ルノワールのレビュー・感想・評価
全209件中、141~160件目を表示
どこか曖昧な掴みどころのなさが残る
末期がんの父親と病気につけ込む怪しげな商法に引っかかってしまう母親。そんな家庭の子、フキは両親から目を離されがち。それぞれが抱える不安定さを、画面の中の登場人物同士は見えていない。何かが起こりそうで起こらないハラハラ感を観客は味わうが、伝えたいことはなんだったのかと問われると困る。わからない。
そういう曖昧さが好きな人には合う映画なんだろうなと思う。
あの時代の空気 The Air of That Era
映画の背景に妙な既視感があった。
観賞後、パンフレットを確認したら
主人公の女の子、設定上は同い年。
1980年に11歳。
2025年には56歳。
映画で描かれた、
あの時代は限りなくリアルだった。
人と人の間には、
距離の長さと
時間の長さがあり、
一人になる時間があった。
遠く離れて繋がる術は
固定電話だけだったので、
離れる時間は
文字通り離れていた。
その間に、
誰かと会い、経験を積んでいく。
その間にあったことは、
本人が言わない限り誰も知らない。
自分にとっても昔にあたる映像を観て、
確かにそうだったなあと思ったのだ。
本人しか知らないこがあるのは
実はとても大切なのかもしれない。
それゆえに、その時間経過で、
主人公の女の子の変化して行く様が
自然に映った。
もちろん彼女の周りの親たちなどの
大人の変化も。
逆に今の時代は良くも悪くも
こんなふうにゆっくり変化することを
許容しないし、
それが出来ないなと思ってしまった。
だから監督は、この時代を選んだろうか?
距離を超えて瞬時に繋がれる
今のこの時代、本当に幸せなのか
改めて考えてしまった。
There was a strange sense of déjà vu in the film’s backdrop.
After the screening, I looked at the pamphlet and found that the girl in the story was, by setting, the same age as me—
11 years old in 1980.
She would be 56 in 2025.
The era depicted in the film felt uncannily real.
Back then, between people,
there was both physical distance
and the passage of time.
There was time to be alone.
The only way to stay in touch over long distances
was by landline,
so being apart
truly meant being apart.
During that time apart,
you would meet others, gain experiences.
And what happened in that time—
no one would ever know unless you chose to tell.
Watching images of what is now my own past,
I realized—yes, that’s exactly how it was.
Having things known only to yourself
might actually be something very important.
That’s why the girl's gradual changes over time
felt so natural.
So did the changes in the adults around her—
like her parents.
In contrast, today’s world, for better or worse,
doesn’t seem to allow for that kind of slow transformation.
Or maybe we’re no longer capable of it.
Perhaps that’s why the director chose this era.
In today’s world, where we can connect instantly across any distance—
are we truly happier?
The film made me stop and think again.
日常的なテーマと大胆な筆致
夢に見た情景を作文にしクラスで発表する。
達者なモチーフと表現力は教師も激賞するほどだが、
鑑賞者には現実なのか夢想なのかもわからない。
冒頭のシークエンスで数回繰り返され、
以降は、はてこれは本当に起きたことだろうかと
観ている側は疑心暗鬼に陥る。
突然喀血した父は末期癌と診断され
余命いくばくもない。
母親は怪しげな療法に頼り、
