ルノワールのレビュー・感想・評価
全236件中、1~20件目を表示
淡々とした日常の光と影を一枚の絵画のように切り取った作品
本作品は、前作「PLAN 75」で第75回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門で高い評価を得た早川千絵監督の長編監督第2作目になります。また本作品も2025年第78回カンヌ国際映画祭のコンペティション部門に出品されおり注目度が高い作品です。
1980年代後半の夏を舞台に、闘病中の父(リリー・フランキー)と、仕事に追われる母(石田ひかり)と暮らす11歳の少女フキ(鈴木唯)が、大人の世界を覗きながら、人々の心の痛みに触れていく中で、少しずつ大人になっていくひと夏の成長物語。
さて、
観終わった感想は🤫
起承転結のない物語、ごくありふれた誰かの日常をまるで絵日記のように、ごく淡々と静かにみせてもらったという印象です。11歳の少女フキ役の唯ちゃん、なかなかユニークな女の子でしたね。あの頃の子どもはみんなユリ・ゲラーとMr.マリックに夢中でしたからね😎自分の少女時代を見ているかのようなノスタルジーを覚えました。少しばかり無愛想、無感情にみえたのは、監督の演出だったのかしらね🤫しかしこれだけの注目作品に、あの年齢で堂々と主演を演じ切った度胸に拍手👏今後も期待したいですね。
この映画に何か特別なことは何ひとつない。それがいいと思うか、それが物足りないと感じるかで評価も分かれそうではあります🙄
身近な人の死も、大切な人との別れも、思春期ならではの少し危険な好奇心も、程度の違いはあるにせよ子どもから大人になる過程でみんなが体験する少し痛みをともなった記憶です。とくにこの年ごろの子どもにとって身近な人の死は、大きな心理的影響を与えます。人の命は永遠ではないこと、大切な人がある日突然いなくなってしまうこともあること。それを取り巻く大人たちの対応は、時に滑稽で痛ましく、あらゆる感情と対峙しなければならないことを知ります。
それが
「大人になる」ということならば
少女にとって、このひと夏は
少しだけ大人になることを
急かされた夏
ということでしょう🤫
タイトル「ルノワール」
解釈が間違ってなければ、フランスの印象派の画家ですね。
私はおしゃれなタイトルだなと思いましたよ🧐
世界は不思議にあふれている
子どもの無軌道さ、世界の不思議に触れた時の興奮や感動が静かに描かれていて、「子供ってこうだよね」と思った。理路整然としていない主人公の行動はむしろとてもリアル。危険なものも美しいものも、うさんくさん超能力も、初めて経験する時は、等しく世界の不思議だ。断片的なエピソードの積み重ねで一直線に進まない物語が、モザイクガラスのように個々の鑑賞者の思い出を刺激する。
面白いのは、この女の子にとって両親の不和や父親の死さえも初めての体験として、他の経験と等しく受け止められているようなところがある点。
主演の鈴木唯の不思議な存在感はこれから大物になる予感を感じさせた。リリー・フランキーとの父娘の関係に説得力がある。どっちも何を考えているのか、腹の底がわからない不思議な空気が似ている。河合優実は1シーンの出演で、強烈なインパクトを残していた。ルックも音もキレイで素晴らしかった。
幅広い世代に共感と、中高年にはノスタルジーも
本作については当サイトの新作評論枠に寄稿したので、ここでは補足的な事柄をいくつか書いてみたい。
評で紹介したように、早川千絵監督は「ルノワール」を作るうえで影響を受けた映画として、ビクトル・エリセ監督作「ミツバチのささやき」、相米慎二監督作「お引越し」、エドワード・ヤン監督作「ヤンヤン 夏の想い出」の3本を挙げた。プロットを引用したり演出を参考にしたりした、いわゆる元ネタを明かすのは作り手としての誠実さが表れているように思う。
