「つながる無数の点」エディントンへようこそ たにしさんの映画レビュー(感想・評価)
つながる無数の点
人は一つの目でしか真偽や正悪を判断できない。
その定義も人の数だけある。
だから歴史や伝聞から学び、正しい道を歩もうと主張する。または理解者を求める。
もしくは、対立する。
ではそれらの無数の正悪や定義が、多数の人の間で偶然に一致したとき何が起こるのか。
本作ではコロナウイルスはあくまで、世界の諸問題を浮き彫りにする舞台装置に過ぎず、人種差別や不法入国者、先住民問題、性暴力の被害者・加害者、その子孫や友人・家族、果てはただ見聞きした者が織りなす営みを、アメリカとメキシコの国境を舞台に描かれている。
これらの当事者は、自身の経験の輪郭を伝えることで第三者に理解してもらわなければ、自己の否定や、さらなる未来の被害者につながる。
第三者は、外側から見聞きした当事者の断片的なイメージに少なからずのレッテル付けをして、都合よく取捨選択をして生きている。
そうすることしかできない。
この2つのそれぞれのストーリーに論理的な正しさを求めることは不可能である。
なぜならこの世界にはこの2つの人間だけではなく、その背景を隠れ蓑にしている者や嘘をつく者までいるし、当事者が感情論を排して正確(これすらも何が正しいのかというパラドクス的)な背景を描写できているかすらわからない。
人間一人の目線を点とするなら、自分は好き勝手に他人の点をつなげてストーリーにする。
無論自身もその点の一つ。
この、人間の数だけ存在する個性的な点と点を、個々人の目線で都合よくつなげることで、あたかもだれかが操作しているように"きれいな線"が出来上がってしまい、その本来は一致することのない"個性的な線"が"偶然"にも多くの他人と一致してしまうことで、陰謀論がバックボーンとして成立してしまった悲劇がこの映画のストーリーであり、そして今もスクリーン外で続く歴史の一側面でもある。
陰謀は神の行いであり、政府の画策であり、人一人の目から作られる人類の営みである。
人は物事を単純に捉えすぎるし、複雑に捉えすぎる。
「ボーはおそれている」でも感じた、
胸がざわつく、とらえどころのない終劇。
私ははどの当事者でもないので、登場人物たちの点と点を勝手につなげてこんな解釈をした。
とてもいい映画だったと思う。
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