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日本による韓国併合前夜を描いた歴史サスペンス。
主人公のアン・ジュングン(安重根)が韓国義軍の首魁だったというのは後付けの要素が多いらしく、序盤に見られるアンが立案・指揮した日本軍襲撃の場面はフィクション。
アンが国際法を遵守して森少佐(のちに中佐に昇格)を釈放するのは、暗殺事件の審理で自身を戦争捕虜として扱うよう主張したことの暗喩となっている(非戦場で文官を標的にしたので、もちろん認められる訳がない)。
テロリストのアンを韓国の世論が英雄視していることを日本人の多くが不快に感じるのは当然だが、わが国の一部民族主義者もあれほど昭和天皇を激怒させたにも関わらずニ.ニ六事件の首謀者を英雄に祀り上げているし、娯楽として定着した忠臣蔵(赤穂事件)だって、はっきり言えば集団テロ。実行犯が義士と尊称されてる点もアンと同じ。
アンに狙われた伊藤博文は古い世代には「千円札の顔」のイメージが強いが、長州藩出身で吉田松陰の薫陶を受けた幕末の彼も、過激な攘夷論者として英国公使館焼き討ちに参加した揚げ句、意見の対立する要人の暗殺を画策してはたびたび実行に及んでいる(伊藤の手に掛かったうちの一人は国学者・塙保己一の息子)。
時系列的には伊藤の方が先だが、行動原理もやってることも、お国は違えどアンとほとんど変わらない。つまり、日本も元テロリストを紙幣の肖像画に用いていたことになる。
筋金入りのテロリストだった伊藤が一国の宰相にまで登り詰めることが出来たのは、ひとえに勝ち組に身を置けたおかげ。
そんな彼が日本との関係で負け組のアンに殺されたのは、歴史の皮肉と言うほかない。
狙撃されてから絶命まで考える暇(いとま)があったとしたら、伊藤の走馬灯にはどんな思い出が映し出されたことだろうか。
韓国の国論もメディアもアンを民族独立の英雄として信奉するが、テロリストを英雄視することは決して国際標準ではない筈。
本作を見た同じ日、別の映画館でアンジェイ・ワイダ監督の『コルチャック先生』(1990)も観賞させてもらった。
アン・ジュングンもヤヌシュ・コルチャックも、侵略者によって命を絶たれた点は同じだが、行動原理や実績はまったく異なる。そしてそのことは二人の国際的評価の差にもはっきり表れている。
最悪の犯罪たる殺人の肯定の最大化が戦争だと自分は思っている。理由があれば人を殺していいのなら、相手が誰であろうと、ひいてはどんな民族だって標的に出来てしまう。
韓国の方には不快な意見かも知れないが、「真の英雄とは」ということをぜひ再考して欲しい。
本作のラストにアンを称揚するテロップが映されるが、彼を従来型の英雄としてではなく、不幸な時代に生まれたがゆえの有為な若者の悲劇と捉えているようにも自分は感じた。
本国では民族主義の英雄として奉られているが、アンが伊藤を標的にしたのは、彼が感銘を受けた明治天皇の詔勅に反する行動を伊藤が執ったと判断したからだという説も(ますますニ.ニ六の連中にそっくり)。
本来、こうした題材は日韓合作で双方の視点が盛り込まれる内容で製作されるべきだと思うが、そこまで機が熟していないのが現状。
早くそんな時代が来ればいいのにと思う。
本作に登場する日本人は伊藤博文を演じたリリー・フランキー(多才だなぁ)を除けば、ほぼ現地の俳優。
日本語を話しているが、どうしても発音が気になる。リアリティを出したいがゆえの演出なんだろうが、日本人の目にはかえって珍腐な印象に。
ハリウッドの「ナチもの」なんか、ナチスの兵士もドイツ国民も、どいつもこいつも英語で喋るのが当たり前になってるんだから、別に韓国語で統一しても構わないと思うんだが…。
せっかく人気俳優使ってるのに、みんな髪ボサボサでひげ面なので誰だか分かんなくなるのも残念。