と同時に、2014年の短編「ナイアガラ」がカンヌのシネフォンダシオン部門(次世代の国際的な映画制作者を支援する目的で、各国の映画学校から出品された短編・中編を毎年15~20本選出)に入選、長編初監督作「PLAN 75」がカンヌ「ある視点」部門でカメラドール(新人監督賞)の次点と、すでにカンヌからの覚えめでたい早川監督が国際映画祭の“傾向と対策”をしっかり実践していることを示唆してもいる。「ヤンヤン~」はカンヌで監督賞、「お引越し」もカンヌの「ある視点」部門招待、「ミツバチのささやき」はシカゴやサン・セバスティアンなど複数の国際映画祭で入賞。つまり、「幼い子供が大人の世界を垣間見て、少し成長する」筋の映画は、世界の映画人から愛され、評価されやすい傾向があると言える。そうした過去作の引用を散りばめることは、それら名作のシーンを思い出す点でノスタルジーを補強する効果も見込める。
もちろん1980年代を知る日本の観客なら、当時の出来事や流行を単純に懐かしく感じると同時に、その後に起こるバブル崩壊、オウム真理教が起こした一連の事件、1995年の阪神淡路大震災などを連想して、複雑な思いを募らせるかもしれない。ただしそうした時代背景を知らずとも、誰しも通ってきた幼い頃を思い出させてくれる普遍的な情感に満ちており、共感を呼ぶポイントがいくつもあるはず。
評の最後では鈴木唯について、「願わくばその野生馬のようにしなやかな個性と魅力を保ちつつ、女優として大成することを心から期待する」と書いた。早川監督にもぜひ、鈴木唯の成長の折にふれ、たとえば5年後とか、10年後とかにまたタッグを組んでほしい。フキのその後を描く続編の企画なら最高と個人的には夢想するが、まったく別のキャラクターで作るとしてもそれはそれで可能性が広がって面白い映画が期待できそうだ。
タイトルは 何関係ある?
一番ショックだったのは、
父が外泊でフキと競馬🏇行って自宅に帰った時、
父が部屋の扉開けたら、
妻=フキ母の和装の喪服がかけられていて、
まっともに見たこと。
フキ母、用意良すぎるよ。
あれ、キッツイなぁ、
東京物語でも、
上京して来た両親が帰郷中母が倒れ、
まだ進退わからない中、
長男と長女が帰省するにあたって、
喪服必携の会話してる箇所、
イヤだった。
フキ母は夫=フキ父の助かりそうにない病気に絶望感、
もだけど、
もう好きでもなくなったからあまりショックじゃないのか⁉️
それより自身の勤務先での処遇について頭が一杯❓
でも、部屋を個室に移してたよね。
先が短いし、
そんなに日数かからないから、せめてもの心尽くし❓
そんなフキ母、
会社からムリムリ行かされた研修にいた人に恋❤️❓
なんかわからないけど癌を治すドリンク❓
たくさん買うしレストランでお食事するし
フキにぬいぐるみ買ってあげる機嫌の良さ。
そんなこんな両親の気持ち知らずに、
河合優実サンと会ってだのは催眠術をかけてあげてて、
呼び出されて会ってた坂東龍汰サンは変態ロリコン野郎、
母親が帰って来て本当に良かった。
見知らぬところにほっぽり出されて歩いてたら、
フキ父が迎えに来てくれて
帰ってから爪切ってくれた、
忘れられない思い出。
フキの担任、えっ、おじいちゃんかと思った。 ナゼ⁉️
林間学校も行く。
英会話教室のケイト先生優しくて
フキより悲しんでくれたけど、
フキ、フキ母と旅行の途中に
ケイト先生のところに立ち寄ったのは余計かな。
いろいろお褒めいただいている作品かしれませんが。
ざんばら髪
