落下の王国 4Kデジタルリマスターのレビュー・感想・評価
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魂を救う物語の力
子どものころ、海外の昔話を収めた絵本全集が家にあり、毎晩寝る前にそれを読むのが日常で一番の楽しみだった。「落下の王国」は、そんな物語の原体験を思い出させる作品だ。
撮影での大怪我と恋人との別離に絶望した主人公のロイは、骨折で同じ病院に入院していた少女アレクサンドリアに即興の物語を語って聞かせ、彼女の気をひく。彼女に病院の薬棚からモルヒネを持って来させ、服薬によって自らの命を絶つためだ。
少女の名前からの連想だろうか、アレクサンダー大王についての語りから入ってゆく物語世界の絢爛なビジュアルは、ロイの現実の暗さとは対照的だ。主要な登場人物は現実でアレクサンドラと面識のある人々の顔をしているので、あの壮大な光景は彼女が想像したものだろう。これが本当に素晴らしい。
本作自体、ロイの物語のごとく明確な脚本がなかったため出資者が集まらなかったそうだ。ターセム監督は自己資金を投じて、CMの仕事をしたロケ地で少人数で少しずつ撮るなどしつつ、4年に渡り20か国以上でロケを行なったという。そんなインディペンデントな作品とはとても思えない映像のスケール。
石岡瑛子の衣装が、この物語の世界観を決定づけている。昔の寓話らしい雰囲気があり、それでいてどこか近未来的に見える瞬間もある。エキゾチシズムが漂い、非現実的で、この感覚は異国のおとぎ話の楽しさそのものなのではと思う。タージマハルにもコロッセオにも負けず、壮大な背景を引き立て物語のイメージを牽引する強さは、石岡瑛子ならではだ。
そうした映像のインパクトに負けず劣らず驚いたのが、アレクサンドリアを演じたカティンカ・アンタルーの愛らしさだ。いや、なんだこのかわいさは。こんなかわいい子からお話をせがまれたら、ロイみたいな下心がなくてもいくらでも語ってしまいそうだ。
重要な役どころをあんなに自然に演じていたのに、当時全く演技経験がない5歳の子どもだったというから驚く。パンフレットのプロダクションノートを読むと、監督の演出の妙だなと思った。カティンカが女優としての自意識を持たないうちにアドリブで撮影する、彼女の勘違いも演出に生かす(モルヒネのEを3と勘違いするエピソードは実際のカティンカの勘違いから生まれた)など。是枝裕和並に子役の活かし方が上手い。
ラストの、サイレント映画のスタントシーンのラッシュで流れるナレーションは、撮影から数年経ったカティンカがなんと即興で当てたものだそうだ。いや、すごい。もう1回観たい。
観る前は宣伝のイメージだけで、もろアート系の難解な映画だったら寝てしまうかも、などと思っていたのだが、よい意味で予想を裏切られた。ロイの即興とアレクサンドリアの想像が織りなす美しいおとぎ話、さらにその背景には、絶望に堕ちたひとりの青年の再生の物語があった。
ロイの語る物語が魅力的なのは、その裏に死をこいねがう彼の心があるからだという気がした。足が不自由になった彼は、アレクサンドリアを惹きつけ、言うことを聞かせなければ死ねない。「アラビアンナイト」のシェヘラザードとはある意味真逆の動機だが、死を希求する心が物語に命を宿らせるというのは皮肉めいていて、なんだか切ない。
ところが、アレクサンドリアとやり取りをしながら物語を紡ぐことで、物語の展開もロイ自身の心も変化してゆく。少女の無邪気さに心を開き、悲劇を頑なに拒む彼女の純粋な思いに触れ、彼は生きる力を取り戻すのだ。
ターセム監督は、自身の失恋がきっかけで、20年ほど構想中だった本作の製作に動き始めたという。ロイの失恋は、監督の経験を反映させたものだ。
モノクロ映画のスタントのコラージュシーンは、ロイのスタント俳優としての復活を想像させると同時に、この映画を作ることによって失恋の痛手を癒した監督の心から溢れる映画愛、現代の映像表現の礎となった先人へのリスペクトをも感じさせる。物語の筋と直接関係ない映像なのに何故かぐっときた。
ロイはアレクサンドリアとのやり取りによって紡ぎ出した物語に救われ、「これを作らずには息もできませんでしたし、私は生きていけませんでした」と語るターセム監督は「落下の王国」という物語に救われた。
本作の圧倒的な映像美は、言葉よりもはるかに雄弁に物語の持つ救済の力を語る。この印象と感動は、映画であればこそ。
映像の面白さは現実世界の奇観を凌駕したか
初公開からほぼ20年を経てこれほど評価が上がった映画も珍しいし、4K版のリバイバル上映が連日満席になっているのも素直に凄いことだと思う。石岡瑛子の尖りまくった衣装を筆頭に、再評価されるのも当然ではあるのだが、正直なところ、ちょっと借り物感が強すぎないかという気はする。世界各地の奇観をめぐって撮影された映像の壮麗さが目を引くのはわかるのだが、たまたまそのいくつかに旅行したことがある者として言うと、映像のマジックに見惚れるというより、本当にすごい景色を見つけてきて、そのまま撮影している印象なのだ。もちろんロケーション選びと石岡瑛子要素によって誰も見たことがない映像を作ろうという意図はわかる。ただ「この景色を映画ではこんな風に見せるのか!」という驚きはなくて、しかもほとんどの景色は世界的な観光地であり、例えばクライマックスの城でのバトルの舞台に日本の姫路城とか高野山とかなんなら宮島とか平安神宮とか浅草が選ばれていたら、われわれはどう感じただろうかと思ってしまう。たぶん日本の観光地に石岡瑛子の服を着たアイツらがいればオモロカッコよくて笑ってしまう気がするが、同時にトンチキなエキゾチシズムも感じるのではないか。象徴的なのがバリ島のグヌン・カウィ寺院をバックに儀式としてケチャが行われている場面で、ケチャが持つ文化的な文脈は完全に無視した上でのそのまんまのケチャなので、わあヘンな芸能があって面白い!そのままやってみて!という植民地的見世物精神だと言われてもしょうがないとは思うのだ。考えたらターセムは『ザ・セル』でもダミアン・ハーストの輪切りアートをそのまま再現していて、少なくとも独自のビジョンを持った映像の魔術師というより引用とアレンジの人であり、ときには盗用スレスレなんじゃないかという気がしてくる。少なくともこのやり方はこの20年で世界的に許容されなくなってきており、大なり小なり時代の狭間だったからこそ実現できたアプローチだった。本作は有り体にいって、有名な世界遺産と奇観のパッチワークだ。とはいえ映画表現に引用はつきものだし、あれもこれもダメだと言いたいわけではなく、ただあまりにもターセムのやり口はひねりのない借用なんじゃないかという疑念があるという話。物語的には弱い部分があって、それを映像の凄さと映画愛(これについても思うところはある)で補っているような作品であるだけに、手放しに絶賛はしづらいし、実際映像的な部分での興奮が現実での記憶や体験に勝ることはなかった。と、こう書くともはや「俺はあそこもここも行ってますマウント」と思われることも承知していて、「いや、すごい映画だしすごい映像なのはわかった上で、ターセムという映像作家の本質を考えたいんです」なんだけど、それも言い訳として感じ悪く取られるとは思う。だから一切改行せずに文字を詰め込んで読んでくれる人を限定するような書き方をしています。そこはちょっと腰が引けている自覚はあって申し訳なく思っているのですが、ただこの映画がきっかけになって、見た人の気持ちが映画の中にとどまるよりもさらなる世界へと広がっていったらいいなと心から思っています。