奇跡的な回復を願いつつも
諦念にも似た思いが一方に有る。
父親に懐く娘は、
母親の態度が受け入れられない。
少女のひと夏の成長譚。
綺麗なものには触れたくなるし、
好奇心は旺盛で、
初めて訪れた場所でも
あら捜しをするのを欠かさない。
見つけたものと起こした行動が、
結果後々の禍の種になっても、
彼女は後悔しているのかいないのか。
表情からは何ら読み取ることはできない。
無邪気さは併存する。
オカルトや超常現象に興味を持ち、
キャンプファイヤーでは『YMO』の〔ライディーン(1980年)〕で踊りまくる。
ああ、自分たちの頃にも
こうしたことはあったなと、懐かしさはある反面、
囲む社会には不穏さも。
世間知らずと無謀さが窮地を招くことはある。
それでも最悪の事態にならぬのは、
脚本/監督の『早川千絵』の主人公に対しての優しい眼差し。
それぞれのエピソードは
自身の体験を膨らませたものだからだろう。
本作のタイトルは、
最初は父親の病室に、
やがては
少女の部屋に飾られた『ルノワール』による
〔イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢(可愛いイレーヌ)〕の複製画から。
描かれた八歳の少女の肖像画は、
今では世界中で愛される一枚と言われている。
が、依頼した両親は、
この画を気に入らなかったと聞く。
それは今までの画家の描き方と
相当に異なっていたから。
{印象派}の特徴は(AIの纏めによると)、
光と色彩、そして一瞬の印象を捉えることを重視した画風。
風景や日常生活を明るい色彩と大胆な筆致で描いた、と
書かれている。
それはこの映画にも当てはまる。
色彩は鮮やかで、エピソードの一つ一つは静かに流れるもののいずれも印象的、
加えて記憶に残る。
各々は独立していても、
総覧した時に一人の少女のキャラクターが立ち上がる。
ただ、幾つもの素行から、
彼女を好きになるかどうかが、
評価の分かれ目なのだが。
『スーラ』の{点描}が
ある程度の距離を置かないと
何が描かれているのかも判然としないのと同様、
本作でも個人に寄り添い過ぎて
もやっとした作品に感じることは否めない。
ハートの5
海外ではウケるのだろうが刺さらない
【今作は、一人の少女が様々な死の匂いに触れ、命の尊さをぼんやりと感じながらも、ルノワールの如く周囲の大人たちの表情を捉えながら、悲しみを静かに乗り越え新しき生を踏み出す姿を描いた作品である。】
■11歳の少女フキ(鈴木唯)は、末期がんの父(リリー・フランキー)と、看病と仕事に追われる母(石田ヒカル)と暮らしている。
フキは、父の死が近い事を何となく感じているのか、自分が首を絞め殺され自分の葬式の夢を見たりする夢想的な少女である。彼女は夫を自殺で亡くした女(河合優実)に催眠術を掛け、夫の死の話を聴いたりもする。
更に彼女は、仲の良い友達の父母の仲が破綻している事や、母のストレスなども感じている。そして、ある日、出会い系の電話で出会った青年(坂東龍汰)の家に行ったりもするのである。
◆感想
・一番印象的なのは、少女フキを演じた鈴木唯の不思議な存在感である。死に対する興味を持ち、冷静に周囲の大人の言動を大きな目で観察しているし、時には大胆な行動にもでるのである。
が、それが自然に見えるのだなあ。
・母は、ストレスからか自覚無き同僚教師へのパワハラにより行かされた研修の講師(中島歩)と、ファミリーレストランでのカスハラを行いながら、近しくなっていく姿と講師の顔を興味深そうにじっと見ている。
・フキは、人一倍感受性が豊かな女の子なのだろうな。だがその態度はどこか飄々としている。そして言うのである。”人が死ぬと、どうして哀しいの?”
そして、フキは思うのである。”大人って、完璧な人なんていないじゃん。お父さんだって、病気に付け込まれて100万円、騙し取られるし・・。”
けれども、彼女はそんな大人達を馬鹿にするわけではなく、只、彼らの表情を見ているのである。ルノワールが絵画を描く際に人を観察したように。
<そして、父はあっけなく亡くなり、(このシーンが映されないのが上手いと思う)母とフキは何事もなかったかのように列車に乗り、フキは観光先の太陽が降り注ぐ船の上で若者達と踊るのである。
今作は、一人の少女が様々な死の匂いに触れ、命の尊さをぼんやりと感じながらも、ルノワールの如く周囲の大人たちの表情を捉え、悲しみを乗り越え、新しき一歩を踏み出す姿を描いた作品なのである。>
無垢で無邪気な好奇心
夏休み前の大荷物小学生の様な雑多さ
誰の為に創った作品なのか。ほとんど心が動じなくて、も一つ疲れるだけに。
PLAN 75(2022年)作品から3年目。
この前 第78回カンヌ国際映画祭のコンペティション部門に出品されたことは知ってました。
今日は「ルノワール」の鑑賞です。
少しだけ期待はしていましたが、これから見る方には申し訳ないけども
期待通りの作品仕上がりでは無かった感じでした。
前作の”PLAN 75”では 流れが読めてはいましたが
役者陣がシッカリ演技で支えてて そこが有ったからこそ
成り立ってた映画作品と思います。
今作の出ている俳優の方々は 何でこの作品に出ようと?思ったのか?