2025年のカンヌ映画祭でいちばんフォトジェニックだったのはカメラの前でバンザイポーズをとった沖田フキ役の鈴木唯だった。無垢な子供が、じぶんに向けられたおびただしい数のカメラに興奮していた。カメラマンたちも、その映画祭でほとんど唯一といっていいほど承認欲の匂いがしない人物を見つけたから夢中でフラッシュを浴びせたのだろう。あの鈴木唯を見て以来ルノワールが見たかったのだが、見たときには次のカンヌ(2026年79回)が始まっていた。無邪気な鈴木唯のフォトシュートは、「chie hayakawa yui suzuki cannes」あたりで検索すると見られます。
闘病中の父と仕事に追われる母と暮らしている少女ふき。敏感さと無神経さをあわせもった感受性豊かな11歳の少女をカメラが追っていく。早川千絵監督の幼少期の記憶や感情にもとづいた映画とのこと。発想の元となった映画にミツバチのささやき、お引越し、ヤンヤン夏の想い出を挙げている(日本語wikiより)。個人的にははちどりを思った。
カメラがよかった。浦田秀穂という人で早川監督の前作PLAN75や入江悠監督のあんのことを撮っている。元気な子供の生命感を、強い陽光や色彩に変えて表現することができる力量を感じた。演出の運びも日本映画風ではなかった。余命わずかな父親の存在によって、普通の日本映画だったら「かわいそう」に全振りしてしまいがちなところだが、この映画は「かわいそう」に一ミリも振らなかった。母親役石田ひかりも、折れることのないさばさばパーソナリティで観客の同情をいっさい集めようとしなかった。もし審査員だったら石田ひかりを演技賞に推したいと思った。
『早川千絵監督は、がんを患った父親との自身の幼少期の経験からインスピレーションを得た。彼女は20代前半からこの映画を制作したいと考えていたが、もっと早くに制作していたら「暗すぎる」作品になっていただろうと述べている。現代社会と重なると感じたため、あえて日本のバブル期である1987年を舞台にした。フキ役を演じる新人女優の鈴木唯は、早川監督がこの役のために最初にオーディションで目にした女優だった。』(英語wikiより)。
『もっと早くに制作していたら「暗すぎる」作品になっていた』という吐露には感じるものがあった。
わたしたちは20代30代あたりまで、幼少期の不遇を不幸だったと思っているが、40代50代となれば、自分が不遇だと思っていた幼少期も、世間の普遍のなかに、ある程度あてはまってしまうことがわかる。また、たとえ平均値よりも不幸だったとしても、40代50代ともなれば、そのことに別の解釈を付与している。あるいはしようとしている。したがって『もっと早くに制作していたら「暗すぎる」作品になっていた』とは「かわいそうな境遇」を強調することで暗すぎる作品になってしまった、と言いたかったのではなかろうか。
ルノワールを見るのが遅くなったことで、わたしはルノワールに寄せられた世論の多数派を知っていた。多くの人々が雰囲気映画だというようなことを言っていた。雰囲気映画とは、事件らしい事件はおこらず、撮影のきれいさとか心象描写の細やかさなどで展開していく静かな映画に冠せられることの多い、揶揄を含んだ形容であろうかと思う。わたしも映画を見てそう形容したくなることはよくある。だがわたしにとってルノワールは雰囲気映画ではなかった。
その根拠は、以下のようなことだ。
まず、前述した通り、かわいそうに委ねず、かわいそうキャラを置いていなかった。その代わりにフキ役鈴木唯への観察に神経を使っていた。夏のシーンが多く、フキのざんばら髪に、彼女の活力と映画の核があったと思う。夏、子供の髪が汗によって皮膚に張り付いたり小束になっていることがある。子供はそれをまったく頓着しない。そんな無邪気な子供らしさがルノワール全編にあふれていた。
感情がにじみ出て“awkward”になる寸前で画面が切り替わった。
撮影がvividでロケーションも音響も編集もセンスがよかった。またポスターや販促画像だが、鈴木唯の笑顔とルノワールのロゴによって、日本映画にはない、いい意味での卓越したコマーシャルセンスを感じた。