タイトルなし(ネタバレ)
20世紀初め、映画はモノクロ・サイレントの時代。
スタントマンのロイ(リー・ペイス)は、端から飛び降りるスタントで大怪我を負い、ベッドに横たわっていた。
下半身は動かない。
恋人も主演俳優に奪われ、自暴自棄になっていた。
彼のもとを訪れたのは、オレンジ収穫の際に落下して鎖骨を骨折した5才の少女アレクサンドリア(カティンカ・アンタルー)。
アレクサンドリアに請われるまま、ロイは物語を語りだす。
それは、王への復讐を誓った者たちの物語だった・・・
といったところからはじまる物語。
初公開は2008年。
まだまだ仕事が忙しかった頃。
ターセムの前作『ザ・セル』はそこそこ面白かったが、本作はストーリーがなさそうで、そそられなかった。
今回鑑賞したら、予想外に豊潤な物語があった。
ロイの語る物語は次から次へを場所を移動しながら進んでいく。
それは、少女の願いを取り入れているから。
この「物語の変容」が映画のアクセントとなり、絵巻物・紙芝居的な構成から一段、映画を進化させている。
世界各地でのロケは、文字どおり息をのむほど。
カットの繋ぎごとに変化していく後半は、驚嘆するしかない。
とはいえ、本作、初公開時に鑑賞していたならば、これほどの感銘を得たかどうか。
観る側に余裕がないと楽しめない作品のようにも思えるし、CG全盛の時代であることも大きいかも。
現在の年齢、時代になってから観てよかったなぁと感じた次第。
アレクサンドリアが長じてから数々の映画を観、その中にロイを見出す(実際には、いないのだが)のエピローグが泣かせます。
胃もたれするほど圧倒的世界観
これは…独特だね。
独特の世界観だし…見てる側の空間も独特の空気感になるね笑
本当に2006年公開の映画なの…?もっと前の映画の雰囲気を感じる…独特すぎて。
※見損じていたり記憶違いや的外れな解釈などあるかもしれないですがご容赦を!
現実とロイの語る物語の世界を行き来しながら進むストーリーは後半になるにつれ現実のロイとアレクサンドリアの存在が物語に干渉するようになる。
だからといって物語と現実の境が曖昧になって不思議の国的な展開になるというようなことはなく、二人の語り部と聞き手というアイデンティティが崩れることは最後までないし、狂人にもならない。
あくまであの圧倒的な映像美の数々はロイの語る物語を映像化したものであって非現実。
二人が実際に見ている景色ではない。
そこがミソだなと思いました。
この映画の見所は間違いなくロイの語るあの非現実世界だろうと思う。
色彩、構図の面で完璧と思えるような超センスのカットが山ほどあった。
どこを切り取ってもきっと画になる。
シュルレアリスムとか印象派の絵画を見てるみたいな…。
1つのカットでグッっっとこの世界に呑まれるようなハイセンスな画面構成で美術的に見応えがある映画だと思う。
でも核は目が行きがちな物語の世界じゃなくて、現実でのロイとアレクサンドリアの心の交流だと思う。
ずっと物語の世界と二人が交流する現実でのシーンは画面の色彩や音楽の面で明確に分けて描かれてた。
物語の佳境では二人の存在が登場人物の一部になって境が曖昧になったように思えるんだけど、そうじゃなく物語の世界と現実の世界の描写の仕方は最後まで変わらない。
二人が現実と非現実を見失った、または同一視しているわけではないということ。
ロイがアレクサンドリアに物語を語っているというシチュエーションは揺るぎなくて、二人は二人で紡ぐ物語が"物語"だって理解してる。
だからこそ、なのかなあ…。
物語だからこそ、非現実の物語だという前提があるからこそ、ロイは黒山賊という自分を投影した物語の登場人物の言葉としてアレクサンドリアが投影された山賊の娘に弱った本心を吐いたのかなあ…。
ロイはアレクサンドリアに自分はこの物語をハッピーエンドに出来ないから続きは別の人に話してもらえ、みたいに言っていたよね…。
アレクサンドリアはそれに対して二人の物語でしょ!って言っていたような…。
本当は幼い子供に仄暗い感情を内面に抱えてる自分が作った物語なんて聞かせて良いものじゃないと思っていたんじゃないかな。実際に登場人物を次々に退場させてしまったし…。
でもそんな弱気になった大人なロイのしょぼくれた想いをアレクサンドリアは物語の続きを聞かせて!一緒にいたい!大好きなの!って純粋で真っ直ぐな想いでぶっ飛ばした。
ずっと良くない方向を向いてたロイの心だったけど、アレクサンドリアの純粋でただただ真っ直ぐな心がロイの心を良い方向に振り向かせた。
私はネガティブなストーリーは苦手だから。
この映画には始まりから終わりまでタイトルにあるように何かしら"落下"するシーンが随所に挟まれる事と同時に、ずっとうっすらと陰鬱な雰囲気が漂ってた。
それで正直嫌な予感もしたけれど。
ストーリーが一転二転して最後にはああ〜見て良かったなあ〜ってその予感が外れるような解釈が出来るラストを迎えたことに安心したし、クライマックスのロイとアレクサンドリアが本心をぶつけ合うシーンで思わず涙が溢れました。
泣く映画やったんや…(白目)
めっちゃ良い映画だったんじゃ…?
ド直球女児に根負けしてもう一回生きてみる男の映画って言われたら元気出るよ。
アレクサンドリア役の子役ちゃんもめちゃくちゃ芝居上手くないですか?
ほっぺたふくふくしてて笑顔も可愛いしさあ…!
ロイの語る物語の登場人物も面白いし…衣装とかもまじオシャレ…!!
ちょっと一回じゃ全部を見切れないんですけど…!!!!!
えー!!この映画の円盤が廃盤だなんてウソでしょ?!!!
あんまりだよ…!
もう一回見たい…!!
ポップコーン食べ過ぎて胃もたれしながら見たからもう一回見たい…!!笑
円盤はBlu-rayで再販お願いします…!!!