きっと前作がカンヌで特別賞貰った監督だったからでしょう?違うかな。
大御所も出ていたし。その前例もあって
だから それに纏わりつく様に寄って来られたと思うのですよ。
それ自体は別に問題とは思いませんけど この本は読んで選びましたでしょうか。
今作のメインの沖田フキ役:鈴木さんね。(オーディション時小学生)
厳しい事言うけども 感情出しが弱いですよ。
英語先生との家の食事場面は 本当に楽しそうで笑顔は有った。
でも 他の場面の感情が全部指示された演技となっており
これでは 絵に成って行かないと感じました。
難しい感情表現だとは思うのだけど、ほぼ目が死んでますね。
こっちは眼球の奥の心情までも読み取って観て行くので
本気で本物を前に出してこないと 総て空振りに受け取れます。
若いから仕方がないとか、それはプロでは通じないと思いますね。
ただ ok出すのは現場なので、そこは そうなったのは仕方がないですが。
あとは、全体的に散漫なイメ-ジが在ります。
行間埋める様に汲取らないと感情流れが埋まって行かない手法が
カンヌ好みかと言えばそうなんでしょうけど、
観ている側に強制的に求めて行くのも どうかと感じます。
ハッキリ言って 繋ぎが酷く 疲れます。
(他・感じた所)
・序盤のタイトルコールで 俳優陣のテロップを下から上へ表示出しましたよね。
正直不吉さ感じました。過去 逆方向出し作品は どれも不吉さが有って
それを僅数秒見ただけで 大体内容が分かってしまう思いです。
・出会い系伝言ダイアルで 見知らぬ青年に会いに行ったフキ。
彼の自宅から、事の状況が変わって追い出さて 雨の中彷徨う。
そこへ駆け寄るなに者かの姿。 (あれは?何だったのか・・・)
タオルで頭を拭いてくれる父(リリ-フランキ-さん)の姿が在り、そこに娘に対しての優しさは十分溢れていて良かった場面と思います。
そして同時に 彼が病で亡くなったのだと言う事。それが伝わる。
ここの流れだけが 良い展開だったでしょうか。そう感じました。
カンヌとか妙に賞を獲っちゃったから 変なプレッシャーが生まれて。だから
監督にとって 撮らされた作品感を感じましたです。
誰かの為に創るのでは無くて、自分の求める作品を探求して制作にこれからも励んで欲しいと思います。
変ですけど期待は一切致しませんw。
心は常に前向きにと そう思う次第です。
ご興味ある方は
劇場へどうぞ!
少女時代の最後の一瞬を捉えたような傑作
80年代半ば、超能力やおまじないに夢中な小五女子の夏休み。子供のような、大人になりつつあるような、そんな中途半端な時期の日常を色鮮やかに切り撮る。
しかしそこには死と暴力と性の予感がある。死の予感に慣れ、死が生のすぐ横にあることを理解しつつあるいっぽう、性についてはまだ意識していない。
そんな少女の戸惑いと無自覚、危うさと残酷。少女時代の最後の一瞬を捉えたような傑作。
前作の「PLAN75」は社会派の傑作だったが、本作は叙情に振り切っており、こちらもまた素晴らしい作品になっている。
演者は本作でも皆素晴らしいが、父親役のリリー・フランキーと、主役の鈴木唯は出色!唯一無二の存在感だった。
観客を選ぶとは思うが、我々の年代(50代)なら分かるでしょう。必見。
鈴木唯ちゃん‼️
1980年代を舞台に、複雑な家庭環境に揺れる11歳の少女フキの物語‼️淡々と物語を描く早川千絵監督の演出は賛否分かれると思いますが、今作はやはりフキ役鈴木唯ちゃんの存在感に尽きると思います‼️まさに鈴木唯ちゃんの一人劇場‼️どうか子役から名女優へと無事成長してくれることを祈って・・・‼️
不思議だが引き込まれた