劇中でラジオのように流れてくるニュースは、聞いているとどこか滑稽だった。
フキは突然馬の声真似でヒヒーンと鳴いた。
中島歩は佐田啓二のような昭和気配があった。
お友達もお屋敷に住んでいる昭和の少女という趣で、その親や河合優実のサイドストーリーは思いっきり歪んでいたが、浮かずに点景に収まった。
説明的描写がなかった。「鬼が出ておならをして死んだ」に鬼が出たら怖いだろ、おならをしたら可笑しいだろ、死んだら悲しいだろ、と説明をつけたくなるのが心情だが、それをやらなかった。
豪華クルーザーでダンスしているシーンが印象的だった。
冒頭は葬式シーンで子どもたちが驚くほどしっかり泣いている場面からフキの作文朗読へもっていった。「人が死ぬと泣く。死んだ人がかわいそうだから泣いているのか自分がかわいそうだから泣いているのか。わたしがしんだことは自分ではあまり実感がわかなかったけれど、みんながかなしんでいるのを見たらわたしもかなしくなった。目がさめたとき涙が出ていて、びっくりしたけど、ほんとうに夢でよかったなと思った。おわり」
わたしはPLAN75を見た時、とてもいいなと思ったのだが「次のを見ないとわからない」とも思った。そのせいでルノワールに期待していた反面、さほど盛りあがっていない世評に疑念があった。見終えてPLAN75で思ったことが間違っていなかったと確認できた。
ラストで英語の先生が「お父さんにまた会えるとしたらなんて言いたい?」と聞いた。フキはかんがえて「う~ん、ひさしぶり」と言った。それは異様に軽かったが、父親の死に実感のないフキとしては実直な回答だった。監督はそこに「わかっていないゆえのタフさ」を込めたのだと思う。
はちどり(2018)に感動したのは、聖水大橋の崩落事故があった1994年を舞台に、高度成長を優先し人の心を置いてきた時代と、まだ若くて流されてしまった自分を、作者が虚飾なく見つめたからだった。本作ルノワールもバブル期、子供だった自分を見つめ、正直にそれを観察していた。それがよかったのだと思う。
IMDB6.5、rottentomatoes89%、ポップコーンメーターはなし。
突拍子がないようで
みんな少しは変わっているもんだ
小5の少女(鈴木唯)が主人公、お爺ちゃんと言ってもおかしくない父親(リリー・フランキー)は末期がんで入院、歳の離れた母親(石田ひかり)と二人で暮らしている。
主人公は好奇心旺盛で行動派、言い方を変えれば恐れ知らずの無鉄砲。
この一家の日常を淡々と描いているが、一人称ではない。
小5のリアル
オマージュ
11歳、段々と周りが見えてきて、身の回りの大人の悩みや汚いところが...
11歳、段々と周りが見えてきて、身の回りの大人の悩みや汚いところが見えてきて、共感できずに繋がりを感じられなくなる年頃、だけどそんな大人の世界に興味はある。なにより退屈で、自分を持て余している年頃。
元少女の私には思い当たることがたくさんあって、頭がクラクラするような感覚がありましたが、これらの経験で彼女が何を感じたのかがいちいち分かりづらく勝手に肩透かしを喰らいました。
子供時代は何か感じていても自分では理解できなかったり、あっても顔には出なかったり誰にも言えなかったり、持て余したり、一見何も感じていないようにしか見えないこともありましたが、それをわかっていてもフキの感情が分からなすぎて映画の作りが不親切に感じてしまいました。
タイトルとポスターが昭和の日本からかけ離れているのは監督のこだわりでしょうか。私には違和感にしか感じられませんでした。
フキの嘘ではない純粋な感性。
公開当時劇場で鑑賞、Amazonプライムで再度鑑賞した。
主人公フキが、大人の世界、世の中と触れながら、成長していく様を描いた…と当時謳い文句にあったが、初めて観た時はピンと来なかった。