ちゃんとエンタメ性もあり‼︎
映像が凄くて、名作‼︎と言われている昔の映画って映像は凄いけどストーリーが難しくて、ちょっと眠くなるイメージがあったのですが、今作は大筋のストーリーはとても分かりやすいし、前半からエンタメ性もかなり色濃くて、とても引き込まれて観ることが出来ました
6人揃って冒険に出るワクワク感と、
印象的なビジュアルの数々に序盤から観入ってしまいます
最初に6人のバックボーンをちゃんと説明してくれるのが感情移入しやすくてありがたいです
ここの部分がちょっと七人の侍っぽさを感じました
その後もそれぞれのキャラクターがカッコよくて描かれていたり、
壮大な自然を舐め回すようにカメラが映す映像、凄い人数のエキストラの映像には映画館で観れてよかったと感じさせてくれます
映像もまさに圧巻ですが、
病院でのストーリーも凄く好き
ラストの現実と作り話がどんどんリンクしていくシーンが感動的すぎます
どちらのストーリーもおろそかになる事なく、意味をなしてくる。
あのシーンは本当に映画史に残る名シーンと言っていいんじゃないでしょうか
聞いてたよりもちゃんとストーリーしていた
前評判を聞いて、もっとこう、台詞少なめの高熱のときに観る悪夢のような映画を覚悟していたけれど。
評判通りの美しい映像だけでなく、ストーリーも時代考証も割としっかりしていてわかりやすかった。
あらすじを読まないで見ての理解度はわからないけれど、あらすじさえ知っていれば「なるほどね」となるくらいの導入。
お話の内容が鮮烈であればあるほど、間のままならない現実(どこかで大人になるしかないと突き付けられる青年ロイ、移民の子で幼いながらオレンジ農園で働く少女アレキサンドリア)もより浮き彫りになっていく。
個人的には随所に散りばめられた一次創作あるある(後付の伏線、思考がそのまま台詞になる、ご都合主義の改変など)かツボにきました。
そして一次創作書きとして最後の最後は主人公達のジョジョの第3部かという死に様以上に。
自分の生み出した愛着のあるキャラクターを自己投影した物語の中で殺さなきゃいけない精神状態のロイに感情移入して泣きました。
献身的な猿の彼女が、彼にとっての男を踏み台にする女ちたちのアンチテーゼだったのかなとか。
人生の一本に出会った
20年近く前の映画が再上映され話題になっていたので見に行った。
聞くところによると映像美がとにかくすごいとのこと。
なら、そのすごい映像美とやらを見せてもらおうか、
と、話にはたいして期待せずそんな気持ちで……正直言えば舐めていた。
まず映像だが、実際――すごい。
散々言われているように遠景でも迫力のあるロケーション、
深い青空と対照的な無限に広がる砂漠にたたずむ五人の復讐者達の絵は圧倒される。
恥ずかしながら知らない場所もあって
世界にはこんなところが実在するのかと驚きと共に息を呑むシーンが目白押しだった。
前半はこの映像美で間を保ったようなものである。それでいて退屈しないのだからすごい。
だが私が本作で惹かれたのはストーリーだ。
完全に舐めていたが、非常に面白かったし、感動した。
面白いと思った理由はこういうタイプの作品の類型は
あまり多くないことがひとつ挙げられる。
例えば事件が発生してその解決に奔走する刑事達の話なら、
これは当然どういう形であれ終わりは事件の解決が着地点になる。
しかし自殺志願者が少女に作り話を聞かせるストーリーだと、
実際に自殺は達成された上で女の子が後年に続きの話を作り出すなどの、
突飛な年代ジャンプも起きそうで、色々な方向性の締め方が想像出来てしまう。
なんなら途中で反転して、少女を作り話で救う物語になるのかな、とまで思っていた。
どうなるか読めない、だからこそどうなるかなと締め方には興味津々だった。
そして途中で語られる物語は壮大な映像美と、
陰惨な復讐劇というストーリーとは対照的に、
子供に向けた作り話であるという点から端々に愛嬌がある。
作中に出てくるキーワードは、綺麗な蝶々や入れ歯など、
話を聞く少女、アレクサンドリアが理解しやすく楽しみやすいようにチューニングされていて
ロイの気遣いがうかがい知れる。
特に作り話内で司祭は悪役として登場したのに
「司祭様はいい人よね!?」というアレクサンドリアの要望により、
打って変わって「そう、もちろんいい人だとも、鋭いね。この棒も蛇退治に使うんだよ!」という
急展開は可愛らしいやら可笑しいやらでとても大好きなシーンだ。
(ただこの作り話という点を掘り下げると、
もーっとめちゃくちゃな展開にしたっていいわけで、
そう考えると表向き真面目な復讐譚でもギャグやコメディをより散りばめた方が好みとは思った。
個人的にはまだ大人しいなと)
だが何より胸を打ったのは終盤だ。
何度となく成功しかけた自殺は失敗し、少女には怪我まで負わせ、
ロイはすっかり自暴自棄になり、
作り話は登場人物が次々に死んでいく露悪的なものになる。
どうして殺すのと問うアレクサンドリアに、
仕方ないんだと語り、物語はバッドエンドへ向かう。
もうやめてと泣いて懇願するがロイは止まらない。
そこで出た台詞が忘れられない。
「別にいいだろう! 僕の話だ!」
「二人の話よ!」
この一言が今までのどの映画体験でもなかったほど、
私の胸に深く突き刺さった。
そうなのだ、物語を紡ぐということは
作り手が受け手に何かを語ることだけではないのだ。
作り手と受け手の二人で共に夢を見ることなのだ。
アレクサンドリアの場合は自分が作中に登場までしているのだからその思いはひとしおだろう。
もちろんこれは物語だけを指すわけではない。
「僕の話」とは「僕の人生」のことだ。ロイの物語だ。
登場人物の死は自暴自棄になったロイ自身の、自分の人生への諦観の表れだ。
アレクサンドリアはその自傷行為を(無自覚ながら)咎め、
それはとても素敵なものよと、だから捨てないでと、ひしっと離さないようにしている。
彼女にとってロイと共に語る物語は――ロイとの日々はもう宝物なのだ。
もうロイの物語に登場した以上、ロイの人生はロイだけのものではない。
これが作中示唆されたように、ロイの魂の救済へと繋がっていく。
このとても無垢で美しい言葉が、深く深く私の胸に刺さって抜けない。
おそらく私以外の人間が、同じ場面で同じように感動するわけではないと思う。
というか私も10年後に見たら、いやあの時はあんなに感動したのになぁ…と首をかしげるかも知れない。
それでも今、この瞬間、私にとって今年見たベストを越えて、
人生においてもベストの一本に出会えたと思った。
その後のオチもまた良い。
映画の中のスタントマン、あれが全てロイというわけではないのだろう(おそらく)。
だがそれをロイだと思い無邪気に喜ぶアレクサンドリア。
たとえそれが勘違い、夢のようなものだとしても、
彼女にとってはその姿こそがまぎれもない真実であり喜びなのだ。
