旅と日々のレビュー・感想・評価
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【"失意から再生する漂泊の旅。”今作は人生に迷う在日韓国人脚本家が、鄙びた海辺での若き男女の出会いを映画化するも失意を感じ、その後鄙びた冬の庄内を旅する中で仄かな未来の灯を見つける作品である。】
ー エンドロールで、今作はつげ義春の短編旅漫画「海辺の叙景」と「ほんやら洞のべんさん」を構成したと流れる。
特に、後半の在日韓国人脚本家、李(シム・ウンギョン)が山形の庄内地方の鄙びた宿に泊まり、心をゆっくりと再生していくパートは、良かったモノである。
私が、3年間庄内平野で過ごした事も関係しているかもしれないが・・。-
■「海辺の叙景」を原作にした脚本を書いた李は、映画を学ぶ学生たちに試写会でその映画を見せた後に、質疑応答で感想を問われ”私には才能が無いと思いました・・。”と寂し気な表情で口にする。
その授業を担当した魚沼教授(佐野史郎)が急逝し、彼の双子の弟(佐野史郎:二役)から形見でカメラを貰う。
彼女はそれを持ち、雪深い庄内(と思われる。劇中で宿の主人べんぞう(堤真一)が喋る言葉が、庄内弁ソックリだからである。だが、場所は東北の何処かで良い。)に出向き、予約なしで行ったため次々に宿泊を断られ、漸く到着したのが屋根に雪がこんもりと降り積もったオンボロ宿だったのである。
◆感想<Caution!内容に触れています。>
・前半の「海辺の叙景」を原作にした、真夏の海辺を舞台にした若き女性(河合優実)と若き男(高田万作)の出会いを描いたパートは、李が失意を感じたようにやや単調である。
だが、セパレートの水着を身に着けて、台風が近づく海を泳ぐ若き女性を演じる河合優実の憂いある存在感は、抜群である。男を演じた高田の虚無感を漂わせる様も個人的には好きである。
・そして、魚沼教授の死を挟み、物語は李自身が雪ぶかき東北の庄内地方を旅する後半に繋がれるのである。
・李が屋根に雪がこんもりと降り積もったオンボロ宿に、漸く夜に到着するシーンでハイアングルで映し出されるシーンは少し驚く。つげ義春が描いた”ほんやら洞”にソックリだからである。
そして、李とべんさんが交わす会話が良いのだなあ。
べんさん:”アンタは何をしている人?”
李:”一応、脚本家です・・。”
べんさん:”じゃ、おらいを描いたらいいべや。”(おらい=おらの家と言う意味の庄内弁)
・そして、李はオンボロのべんさんの家の中を眺めて”貴方は、一人住まい何ですか?”と聞くのである。あちこちに、一人住まいで無かった形跡があるからである。そして、徐々に彼の妻子が少し前に大きな家の主の家に移った事が分かるのである。
それ故にか、二人はお互いに似た境遇にある事を感じたのか分からないが、ちょっとした冒険に出るのである。李は一応反対するが・・。
・それは、べんさんの別れた妻の家で飼っている数百万はするという錦鯉を盗む事である。べんさんはそこで幼い息子と出会い、口止めをし、コッソリと池から一匹錦鯉を頂戴し、木の桶に入れて持ち帰るのだが、余りの寒さに錦鯉が入った水は氷になっているのである。序でに李は大切なカメラを忘れて来るのである。
そして、その錦鯉を囲炉裏で焼いて食べようとする李。彼女は言うのである。”数百万する鯉の味はどうですかね。”
ー このシーンにはユーモアがある。場内から少し笑い声が上がる。李の表情もどこかリラックスしているようである。-
・そして、警察が来る訳だが、幼い息子は言いつけを守っていて、熱があったべんぞうはパトロールカーに乗せてもらうのである。
一人、宿に残された李は、翌朝に布団を畳み掃除をして、足首まで積もる雪の中をツボ足で、よたよたと歩いて行くのだが、その姿は来る時と違い、何処か楽し気なのである。
<今作は人生に迷う在日韓国人脚本家が、鄙びた海辺での若き男女の出会いを映画化するも失意を感じ、その後に、鄙びた冬の庄内を旅する中で仄かな未来の灯を見つける作品なのである。そして、個人的にとても風合の良い作品だとも思った作品でもある。>
静謐の中から見える微かな光
本作は、主人公の脚本家 李(シム・ウンギョン)のストーリーと
李が書いた脚本の映画(映画内映画)の入れ子構造となっている。
