ルノワールのレビュー・感想・評価
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好きな映画なので2度見たけど、娯楽作品としては面白くないと思う。
僕は、例えば「M:I」みたいなエンタメ作品でも出演者の日常生活や暮らしを描いた部分が好きで、飽きずにずっと見ていたいと思ったりする。もちろん日常生活だけで終わってしまったら「M:I」にならないし、娯楽作品として面白くも何ともない。て言うかダメである。
さて今回の「ルノワール」だが、主人公のフキ1 1歳のひと夏の体験が日記のように断片的に描かれる。何となくひと繋がりの物語が有るような無いような感じだ。
僕はこういう日常生活みたいのをずっと見てるのが好きだけど、物語として面白いかって聞かれると全然面白くない。もし2時間以上やってたら絶対眠くなる。
1987、8年頃に11才だった早川監督(1976年生まれ)の記憶や体験が、映画に反映されてるのだと思う。フキは自分の投影で、それを映画にしたのかもしれない。
カンヌのコンペティション部門に選ばれたということは、審査に通って賞レースに参加したって事らしい。審査員のほとんどは1980年代後半の日本の世相を知らないだろうから、いったい何が面白かったのだろう。きっと何か映画としての面白さや芸術性で選ばれたに違いない。僕にはサッパリ分からない。審査員には映画の時代背景の資料とかが配られるのかもしれない。
フキが周囲の大人たちとやり取りする中での表情が面白い。
一番面笑ったのが、英語塾の先生がフキに同情して抱きしめたときの戸惑ったような困ったような顔だ。
日本てハグとかの習慣ないから、親戚でもなく、週一ぐらいしか会わない先生に抱き締められても困るよねえ。ねー。
あと、ダイヤルQ2がらみのところは、さすがに犯罪に巻き込まれるところまでは行かないだろうとは思っていたが、ハラハラしたぜい。危っぶねー。
(追記訂正)
ダイヤルQ2ではなく、伝言ダイヤルが正しいみたいです。どっちも使ったことないからゴッチャになってました (/--)/
それから、ポスターにもなってる、最後の船の上で楽しそうに踊る場面が気に入った。フキの喜怒哀楽の表情がハッキリ分かる場面は一つもなかったような気がするが、ここだけは笑顔で楽しそうで良かった。この場面の意味は分からないけど (^^)。やっぱし夢の場面なのかな?
以上、おしまい。
2025(令7)/6/21㈯ A
6/25㈬ A
少女から大人への間の光と影
少女から大人へ移ろう瞬間の日常を光と影を織り交ぜて繊細に点描する、「PLAN75」の早川千絵監督の長編2作目。2作連続で今年のカンヌ国際映画祭出品作品となった。
11歳の少女フキ(鈴木唯)は発想豊かで個性的な小学5年生で周囲からは少し浮いている。
末期がんで余命わずかな父親(リリー・フランキー)と管理職で忙しくいらいらしがちな母親(石田ひかり)の間で比較的放任され自由に育っている。英語教室で出会う裕福な家庭の同級生、過去を抱える同じマンションの女性(河合優実)、母親が通うセミナー講師(中島歩)、伝言ダイヤルの男性(坂東龍汰)などとフキのエピソードが点描される。
どのエピソードでもフキは奔放で配慮がない。それは純粋さと無意識の残酷性を併せ持ったこの歳頃の少女特有のものとして瑞々しく描かれている。
オーディションで選ばれたフキ役の鈴木唯は観ていてハラハラするようなシーンを伸び伸びと演じ切っていて驚く。
時代背景の80年代後半は携帯電話もスマホもインターネットもない時代。超能力やUFO、心霊現象や怪しげな健康食品など怪しげなもので溢れ、嘘と事実が混濁しどこかしら牧歌的な時代であった。フキの奔放さはこの時代背景だからこそ引き立つ。
そして「ルノアール」というタイトルは早川監督が映画のイメージを限定させないために、あえて物語と関連性がないタイトルを付けたと語っているが、フィルムルックなコントラストの映像といい、フキが自転車で駆け抜ける広々とした郊外の川沿いの夕景など、屋外の情景を光と影で描いた印象派を想起するものとなっている。
監督の評価は保留にしたい
かなり難しい。上映中から大いに頭を悩ませた。
この映画の作者が何を言いたいのか、何を訴えたいのかはぼんやりとわかったつもり。それを言葉にしてこのレビューに残そうと思うといろいろと悩んでしまう。それが難しいと言った点。