それはハッピーエンドで締められた五人の復讐譚も同じである。
私の胸にとても温かいものを残してくれた『落下の王国』は、
物語という夢を見る素晴らしさを語った名作だ。
私はめちゃくちゃ面白かった。でも、合わない人・理解できない人がいるのも分かるし、今のご時世で放送や配信が難しい理由も理解できた。
※本内容は「ネタバレなし」「補足」「ネタバレあり」でわかれています
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ずっと『落下の王国』のことを考えている。
そもそも、この映画は大衆向けのエンタメではない。楽しめる人は限られると思う。
・ある程度映画を見慣れていて
・ある程度の状況把握能力があり、妄想能力があり、行間を読むことに慣れていて
・妄想や考察を楽しめる
こういうタイプの人には向いていると思う。
反対に
「今なにが起きてるのか分からない」
「ちゃんと説明してくれないと理解できない」
みたいな人は向いてないし、邦画しか見ない人も向いてない(配役が分からなくなるので)
◼️物語自体はシンプル。
落下による怪我で入院した少女アレクサンドリアと、スタントマンの仕事で落下による怪我で入院した青年ロイ。
ロイは「ある願望」を持っていて少女を利用するために、物語を通じて仲良くなっていきます。
ただこのあらすじも
・この時代や建物の説明
・登場人物の生い立ち
・なぜ彼らが病院にいるのか
・感情の言語化
といったことの「言葉での説明」は一切用意されてません。
全部、観客側が察して気づく必要があります。
さらに登場人物の妄想や視点によって場面は行き来し、
「理解した」と思ったら次の場面へ進みます(しかもそれも察しが必要)。
感情の揺れも表面的ではなく、含みが多くて難しい。
当時の差別や移民問題といった、ある程度の前提知識がないと理解しづらい描写も多く、たとえば「インド人」と紹介されていた表現が、もともとは「インディアン」という差別的な言葉だったこと。
あとは「なぜ子どもが通訳をしているのか」という疑問など、「移民の親子の場合、子供の方が言語能力度が高いため、親の通訳になりがちである」であるという知識がないと、意味不明な状況になってします(私は一緒に行った友人とすり合わせを行なったり、映画終了後に設定を思い返して「あっ、そういうことか」と気づいたりして気づきました)
◼️評価について。
中盤までは
「映像は美しい。でも皆が絶賛するほどか?」
と感じていました。
しかし、終盤にさしかかったところで一変します。
「あの小さな違和感は、全部伏線だったのか」
そこからの怒涛の展開。
点と点が一気につながり、最後のたたみかけは本当に凄かった。
分かりやすく提示してくれている部分もあれば、
あとになって落ち着いて理解したり、
考察を読んで初めて気づく部分もありました。
鑑賞後、友人と「ここってこうだよね」と語り合えたのも含めて、
とても良い映画体験でした。
◼️キャラクターもすごく魅力的でした。
特にアレクサンドリア。
「子どもとはこういうものだ」という大人の枠にはめず、
子どもの賢さ、純粋さ、純粋でなさ、含み、優しさ、強さ。
そして、それを取り巻くどうにもならない社会と、大人たちの優しさ。
◼️まとめ
貧困も差別も絶望も当たり前に存在し、
死はすぐ隣にあって手を伸ばせば簡単に届く距離にあるのに、
死を美化しない描写が本当にすごい。
絶望の先の希望の話だった。
「汝、落下を畏れるなかれこの美しき世界を仰ぎ見よ」
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◼️補足(上記の文が少し高尚っぽく見えるかもしれないと思い、補足します)
上記で「こういう人は楽しめない」と記載したのは
私の親が「分かりやすい大衆作品」しか楽しめなかったことや、
友人に「洋画は顔と名前が覚えられないから見ない」と言われた経験からです。
落下の王国を観て
「親が見たら『よく分かんない』って映画館出て行っただろうな……」
と推測しました。たぶん、私の親はそうしたと思います笑。
今回は「行間を読むのが好きな友人」と一緒だったからこそ、深く楽しめました。
いろいろな人と関わってきて思いますが、
漫画・小説・映画といったエンタメを楽しむこと自体にも、適性はあると思っています。
「この言葉の意図は何だろう」
「この行動はどこにつながるんだろう」
と考え、妄想し、思考を巡らせることを楽しめる人は、実は少数派だと思います。
同じ日本人(実写)の外見で、映像だけではなくセリフですべて説明してくれて、感情も分かりやすく提示しており、余計な展開を挟み込まない。
そうしないと理解できない層は、思っている以上に多いと感じます。
(これが良い・悪いという話ではなく、娯楽を楽しむ上での好みの違いです)
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■ネタバレありの感想
子どもを利用した自殺補助、奴隷問題、移民問題、差別表現。
いやーーーー。これは確かに、配信も大型映画館での放送も難しい作品ですよね。
以下、考察を含んだ感想です。
①ロイの言う「みんな知っている」
この「みんな知っている」は、出会いから最後まで3度ぐらいにわたって出てくる言葉です
・冒頭(アレクサンドリアがオレンジを投げたこと)
・中盤(アレクサンドリアが嘘つき)
・終盤(アレクサンドリアがロイの自殺補助のために薬を盗んだこと)
などを指していて、だからこそ最初に「みんな知っている」という言葉があったため、ロイの冒頭の「みんな知ってる」は「アレクサンドリアの悲劇(生い立ち、ケガした理由、英語を読めること)」も、みんなが知っている最初からアレクサンドリアを利用するために近づいたのかな?と思いました
②アレクサンドリアの嘘
アレクサンドリアが病院で、母親に向けて怪我の状態を通訳する場面。
アレクサンドリアは英語が堪能なのに、
「大したことない」
「ちょっと痛いだけですぐ治る」
「心配いらない」
と、わざと軽く訳し、英語が分からないふりをしていたそうです。
※母親はずっと「娘は大丈夫なのか」「どれくらい深刻なのか」「すぐ帰れるのか」と、娘のことしか気にしていなかったそうです。
もしかすると、
・薬を3錠以外捨てたこと
・薬を渡すふりをして砂糖菓子を食べさせたこと
これらも、
あの通訳の場面と同じ「分からないふり」の延長だったのではないか、
と感じました。
③コメディ映画か否か
私と友人は「青春映画」と思ってみていましたが、割と多くの人が「コメディ映画」と評していると知りました。
「この作品を見てコメディ映画だって思う?」と戸惑いました。
でも、
・ネックレスに書かれた長文
・猿が地動説を発見する
・誓いは嘘で、右手は嘘のポーズをしていた!
・司宰は善人!嘘!やっぱり悪人です!
