男が逃げ切っても。間違った社会に正しい生き方は存在しない。ルカ・グァダニーノは、いつだって奇妙な作風で性を描く。そして、性加害・暴力は上から下へと力の関係によって起こる。…だけど、本作に関しては、曖昧に問いかけてくる。マギーがイェール大学の像(?)を見つめる意味深カットが印象的だった。
時を刻む時計の秒針の音に、やたらと主張してくる音楽が、従来のこうした題材やトーンの作品から本作を良くも悪くも隔てていた。客寄せパンダになり得るような分かりやすく挑発的な部分を抑えて曖昧にすることで、考えさせるようなハイコンテクストで噛み応え・考え甲斐のある作品にしている(あるいは、そうした作品を目指している)。真実は…?
妻を気にかけるも音楽を聴くときは大音量の夫フレデリック役にマイケル・スタールバーグで、彼は同じくルカ・グァダニーノ監督『君の名前で僕を呼んで』で最後に素晴らしい語りで観客の心を鷲掴みにするような作品の核を担ったわけで、本作でもその役を一部引き受けていた気がした。「それでも子どもの純真さを守るのは、いつだって大人の役割だ」
ジュリア・ロバーツはその名優っぷりを遺憾無く発揮し、アンドリュー・ガーフィールドはノリノリに軽薄な問題准教授役を好演している。彼は、『大いなる陰謀』でロバート・レッドフォード教授の教え子として大学生役を演じていたところから知ったから、准教授役になったことには時の流れを感じる。演じている役は、レッドフォードの素晴らしい教授とは雲泥の差だが。飲まない?飲もう。奢ってくれがちな主人公アルマはブロンドだし、自分の中でケイト・ブランシェット姐さんが思い出された。…からのアルマのハンク化?ビンタされても当然の報い。
『ボトムス』と『The Bear 一流シェフのファミリーレストラン』から好きになったアヨ・エデビリ(アイオウ・エディバリー)も見事で、印象的だった。作り物みたいな最後がハッピーエンドかは…。作中で、"夢が叶ったり望んだものが手に入ったりしたら満足できるのか?何が待っている(どうなる)のか?"みたいな話があったけど、タイトルの「狩りの後」というのもそういうことを意味しているのだろうなと思った。
「他者が語るのを聞いてはじめて自分が英雄だと気づく」
YouTubeだったら早送りします
哲学者の言葉の引用が多い作品は駄作が多い
【哲学者の言葉の引用が多い作品は駄作が多い】
何故か?
劇中のセリフ
「私たちが扱う哲学者で現代の倫理に適合する人はいるか」
「全滅だ」
映画において、ニーチェ、ヘーゲル、ハイデガーといった巨人の名を、
あるいはアリストテレスやフロイト、
果てはモリッシーやハリー・キャラハンの如き固有名詞を、
作中で引用することは、
往々にして〈凡作〉の烙印を押されるリスクを孕む。
それらは得てして、脚本の空虚さを埋めるための知的装飾(ペダントリー)に過ぎず、
観客は難解な朗読劇という名の〈退屈〉を強要されるからだ。
しかし、ルカ・グァダニーノは違う。
『チャレンジャーズ』や『クィア』で証明してきたように、
彼は哲学を〈セリフ〉ではなく、
俳優の〈肉体〉とキャメラの〈運動〉へと昇華させる稀有な技術を持っている。
本作においても、その手腕は鮮烈だ。
彼は上記の哲学者、ミュージシャン、刑事(架空)たちの概念を、
スクリーン上の〈現象〉として本作でも具現化してみせた。
グァダニーノ特有の〈不安と孤独〉の演出。
ここで機能しているのは、
まさにマルティン・ハイデガーが言う【気分としての不安】(気分はもう戦争)だ。
登場人物たちは、理屈のある恐怖対象に怯えているのではなく、
世界の中に投げ出された(被投性)ごとき、
根源的な居心地の悪さに晒されている。
その不安を視覚化するために、
グァダニーノは顔のヨリと、
手のヨリを意図的に分断する。
クロースアップで捉えられた顔が平静を装う一方で、
カットを重ねて執拗に切り取られる〈手〉の身振り手振りは、