1980年代後半の夏、小学5年生の少女フキは、闘病中の父と管理職になったばかりで仕事に追われてた母の3人で郊外の家に暮らしていた。先生を戸惑わせるほどの豊かな感受性を持つ彼女は、得意の想像力を膨らませながら、気ままに過ごしていた。そんなフキにとっての大人の世界は、複雑な感情が絡み合い、どこか滑稽で刺激的だった。しかし、父と母の間に大きな溝が生まれ、フキも・・・そんな話。
想像力豊かなフキという設定で、空想と現実が交錯するから、少しわかりにくかったが、それも狙いなんだろう。
1980年代の後半の年の夏、という設定だから、バブル真っ只中、賃金も年々急増、ジャパンアズナンバーワン、の頃だからパワハラ、セクハラの概念もなかったはずだし、お母さんのあれくらいの指導で上司が何か言うと言うことはなかった様に思うが。
周囲の大人たちに触れて色々と経験していくフキが不思議な子だけどなぜか引き込まれた。
演じた鈴木唯が素晴らしかった。
母役の石田ひかり、父役のリリー・フランキーもまぁ的役、という感じ。
本作でも河合優実を観れたのは良かった。
それと、ルノワールのイレーヌ嬢の絵は美しかった。
繋がらない名場面、、、
大人の振る舞いと子供の視線。
フキが直面する現実の大人の世界にとっては、フキの存在は傍観者であり、救いでもあり、癒しにも。フキは表情を過度に変えることなく、眼前の現実をしっかりインプットするかのよう。その態度は全編を通して通底する人の死に対しても。
淡々と進む映画時間の中で、フキの持ち前の好奇心や豊かな想像力による無邪気な危なっかしさが、作品の結論的なものに収束されるのかと思いきや、そんなドラマチックな展開は裏切られることになる。
大人の振る舞いと子供の視線が混ざり合う。懐かしさと自らの当時の体験の記憶を呼び起こす。
子供の頃を思い出す
人生の後半戦にいる私に、遠い昔、子供のころ持っていた感覚を思い出させてくれた。最近は忘れていた。夕焼けの風景、トンネルの反響、オカルト、大人世界への無知と反発、思い出の競馬場、馬の鳴き真似への馬の返事、イレーヌ、少女のありのままの視点が美しい映像で表現されていて何か懐かしかった。あういう鮮やかな感性は大人になると数百分の一になっているだろう。仕事やしなくてはならないこと、社会の規範に合わせなくてはならないこと、同調圧力、人間関係などでエネルギーを使ってしまって失われていってしまう。でも、あの時、あの場所、あのシテュエーションを心のどこかにしまっておいて、大事な時に引っ張り出すことができるといい。誰にでもそういった体験価値があるはずでその大切さをあらためて思い起こさせる作品だった。フキはきっと長い人生を強く楽しく輝いて歩むと思う。監督早川千絵の子供時代へのオマージュなのかなこの作品は。エンディングソングの歌詞がこの作品のテーマなのだろう。あの歌詞をもう一度見たい。
無自覚のカウンター
1.ざっくりあらすじ
1987年、バブル真っ只中の東京郊外。11歳の少女・フキは、がんと闘う父、仕事に追われる母と3人暮らし。
本質的な不安を抱えたフキの生活はしかし、どこでにでも日常のなかで進んでいく。
彼女はいつも引き出しを開け、扉をのぞき、見えないものを探している。
彼女は自分の“眼”を研ぎ澄まし、邪気なく(無神経に)残酷に世界を観察していく。
伝言ダイヤル、親の不倫、意思を伝える超能力、死に向かう父との競馬場の思い出。
そして…クルーザー上での祝祭的な(非日常の)ダンス。
フキはどこへ向かうのか。どこにも向かわないのか。
静かなのにざらつく、妙に鮮やかな映像が印象的。
________________________________________
2.感想文:「無分別のまなざしが、世界の綻びを暴き出す」
この映画を「少女のひと夏の成長物語」として語ると、作品の核心を見誤る。
たしかに、11歳の少女が主人公で、家族の死を経験するという点で、成長譚的な表層を持ってはいる。
だが、実際フキは、成長したのか? そもそも成長すべきなのか?