・捕まっている時の結び方がリボン結びだったり
これらを思い返すと、
「確かにコメディとも言える……!」
と衝撃を受けました。
あれらの表現は「物語内の話」であることと「感情に飲まれた人間の自暴自棄」として受け取っていましたが、
改めて考えると、確かに可笑しさも含んでいたなと思います。
④配役がわからない
衣装が素敵な分、衣装のインパクトが強くって、衣装はそのままに配役が変わったシーンで混乱しました。俳優さんの顔を見て「この俳優さん、さっきの人と変わっている…?」と悩んだり。
ただ、その“分かりにくさ”自体が、この映画の現実と幻想の境界の曖昧さにもつながっているように思います。
⑤映画ガチ勢しかいなかった
過去1マナーが良かった。
エンドロール流れた時、誰も立たないし、スマホ出さないし、隣の人とも話さない。最高だった。
また思い出したり、語りたくなったら追記するかもしれません。
ひとまず今回はここまで。
(2025.12.14)
白い服の人々が回転するシーンが一番のお気に入り
テレビ放送を録画で観て、あまりの美しさにうっとりしてから年月が経ち、デジタルリマスターで映画館にかかると聞いては、見逃してはならない。ということで、映画館へ、走ったー。良かったー。やはりこの作品は、映画館で観た方が数倍よいと思う。大満足だー。
ストーリーは至ってシンプルで、ある意味おとぎ話と捉えても良い。子役の表情や仕草も自然で、ぷくぷくのほっぺがかわいい。偶然にも入院して出会ったアレクサンドリアとロイは、おそらく退院後に二度と会うことはなかっただろう。しかし、彼らの出会いは、二人の心に刻まれたものだった。こんな短い期間の、淡い交わりが、人を変える。人生とは、交差点でいろいろな人と一瞬目が合うような、そんな小さなことが積み重なってできているんだろうな。
とにかく風景が美しい。構図もこだわり抜いている。衣装も俳優を引き立てて、かつ主張も怠らない。白、赤、黒、青、黃、緑の色の鮮烈なこと。これだけ磨きこんだ美を、見ているだけで幸せを感じる。魔法にかけられたように、ポーっとして映画館を出た。善きものを見た。
最大の見どころは華麗な映像美だがそれだけじゃない
「果てしなきスカーレット」を見て以来、他の映画を見るときに共通点があると気になるのですが、この映画でいえば「映像美」と「唐突な場面転換」、「復讐」あたりでしょうか。まあ、こちらはあちらと違って映像に華があるので雰囲気はだいぶ違う気もします。
石造りの建物を背景に複数の人物を配置して見栄えのいい構図を作る、というのは「教皇選挙」にもありましたが、実に隙のない絵作りで大画面で見ると壮観ですね。
復讐を目指す一団の物語はいわば劇中劇で、役者のロイが子供のアレクサンドラに聞かせるための創作話なので、前後のつながりなどが適当なのは一応説明がつきます。なぜか進化論のダーウィンが出てくるところで、たいていの人はこれが架空の話だと想像はつくのではないでしょうか。
子供のアレクサンドラがそんな話でも感情移入して泣いたりするのはわかるとして、終盤はロイ本人までも涙ながらに語るのはなぜだろうと思ったら、自身の経験も入り混じった話だったからなのかと後で気づきました。
ロイは失恋の痛みを乗り越えて役者として大成し、アレクサンドラも家族を失った悲しみから立ち直る、といういわば成長の物語。お互いが相手の痛みをいやすという役割を担っていて、そこには大人も子供も関係ない人と人とのつながりの尊さがあるように思います。
あふれるサイレント映画愛。「物語」を紡ぐ敗残の主人公はターセム監督の分身に他ならない。
『ザ・セル』のターセム・シン監督が、ほぼ自主製作映画として自ら資金を集め、4年をかけて作った極私的なカルト・ムーヴィー。
このたび4Kリマスターが完成して、武蔵野館で再上映がかかった。
これは観ておかないとと、土曜日の夜の回に開始直前のタイミングでのこのこ行ったら……上映三週目にして、なんといまだに大入り満員! 残っていたのは最前列左の「最後の一席」だけ! 場内はおおむね若者たちが占めていて、『落下の王国』の斬新で衝撃的な映像センスが、20代の若者にしっかり刺さっているのを確認。いやあ、素晴らしい!
原色を用いたド派手な衣装の色彩美と、実在する衝撃の絶景を用いた壮大なロケーションがウリの、映像センス炸裂の一作。
とにもかくにも絵柄の強烈さとポージングのカッコよさが図抜けているので、それだけを目的として観てもまったく問題ないくらい、ヴィジュアルインパクトは凄まじい。
ストーリーは、面白いといえば面白いのだが、想像以上に根暗だし、難解だし、語り口がとつとつとしていて頭に入ってきづらい。
祖型としては、おねだりされた大人が子どものために語った幻想譚が、しだいに現実とオーバーラップしていくというルイス・キャロルの『不思議の国のアリス/地下の国のアリス』に近い物語構造をとる。
『プリンセス・ブライド・ストーリー』のように「語り聞かせ」から冒険譚が展開していくつくりで、物語の中に現実の登場人物が別の役で出てくる仕掛けは、他の映画でも何回か経験したことがある。
ただ、似たようなナラティヴを愛用するテリー・ギリアムやジュネ&キャロあたりと比べても、圧倒的に戯作味やサーヴィス精神が足りないので(笑)、やっぱり観ていて結構退屈するし、睡魔に襲われる。語られる6人の英雄の冒険譚自体が、きわめて断片的で、思いつきのまま迷走していて、そのまま「人の悪夢を追体験させられている」かのような内容なので、さすがにだんだん疲れてくるんだよね。
ただ、六英雄のキャラ立ちはすごい。
まんま「ゴレンジャー」みたいなんだけど(笑)、衣装デザインの石岡瑛子の脳内で、日本の戦隊もののイメージがあったんだかなかったんだか。
まず、リーダーの「黒い山賊(バンデット)」がめちゃかっこいい。
(容易にテリー・ギリアムの『バンデットQ』が想起される。)
軽くハードゲイみたいな恰好なんだけど(笑)、エッジがきいててスタイリッシュ。
とてもめそめそしているベッド上のロイと同じ俳優が演じているとは思えない。
彼の仲間も濃ゆい。爆弾のエキスパートのイタリアン(どっちかというと顔がコサックっぽい)とか、めちゃくちゃスタイルの良い奴隷あがりの黒人戦士とか、燃える木(旧約聖書のモーゼと燃える柴を否応なく思い出させる)から生まれてきた神秘家(ミスティーク)とか、実在の進化論の学者である「チャールズ・ダーウィン」(&猿)とか、緑の服を着た「インド人」とか。この「インド人」って、ロイは明らかに「アメリカのインディアン」のつもりで話しているのに、アレクサンドリアの脳内では「インド人」として再生されているんだよね。なんて小粋なギミック!
彼らの活躍の舞台となる「絶景」がまたすごい。
6人が出てくる前、ロイはアレクサンドリアに、彼女の名前からの連想でアレクサンドロス大王が「水を捨てちゃう」エピソードを披露するのだが(このシーンはのちに六英雄のエピソードとして再現される)、その背景になっているナミビアのデッドフレイからして、もう声を喪うような絶景ぶり。圧倒的な赤い砂壁と、卑小な人間たちとの対比。こんな風景、ほんとうにこの世に存在するんだなあ。
あと、なんといっても衝撃的なのが、終盤で6人が死闘を繰り広げる「階段造の無限城」みたいな謎空間。あのチャンド・バオリって、インドにある公共井戸なんだってね!! 井戸があんな恐ろしい悪夢の幾何学迷宮に変容するなんて!!