まずはその映画作品が素晴らしく、渚(河合優実)と夏男(高田万作)の感情の抑揚のない
やりとりが実に良く、海岸の風景や海辺の街明かりも三宅唱監督ならではの質感で
美しいなあと思った。
そして河合優実から漂うエロスオーラがハンパなく見入ってしまうほど。
そして荒れた暗い海でのダークなエンディングもまたせつないし悲しい気持ちに。
もうひとつの作品にまで昇華しているクオリティで、
これだけでも短編として満足いく出来。
なかなか脚本が書けない李は、
魚沼教授(佐野史郎)から旅を勧められ、教授の弟からカメラを無理やりもらわされ、
本当に旅に出る李だが、
山奥での宿主べん造(堤真一)とのやりとりが何ともクスッと笑えるのが実に良い。
べん造も李も自然体だ。
べん造の方言というか訛りが独特な雰囲気があって、
何言っているかわかんないシーンも多々あった(笑)
だが、それがいい。
本作唯一のコンフリクトは、べん造の元妻と子どもが住む家の庭で
李のカメラが見つかり、警察沙汰になる場面。
そんなことで警察がくる?と思ったけれど、これはこれで面白いから良いのだ。
旅で刺激や元気をもらったに違いない李は、脚本が書けるようになったようだ。
つげ義春の原作は読んでいないあるいは完全に忘れているが、実に雰囲気はそれっぽい。
静謐な中に微かな光を見たような、気持ちの良い鑑賞後感であった。
チャーミングなシム•ウンギョンに注目 これぞ映画 言葉について考えさせてくれる映画
ワタクシ、ちょっと反省しております。実は『おーい、応為』のレビューで文学の世界の「純文学」に倣って「純映画」という怪しげな概念を持ち出しているのですが、その概念の是非は置いておくとして、その概念を使うなら『おーい、応為』で安売りせずに、こっちの『旅と日々』のほうで使うべきだったと。本当にこれ、いい映画です。エラそうに聞こえてしまったら申し訳ないのですが、これぞ映画とも言うべき作品だと思います。
原作はつげ義春の漫画『海辺の叙景』『ほんやら洞のべんさん』の2篇。予告篇を見たときから、このふたつをどう繋げてくるのかと気になっていたのですが、主人公の李(演: シム•ウンギョン)を脚本家にして、彼女が脚本を書いた映画、いわば映画内映画として『海辺−−』のほうを使い、脚本を書くのに行き詰まってる感じの彼女が鄙びた雪国を旅するところで『ほんやら洞−−』を基に物語が進みます。
物語は東京のビル群を割と奥行きの浅い画面で見せた後、部屋で紙のノートにハングルの手書きで脚本を書こうと苦闘している李の姿から始まります。PCではなくノートに手書きというのがいいですね。あと、ハングルに関しては、私は大量のハングルを目にすると「ハングル酔い」みたいなものを起こしそうになるのですが、手書きの2−3行というのはなかなか可愛らしくていいです。何はともあれ、日本で活躍する日本語ノン•ネイティブの脚本家というのはかなり秀逸な設定だと思います。
で、ここから、李が脚本を書いた、夏の海辺を舞台にした映画に移ってゆきます。映画は余白たっぷりな感じでヒロインは河合優実。訳ありそうな感じで(私は彼女は海辺の村に拉致されてやって来て緩やかな幽閉状態にあるのではないかと想像したのですが)、中指に怪我なんかもしています。ここでの河合優実は、この映画内映画で「役を捕まえきれずに戸惑いながら演技している女優」を演じているのかとも思ったのですが、単に素で戸惑っていただけかもしれません(笑)。まあ、この戸惑いは映画内映画の監督の意図はともかくとして、この映画『旅と日々』の三宅唱監督の狙い通りだったのかもしれません。
そして、この夏の海辺を舞台にした映画が終わって場面は大学の大きな講義室みたいなところへ。この映画を教材にして、学生を前に登壇したこの映画の監督と脚本家の李と学生、識者でディスカッションが始まります。ここでコメントを求められた李のセリフが最高です。
「私にはあまり才能がないなと思いました」
私、この映画でシム•ウンギョンて本当にチャーミングな女優さんだなと思ったのですが、このセリフはまさに真骨頂です。大勢の前でなんの衒いもなく自分の心情を語ってしまう−−しかもノン•ネイティブのちょっとオフ•ビート(?)な日本語で。三宅監督は『きみの鳥はうたえる』での石橋静河、『ケイコ 目を澄ませて』での岸井ゆきの、『夜明けのすべて』での上白石萌音と女優を適材適所で使うのに長けている印象を持っていたのですが、本作でもそれが十二分に発揮されているようです。