神経症的な焦燥を露呈する。
魂(意識)と身体(無意識)が乖離していく様を、
モンタージュによって弁証法的に提示しているのだ。
ヘーゲルが説くような精神の統一はそこにはなく、
あるのは引き裂かれた主体としての現代人の肖像である。
また、本作を支配する〈1分近い長回し〉も、
単なる技術的誇示ではない。
凡百の映画における長回しが意味の無い長回しに終始するのに対し、
グァダニーノの長回しは、
例えばベルクソンの言う〈持続(durée)〉を、
観客に強いる体験装置として機能している。
カットを割らないことで、
観客は登場人物が抱える【逃げ場のない時間】を共有させられる。
その持続の中で、言葉にできない感情の澱(おり)のようなものが蓄積し、
やがてニーチェ的な【深淵】が口を開け、
そしてラストの「カット」
監督本人の声だろう、
出来過ぎである。
グァダニーノは、哲学的な問いをセリフで語らせる愚を犯さない。
代わりに、震える指先や、濃色のマニキュアで、
断ち切られない時間の重みを通して、
私たちに【実存】の痛みを触覚的に伝えてくる。
哲学者が言葉でハント(狩猟)しようとした真理を、
彼は映像という網で見事に捕獲したようにみせかける、
まさに「アフター・ザ・ハント」
まるでペテン師か哲学者のようである。
主観と客観が入り交じり
これは傑作
「クィア」の劇場公開から間髪入れずに送り出された本作。ルカ・グァダニーノ監督の仕事の早さに驚くが、脚本がほぼ新人といってもいい俳優のノラ・ギャレットさんということに驚く。
相変わらずトレント・レズナー&アッティカスロスによる音楽はオシャレだ。
哲学科の助教授と学生達によるドロドロした色恋沙汰と見せかけて、LGBTQからキャンセルカルチャーまで横断し、最後はやっぱり人間の純粋で切ない片想いや愛というところに持っていくところがグァダニーノらしい。
キム先生の台詞は的確に現代社会を捉えており耳が痛い場面もあった。
そして確かに声を上げることは大事だし、誰にでも真実を語る権利はある。如何なる権力や偏見もそれを隔てはならない。
確かにそうだ。しかし真実とは?
この映画ではさまざまな哲学者の言葉や講義テーマを通してロジックが語られる。
ロジックで武装された文章は最強だ。
ジュリア・ロバーツ演じる本作の主人公アルマは論理主義者で言葉による論理の破綻を許さない。
しかし人間とはどうあっても感情の生き物なのである。
ノラ・ギャレットやグァダニーノの語りたいテーマはここである。
論理武装を解いたアルマが真実を語る。フレデリックの愛は決して彼女の心に届かないという真実。切な過ぎる。
グァダニーノはどれだけ人を愛してきたのだろう。
あの病院のシーンが本作のクライマックスである。
エピローグはまさに嘘みたいな後日談である。
ドン底から嘘みたいに学部長に上り詰め、死のオーラがぷんぷんしていた元彼のハンクも政治家を目指して充実しており、肝心の告発者マギーは新恋人と婚約中という。
そんなわけあるか!!笑
映画とは"嘘"である。
このエピローグシーンやハンクがアルマのアパートを出ていくシーンに出て来るハエはまさに死の象徴である。
アルマの告白と病に倒れるシーンをクライマックスとすれば、当然ハンクはあの後自殺し、アルマはあのまま帰らぬ人になるというのが筋道であったと思う。
ラストの「カット!」という声を入れることは監督の茶目っ気なのか、はい!嘘ですよ!という表明なのか。
やっぱりグァダニーノの映画はアートなんだよなぁ。
相変わらずフィルム撮影にこだわっていて色彩が美しいし、急なカメラパンやズームなど不穏な動きで神経を逆撫でしてくるような演出は風変わりで良い。ここだけでグァダニーノ作品だとわかる。
それにしても初恋相手の写真と相手を自殺に追いやったニュース記事の切れ端をあそこに隠すか?!笑
本作で1番気になったところだが笑
ハイデガーは浮気相手の扱いがクソというセリフには笑った。
ハントとは?
