「加害者にならないために、愛の正体を知っておいた方が良いかもしれません」愛されなくても別に Dr.Hawkさんの映画レビュー(感想・評価)
加害者にならないために、愛の正体を知っておいた方が良いかもしれません
2025.7.4 イオンシネマ京都桂川
2025年の日本映画(109分、G)
原作は
武田綾乃の同名小説(講談社)
毒親に苦しめられる三人の女子大生を描いたヒューマンドラマ
監督&脚本は井樫彩
物語の舞台は、関東圏のどこか
大学に通う宮田陽彩(南沙良)は、金遣いが荒く奔放に生きる母・愛(河井青葉)に悩まされていた
年頃の娘のいる家に恋人(遊屋慎太郎)を連れ込んでは情事に耽り、家事はロクにせずに、大学の費用と生活費は自分で稼げと言う始末だった
彼女は水族館とコンビニでアルバイトをしていて、コンビニには軽いノリの堀口(基俊介)がいたが、それよりも寡黙で何も話さない江永(馬場ふみか)のことが気になっていた
彼女は時折水族館を訪れて魚を眺めていて、数人の男と関係を持っているようだった
ある日のこと、バイトで授業に出られなかった陽彩は、レジメをもらいに教授(金延宏明)のところに行った
だが、正式な休みでないものには渡さないと言われ、仕方なく真面目そうなゼミ生の木村(本田望結)に声を掛けた
彼女は「私に何の得がある?」と言い、めんどくさくなった陽彩は、「別の人に頼む」と言う
だが、「誰もいないから私に声をかけたんでしょう」と言い、陽彩は咄嗟に江永の名前を出してしまった
木村は「彼女はダメだ」と言い、交換条件を提示して、レジメを写させてもらう事になった
木村の交換条件は「バイト先を紹介する」と言うもので、仕方なく「江永もいるけど」と前置きをした上で、自分の働いているコンビニを紹介することになったのである
映画は、陽彩の父(永岡佑)と再会し、そこで養育費の話が出たところから動き出す
月に8万ほど送っていたが、新しい家族ができたから送るのは無理だと言う
陽彩はそんな金があることを知らず、家をしらみつぶしに探して通帳を見つけた
そこには、自分が預けたお金を貯金するでもなく、養育費も全て使い込んでいたことが記されていた
母親と鉢合わせた陽彩は包丁を手にし、「このままではお母さんを殺してしまう」と言って、家を出ることになった
一方その頃、江永はナンパしてきた男・大山(伊島空)と性的な関係を結ぼうとしていたが、大山は「俺のことがわからないか」と言い、突然江永の首を絞めてきた
そこに陽彩からの電話が入り、江永は男から逃げることができた
そうして、陽彩は江永の部屋に転がり込む事になり、奇妙な同居生活が始まるのである
物語は、毒親に苦しめられる女子大生を描いていて、搾取される陽彩、事故の責任を押し付けられる江永が共同生活を行い、そこに母親(池津祥子)の過保護に悩まされる木村が加わってくる
木村は親のいない場所を求めて、宙の会と言うカルトに行きつき、そこで宇宙様(今藤洋子)たちの活動に参加していた
明らかにカルトで胡散臭いことがわかり、陽彩はつい深入りしてしまう
陽彩を危険な目に合わせたくない江永は、保険をかけて、宇宙様との会合に参加することになった
親との関係に悩む人向けの作品だが、普通の親子関係ではない人の究極を見せつけられている印象があった
愛していると表面だけ繕って搾取し続ける母親
愛どころか人として終わっている両親を持つ江永
愛されているけど息苦しさを感じる木村
この三者三様の親との関係と言うのは身に覚えのない人の方が多いと思う
だが、ここまで行きつかなくても、親の愛というものを息苦しく感じている若者は多く、それが価値観の変遷であるとは思わない
家族の在り方は随分と変わり、個人主義の方が中心となっていて、その変化にいち早く対応したのが親世代であると思う
それは言葉ではなく行動から始まっていて、言っていることとやっていることが違うという違和感が発祥となっている
子どもはそう言った部分に敏感で、果たして親の言う愛は本物なのかを疑い始めていく
そうしたものが積もり積もったのが現代であり、その究極を描いているのが本作であると思う
絶縁しなければならない関係と言うものは確かにあって、自分の人生を生きるために切り離さなければならない時もある
そう言ったものにしがみついているうちは、それを見透かされて取り込まれるとも言え、それが親なのかカルトなのかはわからない
逆に言えば、愛が呪いであると確信している人からすれば、それは聞こえの良いコントロールのための暴言に聞こえるので、ある意味では真っ当な思考を持っていると言える
個人的な考え方として、「感謝はするけど、尊敬はしない」というものがある
世間では「産んでくれた事に対する感謝をしろ」という一方で、親としてどうなのという存在を甘んじて受け入れて耐えろという風潮がある
だが、親が感謝される生き方をしているかとか、尊敬される生き方をしているかというのは別問題であり、そこを混同して「愛」だと宣う人もいる
これが昨今の家庭問題の根幹にあると考えているので、関係性を見直す上でも「双方が」感謝され得る存在であるか、尊敬され得る関係であるかを見直さなければならないのではないだろうか
いずれにせよ、ここまでの毒親というものに苦しめられたことはないので想像の範囲になるが、やはり手放しで受け入れられないものもあると思う
ある種の思考停止に陥らせるための装置が愛という言葉であり、それが何かを救うと思う方がエゴであると言える
愛されることも愛することも、その根元には「人としての尊敬」がベースとなっていて、それはただあるものではなく、努力して身につける後天的なものであると思う
愛も尊敬も「相手が決めるもの」であり、その判断となるのは「行動」でしかない
陽彩の母は愛されるに足る行動をしているのかとか、江永の両親は彼女に何を与えたのかとか、さらに言えば木村の母は彼女を人間として認めているのかなど、多くの問題点が描かれている
そして、このような不可思議な事に対して、理解できない人が愛を語るというのが社会でもあると思うので、やはり「自分の人生は自分で考えて判断して生きる」以外に方法はないし、そのような考えを共有できる人と一緒にいることで、幸せへの第一歩というものが現れるのではないか、と感じた