「長い、くどい。」兄を持ち運べるサイズに あんちゃんさんの映画レビュー(感想・評価)
長い、くどい。
本日から公開された邦画は、本作が124分、「ナイトフラワー」も124分、「佐藤さんと佐藤さん」が114分。いずれも少し長すぎる。最近の邦画は皆同じような傾向にあって、「国宝」や「宝島」のような文芸大作だとそれなりの尺は必要だと思うが、スライス・オブ・ライフの作品は精々100分くらいにまとめてもらいたい。そうでなければやはりテーマのブレが隠せなくなるから。
本作は、長く不仲だった兄が遠く東北の地で亡くなり、はるばる滋賀県からその後始末に行くことになる理子の話だが、役名が原作者の村井理子さんと同じであってベースは村井さんの実話である。ただ原作の「兄の終い」自体は読んでいないのだが、村井さんの他の文章から想像するに、映画化にあたりかなり脚色されている印象がある。まず違和感があるのは理子が始めから兄を家族の一員として考えているところ。ここは理子固有の家族観ではあるのだが、映画は母親の葬式における兄の無頼ぶりが描かれていて、このような人物に家族として親近感を覚えるというのは無理がある。この理子の意識と呼応するように映画の後半、しつこいほど兄の亡霊、幻影が現れる。あたかも彼が、理子からしても、加奈子からしても、子どもたちからしても実は大切な存在であるということを主張するように、つまりどんどん兄の人物像が「良い人」になっていくのである。
この流れは、結局は、監督(脚本家でもある)の無意識の思い込みで、家族というものは絶対的に良きものであるという思想のゴリ押しである。つまり我々は監督の思想を2時間以上にわたって拝聴させられている。もちろん映画は観客のものである以前に映画作家のものであるのだからそれは当然の態度であるとしても、もっと観客に考えさせるといった洗練されたやり方があるのではないか。
この映画の結論は、村井理子さんの架空の著者「兄を持ち運べるサイズで」の最後の言葉「家族は支えであり、呪縛ではない」なのだろう。それは確かにそうなのだけど、実は二者択一ではなく、家族のあり方はその家族によって「支え」と「呪縛」の間に何万通りの選択肢がある。その含みがない、ごくごく単純な絵空事としてこの映画をつくってしまったことに私は反発する。
コメントありがとうございます。オダジョーは今年の7月に観た『夏の砂の上』でのドツボはまりぶりがけっこうよかったので期待していたのですが。あ、そのときは満島ひかりが妹でした
「そうはいっても家族は家族、家族って良いものだ」という考えに寄せていそうでこの映画見ようかどうしようか迷っており、そこだけ知りたかったので、めったにないですがレビューをを先に見ました。
>「家族は支えであり、呪縛ではない」なのだろう。それは確かにそうなのだけど、実は二者択一ではなく、家族のあり方はその家族によって「支え」と「呪縛」の間に何万通りの選択肢がある。その含みがない、ごくごく単純な絵空事としてこの映画をつくってしまったことに私は反発する。
あんちゃんさんのお考え、大変共感です。
家族の在り方は千差万別で、「盤上の向日葵」の主人公父子みたいに呪縛でしかないのに捨てられない、捨てることに罪悪感を感じるような関係もあります。あれは息子にとっては支えどころじゃないですね。あれほど極端でなくてもおっしゃるとおり何万通りの選択肢があると思います。「家族は支えであり、呪縛ではない」という主張そのものが、古より続いてきた家族幻想による呪縛ではないかと思えてなりません。
迷っていましたが、あんちゃんさんのレビューで答えがでました。ありがとうございます。
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