ぶっちゃけで言ってしまえば早川千絵監督の個人映画であり、今の自分自身の残しておきたい映像を鈴木唯の姿を借りてフィルム(現代はフィルム撮影ではないよというツッコミはさておいて)に残せたわけだから、その意味でこの作品は大成功。どこのどんなツテを使ったかはわからないがそれがカンヌまで届いたのだからこれまた成功。過去にこんな手法で世に出た監督がいたなぁと思ったら河瀨直美の顔が浮かんできた(苦笑)。
彼女同様に早川監督は「撮れる」という評価はできるが、観客にどう伝わるかという考察が足りないのではないか?だから商業的に見ると当たり外れが大きい。最後まで僕を椅子に繋ぎとめておいたのはティーザーにも使用された楽しそうに踊るカット。これが最後の方にちょっとだけ出てきて、その印象だけで映画が終わる。論理に裏付けられた思考がないから論理ではなくただの印象だけで「良かった」「悪かった」と論じるしかない。それはこちら側も問題かもしれないが正直に。
全体を見るとここでも指摘の通り「お引越し」や「こちらあみ子」などの影響も感じる。もっとも「お引越し」は古すぎてこちらの記憶も定かではないすまん。
唯一、おそらく誰もが指摘するであろう技術的短所が整音だ。BGMがセリフに丸かぶりしたりきちんと拾えていなかったり。これは日本映画共通の弱点ではあるが今回は顕著だった。どうにかならないのかな。
ともかく、自己顕示欲丸出しのような今回の作品でも一定の評価は得たわけだから、早川監督には「伝える」技法をもっと研鑽していただき、真の評価は次の作品まで待ちたいと思う。
どう読み取るか
共感するしない。
それは正に個々の思考の問題であって、相違があれば焦燥感や孤独感・痛みを味わい不安に駆られ、合致すれば歓びや哀しみを共有し安心感・幸福感をもたらす。
その最たるものが、エンディングでのフキの微笑みであり、催眠術であり、伝言ダイヤルであり、森のくまさんだったのでは。
多感な時期を過ごすフキ。その心の移り変わりを唐突に場面転換で表現していると思うと、一見、脈略ない転換に見えるが腑に落ちる。
そして、その対局にあるのが父圭司。
死という現実を突きつけられ、向き合い受け容れる。ただ死という一点だけを見つめて病室で過ごす日々。
人は目まぐるしく思考している。その思考の中で立ち位置を探し、もがき苦しむこともあれば歓喜することもある。
「幸福の画家」と呼ばれるルノワール。
それをタイトルに持ってくるあたりも巧妙。
いろんな要素が鏤めてあり、なかなか欲張りさんの物語。
それこそ思考が重なり合えば、こんなに奥深い作品はないだろう。
難しい。
女優・鈴木唯
アートっぽい雰囲気で始まりちょっと期待してみたが
「やっぱり自分に合わない」と感じてしまった。
え、理不尽な殺人事件の被害者かよ?
え、お父さん大病で死んでしまうのかよ?
え、ご近所さんの旦那さん、事故で死んじゃったのかよ?
死に方のありがちな設定の全部載せ、ご苦労様です。
身内が事故で亡くなった日のことを話す未亡人の姿が
「○○の×が△△△△、と■■□□ない★は」の
あの人とまんま被って見えた。河合優実は好きだけど、
不幸な役ばっかりで新鮮味を感じなかった。
小学生の両親役の役者さん、年齢層高め。
怪しい大学生の家に上がって、これからどうなる?という時
まさかの家族の帰宅。しかし少女を連れ込んだことは
発覚しなかった。玄関に少女の靴はなかったのか?
いろいろと違和感がある映画だったけど、オーディションで
役を獲得したという鈴木唯の、いきなりの主演が見どころ。
約2時間の映画の主演女優としてほぼ出ずっぱり。
感受性や死生観が独特な少女の役を見事に演じきった。
物語が特別面白いと思わなかったし演出に感心することも
なかったのでもう一度観たいとは思わないが、逸材の
新人女優の初主演作品という価値で記憶には残ると思う。
口臭い・・・
今作で一番のパワーワード 多分、フキはこれを一生背負って生きなければならない・・・ これが一番の悲しい出来事だと思う※自分も母親にいつも言われていて、舌苔をこそげ落とす器具を誕生日にプレゼントされた(泣)
感受性の豊かさに共感
映像美はあるのだが…
・映像美はあるのだが…+αがない、あるいは物足りない。
映像・トピックの継ぎはぎ感、パッチワーク感が拭えない。
・シークエンスのつなぎに河原のシーン、鉄道のシーンが挿入されているが安易では?鵜飼?のシーンがあったが、外人の東洋趣味(オリエンタリズム)をくすぐるもの以上ではないのでは?