他にも、フィジーのバタフライリーフや、ジョードプルの青い町もビジュアル・インパクト十分。インドのあちこちにある王宮や城が、冒険の舞台として巧みに使用されている。
六英雄が場面ごとに各国の世界遺産を移動していく展開は、さながら「ストリートファイター2」や後発の格闘ゲームにおけるバトルフィールド選択のようで、ちょっと熱くなる。キャラクターの雰囲気は「アサシンクリード」と親和性が高い感じもするし。
そういえば、彼らのスタイリッシュなファッションや立ち姿はどこか『JOJO』っぽくもあるし、アレクサンドロス大王を含む英雄勢ぞろいとか実在人物の英雄化とか、やっていることはちょっと『Fate』感もある。「ミスティーク」の名称なんかも『Xメン』を思い出させるし……。
縁遠いように見えて実は結構、日米のアニメやサブカルチャーから影響を受けている部分もあるかもしれないし、監督本人がゲーム&アニメカルチャーに造詣が深い可能性もありそうだ。
終盤の悲劇的な展開は、かなり中二病っぽくもある。
不肖私も、三匹の子豚がオオカミと殺し合ってみんな死んじゃうような劇台本を、小5のお楽しみ会の寸劇用に書いたことがあった(笑)。
こういう「全滅エンド」みたいな話って、基本「子どもじみた」発想なんだよね……。
本作の場合は、ロイが取り憑かれている幼児退行的な希死念慮と自殺願望の直接的な反映として、物語内の勇者たちにも裏切りと悲劇が訪れることになる。
あるいは、冒険活劇系の夢を見ていて、目覚めかけにどんどん酷い状況になっていく感じともとても似ているかもしれない。あと、本当に目が覚めそうになってくると、多少夢だと頭の片隅でわかったうえで、脳内で無理やりハッピーエンドに持っていこうとしたりしません? 最後の方にアレクサンドリアが「介入」してくる展開って、まさにそういう「明晰夢」の香りが漂っている。
子供じみた自暴自棄と捨てられ男の絶望に囚われて、自分の生み出したキャラクターを虫の如く始末し始めるロイに対して、彼をいさめ、清らかな涙でさとし、遂にはロイの病んだ心まで洗いきよめてしまうアレクサンドリア。
ロイとアレクサンドリアが物語の結末をめぐって壮絶な綱引きを繰り広げる終盤の展開は、本作で最もスリリングなシーンといってよい。
そしてこれは、「物語の創造主なら物語を好きにして良い」とするか、それとも「生み出された物語には自立性があり、読者の願望もまた物語の展開を決める一要素たり得る」とするかという、究極の「作家論」をめぐる対立でもある。
二人の壮絶なせめぎ合いが、結局どうなったかは、ぜひ映画館で確かめていただきたい。
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以下、寸感。
●冒頭とエンディングだけ、ベートーヴェン交響曲第7番の第2楽章が流れる。葬送のイメージをこの曲に抱くかどうかは人それぞれのようだが、少なくとも悲劇的なテイストは感じられるアレグレットであり、この物語におけるロイの心境に寄り添う。
●冒頭のシーンは最初まったく意味がわからず、何かのイメージ映像かと思っていたくらいだが、あとあとロイがケガしているのを見て、ああスタント失敗で救出されているシーンだったんだ、と理解した次第。あらすじも何も見ないで映画を突然観ると、出だしでつまずくことが結構多い(笑)。
シーンとしては、モノクロームによって「過去」であることが明示されると同時に、ある種の「悪夢」であることが暗示される。活人画(タブロー・ヴィヴァン:実際の人間が静止して構図をつくることで絵画を模してみせる)を明確に意識した断片的なシーンの組み合わせは、ロイのなかで伝聞情報をつなぎ合わせてつくられた偽記憶の可能性もあるだろう。
水から引き上げられる馬のイメージは、のちに登場する水中を泳ぐ象のイメージとかぶる。
機関車・鉄橋・馬の取り合わせは、容易にサイレント映画を想起させ、ラストの破天荒な無声映画スタント連発と呼応する。
●病院での娘の可愛さは異常。顔はおかめみたいでファニーな感じだが、とにかく愛嬌と吸引力のあるおそろしい子役だ。
●砂漠で繋がれた六英雄が、顔面に直射日光による火傷を負いながら追い詰められている描写って、そのまま(マカロニ)ウエスタンからのいただきだよね。
一方で、「金持ち」のいる「プール」が最終決戦の場となる展開は、サミュエル・フラーの『殺人地帯U・S・A』など、ノワールの世界観だといっていい。
●神秘家(ミスティーク)と「鳥」の取り合わせは、なんとなく聖フランチェスコを想起させる。また、鳥は「魂」の象徴であり、口から飛び出す鳥の群れは、命が抜けてゆく隠喩に他ならない。奴隷戦士の最期は、殉教聖人である聖セバスティアヌスを思わせる。
●本作のタイトルは『落下の王国』。原題も『The Fall』だ。冒頭のロイの川への転落から始まり、少女の木からの墜落、少女の医局でのハシゴからの墜落と、常に本作における試練は「落下」の形で襲ってくる。栄光からの失墜。愛した女の堕落。語り部としての闇落ち。この映画では、下向きのベクトルが常に物語を動かしていく。物語内の英雄たちにも悪人たちにも、墜死を遂げる者が出てくる。
本作では「作り話」が作品の中核を成しているが、それを生み出すのも、阻むのも、眠りに「落ちた」状態だ(fall asleep)。話はどちらかの眠りで妨げられ、一方で「夢」は次なる物語の供給源となる。
そういや「落下」というキーワードを軸に物語が構成されていた映画が、最近も何かほかにあったなと思ったら『落下の解剖学』(2023)だった。
●この映画のラストで、観客は本作が実は「映画をめぐる」物語だったことに気づく。
実際の製作シーンが出てこないから気づきにくいが、これは『アメリカの夜』や『軽蔑』と同様、「映画に携わる人」を扱った映画であり、1915年という時代設定も含めて、サイレント映画への限りない憧憬と敬慕の念を込めた映画なのだ。
病院での手回しカメラでの、ロイが出演している映画の上映。
そのあとえんえんと流れる、無声映画の「名スタントシーン」集。
今の時代ではちょっと考えられないような身体をはったスタントの数々に、ロイが生きた時代に対する純粋な尊敬の念が湧きだしてくる。
「あれもロイ、これもロイ」と少女のナレーションがかぶる。
(ちなみにここって、最初は「結局ロイも復帰できてよかったね」というハッピーエンド展開なのだが、あの一言で、実は復帰など出来ていなくて、単なる少女の願望がロイの影を見させているだけかもしれないという怖い想像をしてしまう。感動的であるとともに、ぞくっとさせる、映画にとって「楔」となる一言だと思う)
あの怒濤のスタント・シーン集は、僕にとって思いのほか感動的だった。
人が映画にかける情熱。身体をはることの重み。娯楽に「死ぬ」覚悟で臨む心意気。