今回再度鑑賞してみて。子供らしい純粋なフキの世界と、大人の現実世界。時折接点を経験し、フキなりの受け止め方をする。しかし、フキの世界はさほど揺るがない。むしろ、現実世界で常識となってしまった歪んだ世界を浮き彫りにされているように感じた。現実に溶け込むようなフキの空想世界は、自然に馴染みながらも、空想の世界とはっきり解る。この先この物語の続きで、フキはきっと大人への成長を示唆するお話なのではないかと思った。
フキの世界は嘘では無い。世の中も嘘では無いが、致し方ない残念なところもある。そんな2つの世界が交わる様が丁寧に描かれている。
ルノワールの絵と名前が登場するが、特にそこにクローズアップされる事はない。しかし、フキが初めて知り受け入れられた大人の世界だったのかもしれない。しかも優しい本当の世界。
全てのシーンにおいて、監督が大事に大事に作られていることがとても伝わり、大変好感を持てた。
踏み込みが甘い、あるある
性別も年齢も違いますが、自分も10代で実父と死別しました。その2、3年前から共働きの両親は喧嘩が絶えませんでした。だから、ヒロインが置かれた状況は「あるある」に感じました。しかし、その共感が感動に変わるタイプの作品ではありませんでした。
本作は特徴は、全てに対して踏み込みの甘い事。親友の母の言動は少し奇異だが、決定的におかしい訳じゃない。母の不倫は子供にとって一大事だし、伝言ダイヤルの男に性的搾取されてしまったら心に大きな傷が残ったろう。しかし、そのピンチも未遂で終わる。それはそれでホッとしましたが、ドラマとしての起伏を中途半端に感じました。
自分の場合、父の死が突然すぎた事と、不仲と思っていた母の号泣に驚き、どうすれば母が平穏でいられるか戸惑い、不安定な時期が暫くありました。その部分は本作と大きく違う為、ヒロインの気持ちを完全には理解できなかったのかもしれません。
愛おしい
観てるあいだ、取り立ててスリルもないし感動もないし(小児性愛の男は、親が帰ってきたために犯行を諦める)、主演の女の子も特別可愛いわけではない。何もかもあっさりなのだが、観たあと、不思議にジワジワくる。何年かあとにもう一度、無性に観たくなる映画ではなかろうか。
しかしこのくらい引っ掛けのない映画で、カンヌ出品はちょっと無理だったんじゃないかね。カンヌは、制作者と興行師との仲を取り持つ見本市。芸術的判断を下す場ではない。
一応、やれパルム・ドールだ、やれグランプリだとやってはいるが、あれは映画という商品の商品価値を高めるための箔付けにすぎません。
フキの小さな表情が心に残る映画
『ルノワール』を観ました。大きな事件や強いストーリーが前に出る作品ではなく、日常の空気や人の揺れを静かにすくい取ったような映画でした。個人的にはかなり好きな雰囲気の作品です。
観ている途中は、家族の不和や家庭の不安定さが描かれていたこともあって、少し不穏な方向に進んでいくのかと思いました。自分にはそうした描写がやや重く感じられ、少し身構えてしまうところもありました。ただ、最終的には母と主人公・フキのあいだに、わずかでもつながりが戻ったように見えるラストがよかったです。
特に印象に残ったのは、列車の中で母親と手をつなぎながら、持っているトランプの絵を当てる場面です。当たったかどうかよりも、その時間の中で母親とつながれていること自体が、フキにとって大きかったのではないかと思いました。母親が答えを口にした時の、フキの少しだけうれしそうな表情がとてもよかったです。
1980年代の少女の夏休みを描いた作品として見ることもできると思いますが、自分にはそれだけではなく、誰かとつながりたいという気持ちや、家庭の中で揺れる感情が静かに描かれているように感じられました。派手さはありませんが、余韻の残る映画でした。
メタファー
エッセイ 「つながり」を証明しようとした少女と、言葉を失った気づき