・なぜ、今“伝言ダイヤル”なのか…
・映画は、今起こりつつある事象、あるいはこれから起こりうる事象を先取りして取り扱うものである(たとえ時代設定が古くても)、と思うのだが、そのような事を感じさせることのない映画だった。
・幼女趣味の男にホイホイついて行ってしまう女の子はストーリーとしてオカシイし(たとえ夢の中の話だったとしても)よろしくない(カンヌ等世界的舞台では、尚更受け入れられないだろう)。
・YMOのライディーンは今聞いてもカッコイイ。大音量で聴けて良かった。ダンスも良かった。もっと長く見ていたかった…。
自分を客観視するのは難しい
風変わりな小学五年生の女の子の話。
2022年公開の『こちらあみ子』っぽい。
あみ子は自分の行動がどういう結果をもたらすかわからずやってるけど、フキはある程度わかってやってると思うので、こちらの方が悪質(笑)
自分が不遇な環境に置かれた状況を想像して作文に書いたり、友達の家族の秘密をそれとなく伝えたり、伝言ダイヤルに興味をもったり…
子供なのもあって、フキに何か起こることは少ないけど、大学生との交流はかなり危険なことに。
フキ以外の家族がまともかというと、それぞれ秘密を持っていたりして、みんな他人に厳しく自分に甘いのだなと思う。
描写が最小限なので、よくわからない部分もあったけど、フキの視線で見る大人の世界が面白いので、そういうのが好きな人なら。
配役について、リリーフランキーが父親に見えない。おじいさんかと思っちゃった。
純粋さと危うさの共存
鑑賞後、これは小5の女の子ととある日常を切り取った話だと思った。小5は20歳の半分、つまり子供から大人に変わりろうとする始まりの時期だと思う。中高生よりも幼く、なんでも興味も持つが、善悪の判断がなく、良くも悪くも汚れがなく純粋。だからこそ主人公はあらゆることに興味を持つ。周りから知ればなんでそれに興味を持つかわからないことでさえ、彼女にとっては新鮮で面白く、未知が故に狂気的。そういう子供ながらの純粋さに焦点を当てているのかなと思った。
時々、まるで疲れ果てた大人のように冷めた、全てを見通すような目に見えたのは、母親のヒステリックさと、父の病気によって子供ながらに大人として振る舞うようになったからなのか、そういう日常を過ごす中で日々をフラットにとらえるようになったからなのかなと思った
描写の力
エグい始まり方だなと思ったら、「こんな夢を見た」の作文なんだよね。
それで、主人公が不思議ちゃんというか、独特の感性を持つことが分かんのね。
それで、作文の内容が不穏なので、お母さん(石田ひかり)呼び出されちゃうんだけど、石田ひかりも「先生って暇ね」って良いキャラなの。
石田ひかりは勤めてて管理職なんだよね。そしてどうも部下を激詰めする。ここも描写でやるんだよね。書類を廊下にぶちまけてしまった部下を手伝いながら「すいませんじゃなくて、具体策出して」って。それで、どうも、もう一人の部下が休みがちだと思うと、パワハラ認定されてしまうという。もちろん描写。
現代の話なのかなと思って観てて、なんか超能力ブームみたいなの起きてておかしいなとか思うんだけど、主人公がウォークマン聞いてて気付いた。1980年代が舞台だね。最初の《FRIDAY》やビデオテープで気づけって話だけど。ここも描写。
石田ひかりは研修受けさせられて、そこの講師が中島歩なんだけど、怪しいね。ここは描写もあるけど、中島歩が出てきたら、もう怪しい。
休憩時間にベンチに座る石田ひかりに中島歩が近寄って、石田ひかりが顔を上げると『不倫するんだ』って分かるのすごい。
とにかく何から何まで、くどく説明しないんだよね。描写で人物を分からせてくるの。
これができるのって、登場人物を完全に掴んでるからだなって思った。その完全に掴んだ人物を表すのに、どんなシーンが効果的か考えてやるんだろうな。
ストーリーはあると言えばあって、主人公のお父さんのリリー・フランキーが癌で亡くなるところを描いてるんだけど、まあ、そこは、どうでもいい。石田ひかりは怪しい健康食品買っちゃうし、リリー・フランキーは怪しい気功に金払っちゃうしで、弱ってるやつに寄ってくる奴らひでえなとも思うし、人間って、そういうもんなんだと思うけど、まあ、ストーリーはいい。