あれを特撮もCGもなしで全部やってたんでしょ? あの頃の俳優さんたちって。まあまあガチで頭がおかしかったとしか思えない。時代も人も映画にくるってたんだよ。だからサイレント映画には、古くさくとも異様な熱気と吸引力がある。
それをターセム監督は、この映画の最後になって、ひとまとめで観客に叩きつけてくる。
ターセムが示したのは、今はなき映画の先人たちへの深い愛慕の念だ。
あるいは、映画を撮ることでしか生きられない、映画を撮らないと前を向いて生きられない自分の「業」を肯定するために、彼はサイレント時代の先達の覚悟に「すがった」のだ。
この映画の「作り話」だって、その中味は実のところサイレント時代の映画の断片から構成されている。剣戟の仮面の盗賊。インディアン。復讐劇。砂漠。宮殿。すべてはサイレント映画からロイが「拾ってきた」アイテムの組み合わせに過ぎない。
語ることで、客を動かそうとする話。
語ることで、死のうとする話。
語ることで、希望を取り戻す話。
この物語のロイ――語り部であり、敗残者であり、自らの物語を踏みつけにしようとするが、純粋なひとりの観客の力で、闇を祓って再生する映画人――は、他ならぬターセム監督自身の分身でもあるのだ。
公開当時は、壮麗な映像と独創的な世界観が話題を呼んだ、とのこと…。
2006年の公開当時は全く知らず、今回かなりの興味を持って見に行った。
公開当時は、壮麗な映像と独創的な世界観が話題を呼んだ、とのこと…。
話は、
落下して足を負傷して入院しているスタントマンが入院中の女の子に話す物語が、映像として出てくる。その映像が様々な世界遺産などを背景にシュールな映像が続く。全くCGを使わない映像は、耽美的で美しい。
最初は、突飛な話で楽しい。段々深刻になり、すると、物語の中にも話し相手の女の子が出てくる。で、女の子の希望で話は変わって行ったり…。
ただ女の子に話す物語がそんなに面白くない。段々飽きてくる。映像は、非常に美しいけど…。
物語より、話しているの二人の方がだんだん楽しく、温かい話になってくる。結局失意のスタントマンは彼女に癒されて立ち直ってゆくのだけど…。お金をかけたメインの物語の話より病院でのシーンの方が結局は面白い。それは計算なのかわからないけど、背景になっている物語の映像は、壮大な映像の割には話が安っぽく面白くない(結局痴話喧嘩の話だった…)。その点がマイナス。勿体無い。もっと物語が面白ければ傑作になったのかもしれない。
まあ、活動映画へのオマージュや、スタントマンへの敬意を表したところなど、それなりに面白いし(感動するし)、ちょっと尖った雰囲気が面白いのだが、大きく構えた割には思いのほかこじんまりした話なってしまったのが残念。
それに、実写だからすごいわけだけど、イメージが溢れる映画としては宮崎駿の「君たちはどう生きるか」の方がよく出来ているように思ったり…。(そういえば、マントを開くと爆弾が…と「カリオストロの城」と同じようなシーンもあったり、宮崎駿の影響もあるのでは?)
期待しただけに、なんか物足りなかった。「映像だけ」を楽しむためにもう一度見直したい…。
二人の物語でしょう?
すべての「おはなし」は「昔々、あるところに」で始まる。
・・・むかしむかし、ろすあんじぇるすというところのびょういんに、ロイというせなかをけがし、しつれんもして、いきるきぼうをうしなったすたんとまんと、オレンジのきからおちてうでをけがしたアレクサンドリアというおんなのこがいました。
ロイはじさつするためのくすりをてにいれるために、あれくさんどりあをりようしようとかんがえ、ふしぎなふくしゅうのおはなしをでっちあげました・・・・
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あ~おもしろかった。
おもしろ過ぎて13:30からの回を観終わった直後に、30分後から始まる16:15からの回をすぐに買い、ぶっ続けで二度観てしまった。
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例によってまったく事前に情報を入れず、どうやら20年近く前に公開されたもののリバイバル上映だ、ていどの認識で予約していた。
しかし、何よりキービジュアルがぶっ飛び過ぎている。
むむむ、これはいわゆる文芸大作か? 悪い方に転んだアリ・アスターやヨルゴス・ランティモス風か、あるいはホドロフスキー風までぶっ飛んでいなければ良いが・・・と半分危惧しながら臨む。
だが、最初の5分ほどのモノクロ映像に、いきなり持って行かれた。
水面から超スローモーションで立ち上がる男の球体に見える頭、鉄橋の上で機関車の側面から真横に噴出される蒸気、川に浮かぶ2人の男たちに投げられる救助用のロープの影がまず水面に写ってからフレーム・インしてくる様子、川から引き上げられる馬の頭の超ドアップ・・・
すべてが美しい。
後で知った巷の評判では、石岡瑛子の見事なコスチュームや、真っ青な空と赤っぽい砂の砂漠、バタフライ礁、世界各地の絶景・・・といった豊穣な色彩がともかく素晴らしいという声が多いが(もちろん私もまったく同感だけれども)、このモノクロームのオープニングのショットの数々こそ、ターセム監督の名刺代わりの先制パンチだ。
だってそこには、この作品の画作りにどう取り組んでいるか、どれだけエネルギーを注いでいるのかが、高い技術によってこれでもかと示されているからだ。
監督のその審美は、カラーとなったあともあらゆるショットで遺憾なく発揮されている。
(感想がとっ散らかって恐縮だが、標本箱にピンで刺された蝶の標本がバタフライ礁に変わっていく、あるいは「実は司祭は悪者でした」の顔のアップから砂漠で拘禁されている5人のシーンへトランセンドする、あの騙し絵のような視覚効果は鳥肌が立った)
そしてかわいい小さな役者が現れる。
ちょっぴり怪しい英語だが、そろそろおしゃべりになってきた5歳の女の子らしいエネルギーでイケメンのロイと接点ができる。
この2人のやり取りがまた良い。
大人と子どもの、お互いに言うことがちょっとカブったり、逆に見合ったりする会話の流れや淀みが、仰天するほど自然だ。
嗚呼、あれはどこまで台本に忠実で、どこまでアドリブなんだろう。
そして絶対に忘れられないシーンがある。そのために2回連続で観たようなものだ。
ロイのために深夜の調剤室で転落(fall)し、頭に傷を追ったアレクサンドリアに寄り添いながら、物語の続きをせがまれながらも仲間がどんどん亡くなっていく話しか語れないロイ。
「このおはなし、きらい」と泣くアレクサンドリアに、「ハッピーエンドじゃない」「これは『僕』のストーリーだ(だからどうしようと僕の勝手だ)」と憔悴しながら突き放すように絞り出すロイに向かって、
「二人のよ(Mine, too.)」
と言うシーンだ。
二人の物語のはずでしょう?
