「撮影監督に星7つ・ヒョンビンに星5つ・ウ・ミンホ監督に星ふたつ」ハルビン marieluiseさんの映画レビュー(感想・評価)
撮影監督に星7つ・ヒョンビンに星5つ・ウ・ミンホ監督に星ふたつ
映画『ハルピン』は、確かに物語と映像と心象が完璧に調和するシーンがいくつかあったと思う。この映画の撮影監督ホン・ギョンピョの映像を通じて、1909年ごろの時代のさまざまな混沌としたものが入り混じった匂いまで感じられ、自分が(ポップコーンを食べながら)映画館に座っていることを忘れそうだった。こういう映像体験は、A・タルコフスキー監督の『ノスタルジア』とN・ラースロー監督の映画『サウルの息子』でしか今までに味わったことがなかった。
アルツハイマーになるか死ぬまでおそらく一生忘れないシーンが五つある。
ーアン・ジュングンが豆満江の凍てついた大河のうえで(実際には、マイナス40度のモンゴルの氷湖でロケしたそうだが)ひざまづくシーン。無数の抽象的な氷上のひびのうえにいる人間の危うさと不安を心底感じる。
ー大韓義軍が慶興にいる日本兵の集団に奇襲をかけ、両軍が泥まみれになって戦闘するシーン。不思議なシーンだが面白い。みな銃を(日本兵はおそらく銃剣も)持っているにもかかわらず、それらを使わず、短剣とこぶしを使ってみなが泥まみれになり、混沌となる。泥まみれなので、大韓義軍か日本軍かだんだんわからなくなってゆくのだが、よく見ると兵士の顔が恐怖に歪んでいて怖い。
―同志たちはみな黒い服を着ている。顔の一つ一つに黒い影がある。窓から差し込む弱い光がとても明るく感じる。薄光さす灰色の街路を歩けば、人なのか影が歩いているのかわかりづらくなる。
―かつて同志であった馬賊の頭領に4人が馬に乗って会いに行くシーン。さすがに満州には映画に出てくるような砂漠は存在しないだろうと思うが、砂漠の登場で大陸観が伝わる。ウラジオストックのロシア建築と対比的だが、映像の対比で、1909年当時の歴史的地政学を感じる。
ー欧米にとっても鉄道は植民地支配に欠かせぬツールであったが、日本という島国がランドパワーにのし上がるために、特に鉄道は重要な象徴的軍事的役割を果たした。しかし、この映画では、その鉄道を演出道具のように扱っている。ウラジオストックからハルビン行きの列車の中で、アン・ジュングンが仲間内の裏切り者である密偵を確認しようとするごとに列車が蛇のように左右にうねりまくって、裏切り者の顔がなかなか見えない。このシーンもすごい。
キャスティングも一人一人の役作りも良かった。日清・日露戦争に勝利してしまったことで、日本の歴史的誇大妄想が始まるわけだが、リリー・フランキー演じる伊藤博文にそういう胡散臭さがよくあらわれていた。ヒョンビンは両班の秀才のお坊ちゃまで、敬虔なカソリック教徒の善良さと純粋さを信念を抱く強いまなざしで、アン・ジュングンらしさをよく演じていたと思う。
ウ・ミンホ監督はこの映画において、アン・ジュングンを祖国独立のために命を懸けた”英雄”としてではなく、ハルビンまでの旅程なかでの苦悩、恐怖、孤独を描きたかったとインタビューで述べている。それによって、新たなアン・ジュングン像を描こうとしたのかもしれないが、真実のアン・ジュングンは、死刑直前の彼の最後の言葉からもあきらかなように
祖国独立と同時に東洋平和を願っていていた。(日本人弁護士も彼のために最善を尽くしたと思う。)ならば、彼が伊藤博文を暗殺した際に、ロシア語”カレヤ・ウラ”ではなく、エスペラント語で”カレヤ、フラ!”(韓国、万歳!)と叫んだという説のほうが信憑性がある。ロシアも地政学的理由から、朝鮮半島を完全支配下に置きたかったわけで、それを知る義士のアン・ジュングンがロシア語で叫ぶとは思えない。
日本軍がシナ山の報復として大韓義軍を惨殺したことは史実であっても、首のない死体がゴロゴロ転がるのは不自然だ。刀の刃がボロボロになってしまうようなことを日本兵が習慣として行っていたとは思えない。反日的表現だと決めつけたいわけではないが、リアルさがなくてそう感じた。
また、他国を支配して、その人々の母国語も個人の名前も奪い去ろうとした日本の醜い過去があったわけだが、日本人を演じた韓国の俳優さんたちの韓国語のアクセントについての苦情を聞くたびに、アクセントを正すか正さないかは、個人の意思にゆだねるということでよいのではないかと、考えるようになった。パラノイアの日本陸軍軍人である森少佐を演じたパクフンという韓国の俳優は、最後のほうではアクセントが薄れていた。
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