彼女は最初から最後まで、冷静で、残酷で、そして妙に客観的なまなざしを持って、世界をじっと見つめている。
私はこの映画を通じて、「無神経」という言葉の意味を再確認することになった。
11歳という年齢を考えれば、フキは無邪気だ、というのは簡単だ。
しかし、無邪気の範囲を超えて、彼女の行動は端的に言えば無神経だ。
他人の家に勝手に入り、引き出しを開け、押し入れを覗き、プライベートを容赦なく暴く。果ては友達にそのプライベートを覗き見るように仕向ける。
伝言ダイヤルで赤の他人の人生に耳を傾け、とある男子大学生(これもウソ)と会う約束をする。
他人の心を覗き見る「超能力」に異様な興味を示す。
それらは、どう見ても「悪趣味」であり、快くはない。
だがその“悪趣味”こそが、彼女の真実に対する嗅覚なのだ。
彼女は「正しさ」や「思いやり」では動いていない。
彼女の行動原理はただ一つ——知りたい、確かめたい、という切実な欲望だ。
それは“無邪気”を超えて、明らかに“無神経”の域に達している。
そうした彼女の「悪趣味」な行為は、結果として大人たちの欺瞞や沈黙を暴き出してしまう。
社会の中にある“見て見ぬふり”の断片。
家族という空間に漂う“言葉にならない断絶”。
それらを、フキは誰よりも繊細に、そして誰よりも残酷に暴いてしまう。
父の死は、その極点だった。
家族であるにもかかわらず、父とはまともな対話が成立していなかった。
そしてだからこそ、彼の死は、母と娘の両方に“精神の解放”をもたらす。
怒りでも悲しみでもなく、むしろ不思議な「軽さ」と「自由」。
その象徴として描かれたのが、あのクルーザーのダンスの場面だ。
たしかに、文脈的には唐突で、浮いた印象もある。
だが僕は、あの場面を映画の核心的な断章として受け取った。
踊るフキは、誰にも見られていない。誰とも話していない。ただ太陽のもとでリズムに乗って動いている。
それは救いだったかもしれないし、幻想だったかもしれない。
その解釈は、僕ら鑑賞者にゆだねられている。
でも、確かに映画のなかで最も美しい場面だった。
この映画は、明確なストーリーの起伏があるわけではない。
むしろ、出来事の連なりに意味の因果をつけることを、あえて拒んでいる。
だからこそ観客には、一貫した物語は残らない。
残るのはグロテスクな違和感だ。
そしてその違和感の正体が、「子ども」という存在が抉り出す大人の世界の真実だ。
抉り出された真実は、常にグロテスクで不快なのだ。
________________________________________
3.芸術としての評価(4.0)/映画としての評価(3.5)
芸術作品として見ると、この映画は非常に完成度が高い。
沈黙、間、視線、画面構成といった要素において、映画らしい映画と言える。
説明せず、誘導せず、ただ映し出す。
その誠実さ、潔さ、美しさを、僕は高く評価したい。
一方で、映画作品として、エンタメとしての評価となると、少し冷静にならざるを得ない。
フキという主人公は、その演出も相まって、万人が共感できる人物とはいえない。
彼女に不快感を覚える観客も少なくないだろうし、それゆえ物語に没入できない人も多い気がする。
そうした点を踏まえ、映画としては★3.5かな、というところ。
11才少女の、現実と想像が混在する、映画でなければ描けない世界。主人公フキから目が離せない。
シーン一つ一つが印象的でした。ロケ地岐阜だったんですね
リリー・フランキーさんの静かな熱演に絶句!
少女というより監督の死生観が色濃く出ている作品でした。
主人公の少女が、監督の演出通りに動いて台詞を言っているので子供らしい演技は殆どなく、監督の色がはっきりと伝わってきます。
時代背景を意識した小道具や衣装、音楽が矢鱈と印象に残ったのも監督の成せる技なんですかね。
整髪料の「GM5」がちらりと映ったり、キャンプファイヤーで「ライディーン」が流れ出したりと細かな部分に監督の拘りを感じました。
特にファミレスの「万華鏡」には笑ってしまいました。
当時、何処のファミレスにも必ず置いてあった事を思い出しましたよ。
作品の細部をしっかりと支えていたのは、やはりリリー・フランキーさんの演技でした。
叫んだり、暴れたりする事なく、必死になって死に抗う病人を静かに演じておりました。
リリーさんの細やかな表情や動きだけで「生きる」という事への執着心が伝わる為、娘である主人公が受け身の演技だけでいられたのだと思います。
やはり彼も日本の宝といえる方ですね。
全209件中、141~160件目を表示















