「つげ義春の世界の、現代的な見事な再構築!」旅と日々 nontaさんの映画レビュー(感想・評価)
つげ義春の世界の、現代的な見事な再構築!
『旅と日々』を観て数日が経った。未だに奇妙な感覚が抜けない。
「感動した」とか「癒やされた」というような感じとは何となく違う、狐につままれたような感覚だ。どこかの異世界に迷い込んで、現実に送り返されたような、時差ボケみたいな感じが残っている。
本作は、つげ義春の『海辺の叙景』『ほんやら洞のべんさん』を原作としている。何冊か手元にあったの古いつげ義治の本をひっくり返したけれど、見当たらなかったので購入して読み返してみた。いずれも20数ページの短編だ。
映画では、『海辺の叙景』は、シム・ウンギョン演じる主人公の脚本家の手による河合優実主演の映画作品として、『ほんやら洞のべんさん』は、脚本家の旅先のエピソードとして、原作にかなり忠実に描かれていた。
エピソードは忠実だけれど、一つは劇中劇として、もう一つは、何となく行き詰まっている脚本家の旅として、かなり大胆に再構築することで、つげ義春の世界観を保ちつつ、三宅監督独自の現代的な作品に仕立て上げている。
かつて、つげ義春が描いた「行き詰まり世界」に接触し、そこから帰還するという「回復の物語」になっていると言えると思う。
つげ義春が活躍したのは60年代後半、漫画雑誌「ガロ」を舞台にしてのことだ。高度経済成長の時代に、「少年ジャンプ」の「努力・友情・勝利」といった前向きな価値観や、生産的で貢献できる人間になるべし、という価値観が強まってきた時代だ。そんな中、白土三平や水木しげるらと共に「ガロ」というアングラ世界で、経済的な繁栄や、成功物語からこぼれ落ちてしまった人を描いていたのがつげ義春だった。
私がつげ作品を読んだのは多分90年代に入ってからだったと思う。91年に竹中直人監督による映画『無能の人』が公開されるなど、つげ義春はちょっとしたブームだった。
90年代は「自分探し」という言葉が流行語になるほど「何者かにならなければならない」という強迫観念が強くなった時代だったと思う。しかし当然、ただのサラリーマンにそんな手応えのある時間などない。
当時の僕はつげ作品の中に「自分よりもっとダメな人」を見出し、その救いようのなさに安心する気分があったのだと思う。生活のために石を売ろうとして、上手くいかない主人公。そのあまりに不器用で、自ら望んで失敗を引き寄せてしまうような生き方に共感する部分があった。
つげ義春本人もまた、自身の分身であるつげ作品の主人公と同様に、社会との違和感を抱え続けた人物である。貧困旅行と称して寂れた温泉宿に長逗留し、蒸発願望を抱え、描く苦しさに胃を痛め、健康を害していた。
そんなつげ義春は一昨年、フランスのアングレーム国際漫画祭で特別栄誉賞を受賞し、日本芸術院の会員に推挙された。かつて「無能」を標榜した男が、芸術家の最高峰として歴史に名を刻んだ。本人はかなり居心地が悪そうである。彼が90年代を最後に筆を折った背景には、病や家族の事情もあるだろうが「評価されてしまうことへの居心地の悪さ」もあったのではないかと思う。
映画の話に戻りたい。
物語の主人公は、現代の東京で脚本家として行き詰まっている女性だ。彼女は、つげ作品の主人公たちが抱えていたような生活苦や実存的な不安というよりは、現代的なバーンアウトにあるように見える。
劇中劇として描かれる映画の中で、河合優実演じる少女が「何にもしたくない」と呟くシーンがあるが、それは脚本家自身の現状の表現だ。この劇中劇が、一本の映画でみたくなるほど見事だった。「河合優実出演作にハズレなし」である。
脚本家は、自分の中に明確な方向性を見出だせず、この劇中劇の大学での上映会でも質問から逃げまくり、答えると「私はダメだと思った」などと言っている。
そんな彼女に転機をもたらすのが、突然亡くなった佐野史郎演じる大学教授の肩見分けで譲り受けた古いフィルムカメラだ。
このカメラが、主人公を変えていく展開となるのが、小道具使いとして見事だと思った。カメラは記録の道具でもあり、また現在は、自分の人生の充実した瞬間を世に伝える道具でもあるけれど、この映画ではその機能は希薄だ。このカメラは「ただそのままの世界を見る」ことに意識的になる、それを促す道具となっていく。
ファインダーを覗いて世界を見るとき、人は自分から意識を逸らし、目の前の光や風景、他者という外側に意識を集中させなければならない。自分の内部でぐるぐる回る自意識に押しつぶされつつあった主人公にとって、カメラは、自分を滅するための矯正器具として機能しているようだった。
カメラで移す景色には、意味や物語などなく、ただ世界がそこに在るだけだ。その静かな時間の蓄積が、彼女のリハビリテーションとなっていく。
堤真一演じる「べん造」のただの古民家のような宿。ここはまさに、つげ義春の『ねじ式』や『ゲンセンカン主人』のような、時間が停滞した異世界だ。
原作では、こうした場所はしばしば、一度入ったら出られないアリ地獄的世界だったり、諦めの果ての終着点として描かれる。それを三宅監督は、現代人が一時的に身を寄せる避難所として再定義した。
宿での時間は、奇妙で、滑稽だ。生産性とは無縁だ。
噛み合っているような、いないような会話。そこには、現代社会に要請される成長も、貢献も、正解もない。ただ、雪深い山奥で、やる気のない宿主と時間を浪費する。「何もしないでただそこにあること」への没入が疲れた主人公に必要な処方箋となっていく。
そして、主人公は、この異世界に止まらない。この流れが、つげ義治の世界と異なる点だ。主人公は、再び脚本を書く意欲を見せる。異界での時間を通過儀礼(イニシエーション)として消化し、現実へと帰還していく。
「何にもしたくない」から始まった旅が、カメラを通して世界を再発見し、奇妙な宿での停滞を経て、「また書きたい」という人生の再出発に変わる。この変容のプロセスを描いた点に、本作が2020年代の「つげ義春映画」としての必然性があるのだと感じた。
現代を生きる私たちの多くは、ドロップアウトする覚悟もなければ、狂気も持ち合わせていない。どれほど疲れ果てても、結局は、仕事を続け、社会というシステムの中で生きていかなければならない。
だからこそ、この映画が必要なのだと思う。
本作は、スクリーンの向こう側に、日常とは異なる時間が流れる場所を、リアリティを持って出現させた。
観客は、主人公と共にその「わけのわからない時間」に身を浸し、べん造さんの宿の冷たい空気を吸い、カメラのファインダー越しに世界を見つめ直す。その短い滞在が、私たちが再び「こちら側」で生きていくためのエネルギーになるのだと思う。
本作に、明確なメッセージや結論を読み取るのは難しい。ただ、その鑑賞体験が残す違和感のようなものが、身体の中にしばらく残り続ける感じがする。それは、かつて『無能の人』を読んで感じた重たい安らぎとは少し違う感覚だ。もう少し透明で、静かな力強さを持った感覚を残してくれるような気がしている。