日本がバブル経済のただ中にあった1980年代後半。
「一億総中流」という言葉が象徴するように、人々は同じような生活と価値観を共有していると信じられていた。だがその均一さは、本当に実体のあるものだったのだろうか。それとも、ただそう“見える”ように整えられた幻想だったのだろうか。
映画『ルノワール』は、その均質な世界の中で、明らかに「違い」を感じ取ってしまう少女フキの視点を通して、この問いを静かに掘り下げていく。
フキにとって、他人と自分の違いは最初から明白だった。にもかかわらず、大人たちはそれを言葉にせず、同じであるかのように振る舞う。その不自然さは、彼女にとって興味であり、違和感でもあった。だから彼女は、人と人が本当に「つながる」ことができるのかを確かめようとする。
その手段が、テレパシーだった。
それは超能力への憧れというよりも、「言葉を介さずに心が通じるのか」という実験に近い。言葉は嘘を含み、大人は本心を隠す。ならば言葉の外側で、直接的に心と心は触れ合えるのではないか。フキの試みは、ある意味で非常に純粋な探求だった。
しかし同時にそれは、他者の内面に踏み込む行為でもあった。彼女は妄想を語り、反応を観察し、ときに人の心を揺さぶる。それは実験でありながら、無自覚な介入でもある。
この映画が巧妙なのは、その現実と妄想の境界を曖昧に保ち続ける点にある。父の存在、出来事の連なり、それらが実際に起きたのか、それともフキの内面で再構成されたものなのかは明確に示されない。だがその曖昧さこそが、彼女の世界のあり方そのものなのだろう。
そんな中で印象的なのが、動物たちの存在である。馬、ネオンテトラ、セキセイインコ。言葉を持たない彼らは、嘘をつかず、役割を演じない。ただそこにいる。その存在に対してフキは、むしろ人間以上の「つながり」を感じているように見える。
特に馬は象徴的だ。強く、美しく、人間に従うようでいて完全には支配されない存在。フキにとってそれは、言葉にできない「生」の象徴であり、理想的な他者でもあったのではないか。
一方で人間はどうか。言葉を持つがゆえに、本心を隠し、関係を演出する。伝言ダイヤルに残された匿名の声は、つながりを求めながらも、どこにも届かない孤独を浮かび上がらせる。それは、均質な社会の中で見えなくなっていた断絶の裏側だった。
やがてフキは、ある地点にたどり着く。
それは「つながりを証明する」ことの限界であり、同時に別の気づきでもある。
クルーザーのパーティーが象徴する、整えられた幸福。
その中にあってもなお、人はそれぞれに異なり、完全には分かり合えない。
それでも――。
ラスト、母とのテレパシーごっこ。
「ダイヤのクイーン」
それが当たったのかどうか、フキは答えない。
重要なのは結果ではなかったからだ。
彼女が受け取ったのは、「当たった」という事実ではなく、実験に付き合ってくれた母の存在だった。同じ時間を共有し、同じ遊びに乗ってくれるということ。その時点で、すでに何かは通じていた。
つながりは、証明するものではなかった。
気づくものだった。
その気づきは、言葉にはならない。
結論にもならない。
ただ、感覚として残る。
だからフキはこれからも繰り返すだろう。
人を理解しようとし、踏み込み、戸惑い、また立ち止まる。
だが、ひとつだけ変わったことがある。
彼女は「立ち止まる」ことができるようになったのだ。
それは他人を変えようとしないという選択であり、同時に、自分の感覚を手放さないという態度でもある。問いを捨てず、しかし答えを急がない。その不安定な場所に立ち続けること。
それは成長と呼ぶにはあまりに曖昧で、しかし確かな変化だ。
タイトルにあるピエール=オーギュスト・ルノワールの絵画が、意味や物語ではなく、光や空気の“感じ”を描いたように、この作品もまた、明確な答えではなく「感覚」を提示する。