さて、悩める脚本家の李は旅に出ます。そこでのセリフも秀逸です。
「旅とは言葉から離れようとすることかもしれない」
私は以前から「言葉」という観点から見ると脚本家というのはけっこう因果な商売なのではないか、と思っていました。というのも、小説家や詩人なら、自分の綴った言葉がそのまま「作品」になるのですが、脚本家の場合はそうではなく、映像作品を通じて評価されるからです。決してそれそのものが単独で評価されることはないのだけれど、自分の仕事を進めてゆくには極めて重要な言葉。ましてや李の場合は、周囲が彼女にとっての外国語を話している環境にいるわけですから、なおさら言葉に鋭敏になりますし、言葉の持つ意味の限界を意識したりもします。「はじめて日本に来た頃は何もかも新鮮だった。でも、やがて言葉がそれに追いついてきた」のです。そして、彼女は旅に出るのです。言葉から離れようとして。
映画内映画が夏の海辺だったのに対して、旅の行き先は冬の雪国です。宿の予約もせずに出かけた李は普通のホテルでインバウンド観光客に弾き出されることとなり、雪深い里の商人宿みたいなところに泊まるハメになります。べん造(演: 堤真一)があまり商売気もなくひとりでやってる宿です。ここでもシム•ウンギョンがとてもチャーミングでした。べん造の話に「左様でございますか」とオフ•ビートな日本語で古風な返しをしたりします。また、凍結したある物を見て「カチコチですね」と、日本語の特徴のひとつであるオノマトペ(擬態語/擬声語)で表現したりもします。
この映画が終盤にさしかかった頃、私はあることに気づきました。それは、この数ヶ月ぐらいの間に観た邦画の数々の日本語のセリフのなかで今回シム•ウンギョンの話したセリフの中身がいちばんすらすら(オノマトペ)と私の脳内に入ってきていると感じたことでした。え、ノン•ネイティブが話すちょっとオフ•ビートな日本語のセリフがいちばん聴き取りやすかったって? 確かに、ノン•ネイティブゆえの丁寧で緩やかな口調のおかげとも言えますが、ここはやはり、セリフひとつひとつを本当に大切にしている彼女の役者としての資質を賞賛しておいたほうがよさそうです。
三宅唱監督に関しては、去年『夜明けのすべて』のエンドロールの背景に流れる中小企業(栗田科学だったかな)の昼休みの構内の風景を眺めながら、やはり、この監督は自分とは相性が合うなと思いましたが、今回もそれを再確認しました。次回作が楽しみです。
多分に
哲学的な作品に思えた、原作漫画がどんなのか全く知らないけれど。
言葉から離れたい、映画監督も難儀なんだろうな。頭の中にあるイメージを文字化して脚本、更に絵コンテから再度実像化。その後観客が発生し、批評・解釈も生まれる。ティーチインとか違和感なんじゃ?と今にして思う。
自然治癒なのかどうか、でたらめな力が湧いて書き始める下りはちょっとほろっと来た。
堤さん襤褸姿三変化のラスト、最も聴き取り難かった。ウンギョンさんの滑舌が良過ぎるので際立つ。
河合さんはあんな使い方、でも膝裏と水着が観れて幸せ。
後を引く作品
つげさんの漫画は読んでいません。
旅と日々という題名は、日常と非日常という事に置き換えてみる。そして、ある人の非日常は別の人には日常という、ちょっとした切っ掛けで隣り合う。
89分という短めの作品のせいか、多くを語らず、
考える余白がある。特に写真とカメラがとても後を引く。現在は写真は携帯で誰でも好きな時に撮れるのでとても身近な存在だが、カメラでしか写真を撮れなかった時代には、非日常の道具であった。つまり、時間と経過により、非日常が日常になったとも取れる。という様な事を観終わった後からずっと考えていて、とても後を引く。
そして、余談ですが、シムさんのハングルで脚本を書くシーンはとても好きなシーンであり、才能がないと言い切る所は、つげさんらしく、シムさんがとても似合う。
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