「純愛か洗脳か──解釈で変わる恋物語」恋に至る病 aさんの映画レビュー(感想・評価)
純愛か洗脳か──解釈で変わる恋物語
この物語は「純愛」か「洗脳」か──。
あなたの解釈次第で、物語の見え方が大きく変わる。
鑑賞と考察と原作を重ねることでみえてくる物語の核心。
「純愛」と「洗脳」──その境界は紙一重で曖昧。
どこか私たちの“身近な恋”にも似ている。
恋の駆け引き、束縛、モラハラ。
相手の言動で揺れる心、鈍る判断──愛か依存か。
その線引きは人それぞれだ。
映画では全編が高校生として描かれ、原作よりも説明が削ぎ落とされている。
その分、宮嶺や景の表情、余韻、余白で物語が語られる。
ひとつひとつの表情の意味を考えながら観る楽しさがある一方で、それが難しさにもなっている。
まさに、観客の“解釈力”が試される構造だ。
原作未読の人は、「なんだったんだろう...?」と少し置いていかれる感覚を覚えるかもしれない。
実際、私もその戸惑いを抱いた一人だった。
映画版では、宮嶺の心情すら語られず、観客は“外側の観察者”として二人を見つめることしかできない。
正直、観終わった直後はまだあまり楽しめた実感がなく、そのまま劇場をあとにした。
鑑賞中には、脚本や演出に甘さを感じる場面もあった。
それでも気がつけば考察が止まらなくなっていた。
あとからじわじわ楽しみ方に気がつく。
原作を読むことで、物語の細部や人物の心情が補完され、映画の余韻や意味がより深く味わえて驚いた。
特に宮嶺はイメージ通りでよかったなと思う。
物語の全体的な雰囲気として映画と原作では異なった印象を受け、その違いもおもしろかった。
まるで芋虫が蛹になって蝶へ羽化するように
段階的にこの物語の沼へ堕ちていった感覚がある。
よくわからない、でも理解したい──
その衝動こそ、まさに“恋に至る病”そのものだった。
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話題作であり、“本気を感じさせる”主演が揃っていただけに、脚本や演出はもっと熟考すべきだったのではないかというもったいない気持ちは拭えない。稿もテイクも重ねなさすぎた印象。
物語の性質上、違和感を覚える要素はでてくると思うが、
取り除けた不要な違和感がノイズになっているのが惜しい。特にセリフや展開が不自然で説得感に欠けている。
コメンタリーを聞いて廣木監督が「もっとできた」「主演2人に助けられた」と反省していたことは救いだった。
暑さに負けず頑張って欲しいものだ。
p.s.(ネタバレ含む)
「純愛」か「洗脳」か
いずれにせよ、景にとって宮嶺は特別なんじゃないかと思うが。
ブルーモルフォの真の主催者が景なのか否か不明な点は、
映画全体として景はブルーモルフォにただ憧れて影響されて、「純愛」がゆえとみせたい感が強いようにみえるけど(それが原作読者が気になるところでもあると思う)、
視聴者も最後まで宮嶺と一緒にそう思い込まされていて
そもそも全部嘘でしたって可能性も残されている。
(原作では主催者であることを打ち明けてたけど、
映画では主催者であることは最後まで隠してた)
今までみてきたのは、全部宮嶺の記憶でしかない。
だから、場面展開も唐突にしたのか?