アフター・ザ・ハント――秒針が告げるもの
心理スリラーと解説にあったが、まさにその通りだと思う。
哲学や心理学、あるいはそれに類する学問は数多くあるが、名を残した哲学者たちが時代ごとに新しい考え方を生み出してきたように、「真理」は時代によって変わるのだろうか?
そして、未だにこれと断言できるマニュアルは存在しない。
強いて言えば、ブッダが説いた「空」のように、一本のボールペンは石油や金属、太古の元素、そして宇宙の「縁起」によって成り立つ。
すべては関係性の網の目にあり、「因果」はあるが「意味」はない。
この映画は、その不確かさを現実の刃で突きつける。
哲学を教える大学教授アルマに訪れたのは、うわべの学問ではなく、血の通った「現実」からの挑戦状だった。
タイトルにある「ハント」は、銃を持つ狩りではない。
それは、言葉で人を追い詰める現代の狩猟だ。
SNSや記事が、些細な言い合いを炎上させ、第三者のジャッジメントを呼び込む。
この映画は、その攻撃性を冷徹に描き出す。
アルマには過去がある。
かつて愛した人を「自分と同じだけ傷つけたかった」という理由で、彼女は嘘をでっち上げた。
その嘘は、男を死へ追いやり、アルマを哲学へと駆り立てた。
だが、その哲学は鎧となり、やがて穿孔性潰瘍という傷口を生む。
思想は現実に穿たれたのだ。
物語の核心は、マギーがハンクにレイプされたかどうか――その事実が最後まで語られないことにある。
この沈黙は、アルマの過去と響き合う。
「本心を語ることは正義なのか?」
「沈黙こそが正義なのか?」
映画は答えを与えない。
観客に委ねる。
そして、冒頭や節目に差し込まれる「秒針の音」それは、目に見えない時計ではなく、心の奥で刻まれる猶予の終わりを告げる音だ。
アルマが告白へ向かうためのカウントダウン。
最後の審判を待つ音。
現代社会では、「それが私の本心だ」という言葉が権利としてまかり通る。
だが、その本心を実行した瞬間、それは悪になる。
若い世代の「弱さ」と「甘え」、ネット記事による攻撃、事実確認なき言葉の独り歩き――。
この映画は、その混沌に一つの解決策を示す。
告白と懺悔。
宗教やドグマを超えて、人は過去を清算しなければならない。
それが「正義」なのだと、映画は静かに語る。
人は誰もが反省すべき過去を持つ。
その澱を抱えたまま生きるより、勇気を出して告白し、懺悔すること。
それが、人間社会の新しい門出になるのだろう。
藪の中
ノイズ…
緊張感を煽る演出の効果音がとにかく騒がしかった。登場人物の誰もが共感できない位、嘘つき、嫌味で皮肉な嫌な奴ばかり、人間のエゴ丸出し、そんな人間ばかりではないだろうと思ってしまう。哲学的議論が多く、難解さもあり、万人受けはしない映画。
キルケゴールが聞いて呆れる。地雷系ムービー❤
なんだか良くわからない。
何悩んでんの?
相関関係が全く分からない。
ともかく、古臭い男目線で、女性の贖罪としての過去を語ろうと試みている。だがしかし、女性心理という物をこの演出家全くわからない。若しくは、分かろうとしない。若しくは、無視している。
その上、男については、配偶者(アルマの夫)は善人すぎる。それでいて、ハンクは開き直りすぎるだけでなく、暴力的な馬鹿そのもの。つまり、デフォルメの範疇をかなり逸脱している。
つまり
性別に関係なく、心理的葛藤が、デフォルメを逸脱した男だけの都合で動いている。簡単に言えば、演出家の自己都合。目的は分からないが。(まさか、実話?)
とにかく、こんな奴等いない。
こんな奴が哲学(実存主義、西洋哲学)教えられないだろ。
言うまでもなく、哲学者がファッ○の連発。言葉が悪すぎる。キルケゴールが聞いて呆れる。
実存主義的じゃないだろ。それで挙げ句の果ての学部長は無い。ご都合主義にも程がある。
ともかく、五年後迄描いて、トドメを指している。
マギーちゃんそしてアルマさん
キルケゴールを学ぶのも良いが、その前に保健体育の授業や道徳の授業にも出ようね。
ターですよ。ターをリスペクトだね。着ている服も似てる。
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