そして観客である私もまた、その感覚の中で、自分の在り方に触れることになる。
私はこの作品を観ながら、最初は「生活を変えたい」と思っていた。
だが気づけば、「自分を変えたいのではないか」と考えていた。
しかし今は、少しだけ違う。
変えるのではなく、見続けること。
うまく言葉にできない感覚を、そのまま手放さずに持ち続けること。
繰り返しながら、ときどき立ち止まること。
それだけで、世界の見え方は、ほんのわずかに変わるのかもしれない。
直感的レビュー
2025年の作品
解説には「日本がバブル経済のただ中にあった1980年代後半の夏を舞台に、闘病中の父と、仕事に追われる母と暮らす11歳の少女フキの物語を描く」とあったが、最後のクルーザーでのパーティーがそれを象徴していたのだろうか。
当時言われ続けた「1億総中流意識」
みな同じような生活スタイルと認識 そして流行 それらがひとつの個性となって全体を覆っていて、個々人の個性や思考の違いが分かりにくかった時代でもあったのだろうか。
主人公フキにとって、他人と自分との違いは歴然としているのに、その違う理由や多彩性に対する興味は絶えない。
そしてフキにとって重要だったのが、以心伝心というのか感情や心の繋がりというのか、その見えない繋がりは絶対にあって、それを見つけたいのと証明したいと思っていたのだろうか。
TV番組の超能力 かつてユリゲラーが有名だったが、彼が送るテレパシーを視聴者がキャッチする番組があった。
僕も当時それを見て彼のテレパシーを受取った記憶がある。
紙に書いた数字を当てるものだったが、僕には彼の描く数字の筆跡まで辿ることができた。
おそらくフキもそうだったんだろう。
彼女の、他人の心との繋がりこそ、当時の彼女のテーマであり、かつての人々の関心でもあった。
フキは特定の人物をターゲットにして、その人の思考や感情に繋がる試みをする。
加えて彼女は、妄想を作文に書くことや人に話すことで、人の反応を確認する。
それはフキにとってはまじめな実験だったが、人の心をもてあそぶ行為でもあった。
そしてこの作品は多くを語らないことで、映像が実際のことなのか妄想なのか、非常にわかりにくい。
メタファーもそれを象徴しており、最後の食卓のシーンでは、父が生きているようで、それはフキの妄想だったのだろう。
英語教室の先生に父の葬儀のことを話し、ハグされたこと。
「もう一度父に会ったら、何て言う?」と聞かれ、「久しぶり」というと言ったフキだったが、彼女の鮮烈な妄想では、実際には何も言わず、ただいつもの父の風景があるだけだったのだろう。
母が「塩を取って」と何度か言うが、父がいれば代わって取るだろう。
この細かさが、なかなか利いていた。
同時に流れているニュース オオカミ この嘘
母との二人旅は、父を偲ぶ旅
電車の中で母とするテレパシーごっこ
母に伝えるテレパシー 「ダイヤのクイーン」 にっこりとほほ笑むフキで、幕を閉じる。
他人に伝わったテレパシー
他人の心や感情を同じように感じることができるということ。
病院の窓の外に吊るした紐は、祈りというよりも父と心を通わせる実験
フキの視点とフキを俯瞰する視点 この視聴者へ向けられた視点が、フキという少女の内面へと誘う。
フキは父と母の言動から、大人の表の顔と裏の顔があることを知る。
それは子供から見れば不思議さと理由への興味となる。
それは大人だけではなく、英語教室のチヒロにも向けられた。
彼女の家で見つけた写真 あれはいったい何だったのだろう?
その後に起きた彼女の引っ越し 青森の祖父母宅
これは両親の離婚だったように思った。
あの写真は興信所に撮らせたもので、それをフキが見つけてゲームの中でチヒロに発見させた。
これがきっかけだったのだろう。
フキはあの写真をどのように解釈したのだろう?