この瞬間に二人の物語は、映画館で座って2時間を目撃してきた私たちをも取り込んでしまった。
そうだよ。ロイ、お前独りの物語なんかでは、ないんだぞ。
そして同時に、冒頭の「Los Angels. Once upon a time.」を鮮烈に思い出す。
すべての「おはなし」は「昔々、あるところに」で始まるが、このおはなしは病院の時間もロイの過去もアレクサンドリアの過去も、語られた5人の復讐譚も、そしてロイの未来もアレクサンドリアの未来も、「二人の物語」の中に豊かに溶け合った挙げ句
「おしまい」
と切り上げられた。
参りました。
落ちて、たたきつけられても人生は続く
大けがを負ったスタントマン、ロイが入院先の病院で同じく入院中の少女、アレクサンドリアに出会う。失意のロイは『おはなし』でアレクサンドリアを釣って自殺用のモルヒネを手に入れようとする。
面白い、良かったと思ったところ
・ロイがアレクサンドリアに話す物語はつじつまの合わない思いつき、ときに現実を反映させた即興的なものである。物語の映像は細部まで鋭い審美眼感じるものだからこそ、流動的な部分と綿密な部分の融合が面白かった。
・衣装デザイン、世界遺産の建造物といった視覚的な魅力。
惜しいというか微妙なところ
・ロイの語るおはなし自体はそれほど魅力的ではないと思う。
そのためキャッチコピー、『きみにささげる世界にたったひとつの作り話』の少女に話す物語がどんなものかとその内容に期待すると肩透かしかもしれない。
ラストについて
サイレント映画のオマージュのなかにアレクサンドリアはロイの姿を見る。しかしロイがスタントマンに復帰できた可能性は低い。そしてアレクサンドリアも医師からやめるように言われた果樹園での作業を続けている。おそらく教育もしっかりとは受けられない。
ふたりが出会い、そして失意の男性が命を絶つことをやめる、その先に劇的な物語はない。奇跡的な何かは起きない。色褪せた現実の世界でふたりはそれぞれ生きる。だからこそ、でたらめな物語は美しく、アレクサンドリアはロイを映画という物語のなかに見るのかもしれない。
映像美のみ期待してたけど、ヒューマンドラマだった✨
見る前に思っていた映像美の素晴らしさはもちろん(いちいちウワーっ!うわーってなってた!)期待してなかった(失礼!)ロイと女の子の二人の絡みに泣けてしまった。゚(゚´Д`゚)゚。
訳がわからずとにかくロイに生きて!と泣くあの子の演技は本当に素晴らしかった!
どこの世界遺産の景色だろう?って思って確認したくてパンフレット買いたかったけど売り切れでした、残念😢
痛々しく感じた
・スタントの事故で下半身が不随?になってしまったロイとオレンジの収穫時の事故で骨折して入院しているアレクサンドリアの二人の話で、落下の王国というタイトルとビジュアルから前編ファンタジーなのかと思っていたので驚いた。
・徐々にロイが冒頭のスタント中に怪我をして、それがもう元に戻れないっていう事がわかってきて、恋人も離れて何だか気が重くなってきた。人生に絶望して自殺するための薬をアレクサンドリアに持ってこさせるために最初は元々ある話をしているのかと思ったらロイの創作らしく、そのために作話してて凄く食いついている状態が痛々しかった。同部屋の棚から盗ませたりして酷い奴だなと思った。その後、アレクサンドリアが薬を取ろうとして転んで大怪我をして、ようやく馬鹿なことをしたと反省していたのが印象深かった。盗ませた薬が砂糖だったって叫んでいたけど飲んだ瞬間わかりそうだけども、と思ったのと何で眠くなったんだろうと思った。
・個人的に凄い映像や衣装、ロケーションだった。とはいえ、それがあるから良い映画っていう感覚が自分には欠落している。空想の世界とわかってての話のパートが正直、気持ちも入らずそれよりもロイはどうするんだろうっていう事が気になった。最終的に歩けるようになったのかも気になったし、元気にしているんだろうか。
・ロイがラストでアレクサンドリアが作話した話について、その結末は嫌だと言ってロイが変更していた。物語って自分が生み出して自分の都合で何でもいいわけでもなく、受け取り手がいてようやく完成するんだなぁって思った。
今回の鑑賞で思った事
昔に友人と喜劇王のバスター・キートンが何故
あんなに危険な撮影をしているか討論した答えのような作品だった。
失恋で自暴自棄になった男が自殺未遂で死を迎えようと
したが女の子に引き止められ帰ってきて
命懸けの撮影でお客達「女の子」を喜ばせて笑かす為に
映画を撮り始める作品のような気がした。
愛しい愛しい優しい映画
何年振り?映画館でまた観ることができて本当に嬉しい。愛しい愛しい優しい映画。
根源的で素朴な映画。そして映画館で鑑賞することの喜びを大いに感じさせてくれる映画。
まるで巨大な美しい絵本のページをめくるようなワクワクが続くよ。
前はミニシアター上映だった(シネスイッチ銀座で観たような。昔すぎて曖昧)けど今回は上映館多いのも嬉しい。武蔵野館はとっても似合うけど、大画面目当てにシネコン系でも観たいナ。
美しい景色を見ると、愛らしい子供の無垢を感じると、大体の人間は勝手に感動する。そういう素朴な仕掛けを散りばめられて、初見ではないのにまんまと私の涙腺は崩壊した。
死にたい男ロイが無垢な女の子アレクサンドリアちゃんの興味を引くために紡ぐ他愛ない御伽話は、彼の精神同様不安定に揺れるけれど、あぁよかったアレクサンドリアちゃんの勝利。そしてアレクサンドリアちゃんの勝利によってロイは再生する。
さらにこの作品は、監督の映画愛に溢れている。一コマ一コマが絵画のような美しい画、終盤のスタントマンの映画にかける情熱や創造性。ストーリーは他愛無いのに圧倒的に美しい画と音楽と映画愛で鑑賞者の魂を揺さぶってくる。
“映画館で鑑賞する映画”を愛する人には刺さるんじゃないかなぁ。
登場人物が全員変てこなのも愛しい。
そうそう、お伽話中はラストまでに何度か悲しい展開がありますが、安心してください。ロイとアレクサンドリアちゃんの紡いだ作り話ですから。だって、過去に死んでしまったお父さん以外はほら、病院に…。(^^)
あぁアレクサンドリアちゃんしか勝たん。
再び映画館で観れて幸福だよ。(≧∀≦)
色とスタイルがすごく良かった!
ロケーション、衣装、色彩全てがとても美しい映画でした。
2人の関係がとても良く、ずっと見ていたかった。
主人公の深い傷を女の子の純粋な気持ちが救っていくのもとてもステキだった。
一瞬ギャグかな?ってところもあったけど、監督色かなと受け入れました。
景色、人、衣装すべてため息が出ちゃうとても良い作品でした。
て書いたけど、2回目みたら2回目の良さがあった。
もっと細かい所まで見ることができたし、初回で気づけなかったこの人あの人だったんだ!とか色々あってそれも良かった。
あとギャグとか言ってすいませんでした。
あれはロイの心のグラグラだったんかなって思えた。けどやっぱり一部だけ濃いなの感想は変わらなかったw
やっぱりすごく素敵でした!
もう一回みたいです!
全45件中、1~20件目を表示
映画チケットがいつでも1,500円!
詳細は遷移先をご確認ください。