解釈できなかったから、チヒロに委ねたのだろう。
同時に、フキには何もわからなかったようにも思える。
チラシの「伝言ダイヤル」 当時も流行っていたような気がする。
他人の言葉から感じる「つながりのない寂しさ」の声
たくさんの伝言の声を聴く。
そして馬というモチーフ
馬の鳴きまね 競馬場の馬 フキが描いた馬の絵 馬の親子の絵 本物の馬と鳴き声
ネオンテトラ セキセインコ 彼らとの心の交流
話すことのない動物たちに感じる以心伝心
話すことができて、気持ちを伝えることができる人間に感じる分断
フキが馬に感じていた、言葉にできない「生」の象徴
それを馬の鳴きまねで表現した。
タイトルのルノワールという画家 美しさの中に感じる今この瞬間の光や空気 それが逆に現実からの距離にもなる。
この作品は意味よりも、感覚を感じる世界を象徴しているのかもしれない。
本当の心 思いを伝えず、表向きの体裁上のことしか話さない大人 この不思議
伝言ダイヤルに感じる本心 他人だから言える本心 アノニマス会
1億総中流意識が生んだ「同じ」という幻想 バブル思考
本当は同じバブルなどなく、すべて個性があるということ 時代の流れ 当時の思考
戦争ドキュメンタリーの恐ろしさに倒れたチヒロ
フキにはそれが単なる映像でしかなく、それをそのまま想像することへの抵抗があったのだろう。
事実の理解の前に知りたい本当の心 本当の感情 ダイレクトなつながり
冒頭の「泣く子どもの映像」 夫を気持ち悪いと言った妻の言葉
催眠術にかかったふりをして話す「事実」を、フキは事実としながらもそれ以上深く介入しない。
嘘のない大人の言葉は、フキには理解できなかった。
泣く子どもの映像 本気で泣いている映像 そこに見る明らかな感情の揺れ 激しい嗚咽 助けてのサイン これらが、バブル期の大人の気持ちを揺さぶった。
そこに感じた気持ち悪さ それはおそらく何もできないことを理解することだったのかもしれない。
泣きじゃくる子どもを見ても何もできない大人 自分自身という等身大の鏡 無力 無能…
自分自身が無能だと感じる時に現れる、真実。
おそらく妻はそこまで辿り着いてなかった。
でも、何かがあったし、何かを感じた。
ただ、そこで「気持ち悪い」と断罪しただけだった。
この事実に対し、フキは手を打って止めた。
そしてフキに残ったのは、無感情を決めたことだった。
フキもこのビデオを見ていた。
フキには、泣くという行為で感情をむき出しにする赤ちゃんたちの感情を感じていたのかもしれない。
だから同じビデオを見ていた女性の夫の気持ちが、フキにはわかり、同時にわかろうとしなかった女の言葉をシャットアウトしたのかもしれない。
以心伝心 この実験をテレパシーで試す。
母に送ったテレパシーが通じる。
それは偶然かもしれない。
でもフキは、あり得ることにした。
そんな世界があれば、馬のように嘘偽りのない世界になる。
純粋で、単純な子供の発想 でもその想いを失わないようにする感覚こそ、型にはまらない新しい生き方なのかもしれない。
子供の頃を思い出した
Amazon primeで鑑賞。
冒頭からフキの妄想の映像で、どんな映画が始まるんだ?って(笑)
主人公のフキは、超能力にはまっていて、透視能力の訓練にいそしんでる、ちょっと面白い女の子です。
友達の母親の不倫の写真を見つけて、ゲームを通して友達に教えたり、
伝言ダイヤルに興味を持って、電話してみたりと
大人の世界に興味深々なのと、ちょっとだけ馬鹿にしたような感じで、生意気だけど憎めない可愛い子だなと思いました。
癌末期の父親と、仕事に忙しくしている母親に挟まれて、少し寂しさがあったのかもしれないですね。
本当は両親の事が、すっごく好きなんでしょうね。
私も少し変わった子だったので、超能力の訓練もしてました(笑)
妄想と空想で遊んでた記憶もあります。
可愛げもなかったです(笑)
大人の世界を見てみたくなるのも、なんとなくわかります。
大人って子供から見ると変ですよね(笑)
早く大人になりたいような、なりたくないような。
そんな小学生の頃を思い出させてくれる映画でした。
好き嫌いが分かれそうな映画かもしれないです
全236件中、1~20件目を表示