その状況で、登場人物がどう動くかを、丹念に描写で描いてくんの。そこがすごいな。
文句なしの作品なんだけど、ちょっとだけ引っ掛かったことがあって。
石田ひかりはパワハラ認定されてるけど、この時代だと「メンタルで休むなんて根性なしめ」って感じで部下の方が詰められると思うんだよね。
あとリリー・フランキーの見舞いにきた部下が「(あの人)空気が読めないだけなんだよ」って言うんだけど、「空気読めない」は1980年代だと言わないんじゃ。どうなんだろう。
逆に言えば、そんな細かいことが気になるくらい、他のところは素晴らしかったよ。
徒然なるままに‼️❓よじれた心のちびまる子ちゃん‼️❓
ただ一人、いつまでも生きていてほしいと願う人
オープニングから衝撃的な展開で始まるのは、早川千絵監督の前作『PLAN 75』と同様。
映画全体を通して説明は最小限に抑えられているが、観客がその意味を想像できるよう巧みに作られており、個人的には好みの作り。
舞台は昭和末期だが、女子たちが黒魔術に夢中になる様子を観ていて、かつて流行した「こっくりさん」を思い出した。
予告編を見た際、「“哀しみ”を知り、少女は大人になる」というメッセージから、2015年のピクサーアニメ『インサイド・ヘッド』と類似したメッセージを感じた。
しかし、実際に鑑賞してみると、その印象は異なっていた。
『インサイド・ヘッド』が「哀しみ」の必要性を描く一方で、本作は少女が「哀しみ」を初めて知るまでの過程を描いていた。
本作には、大きく分けて二つのテーマがあると感じた。
一つ目は、『PLAN 75』でも描かれた「年寄りは早く世の中から消えてほしい」という世間の風潮について。
リリー・フランキー演じる主人公フキの父親は、末期癌を患いながらも生きることを決して諦めない。
あらゆる治療法を試し、闘病中でありながらも仕事に励み、社会復帰を諦めていない。
しかし、映画が進むにつれて、周囲の人々の思惑が異なることが明らかになる。
妻や仕事の同僚からは表面上は励まされているものの、その内心では見捨てられていることが見て取れる。
この事実が判明してからは、父親の必死に抗う姿がより一層切なく胸に迫る。
そのような周囲の人々の思惑とは裏腹に、フキだけは言葉にはせずとも、父親にいつまでも生きていてほしいと心から願っていることが伝わってくる。
暇を見つけては病室へ赴き、父親に寄り添うフキ。
ある時、父親が急遽自宅に立ち寄ることになり、部屋の明かりをつけた際に壁に吊るされた喪服を見て愕然とする。
その様子に気づいたフキが、そっと部屋の明かりを消す場面では、思わず胸が締め付けられた。
フキと父親が遊園地で過ごす場面で、父親が一人ベンチでぐったりしていると、数名の若者が父親をからかい始める。
この光景は、2021年の西川美和監督作『すばらしき世界』に登場する、介護職員が患者を陰で嘲笑する戦慄の場面を彷彿とさせた。
その時、フキが取った行動には「いいぞ、もっとやれ!」と心の中で喝采を送ってしまった。
もう一つのテーマは「小児性愛」について。
河合優実は『PLAN 75』でも印象的な脇役を演じていたが、本作でも前作とは全く異なる雰囲気で登場。
彼女の登場シーンは短いながらも、この映画では珍しく長台詞があり、彼女の台詞を要約すると「どんなに愛する夫であっても、小児性愛者と判明したら、気持ち悪くて無理」というもの。
今年公開の『今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は』でも河合優実の長台詞は出てくるが、社会的メッセージとしてはこちらの方が強烈。
舞台が昭和末期のため、出会い系アプリの代わりに伝言ダイヤルが登場。
フキが興味本位で吹き込んだ「小5…」という短いメッセージに男が食らいついてくる様子は、2021年にチェコで制作された衝撃的なドキュメンタリー『SNS 少女たちの10日間』を想起した。
近年、未成年の少女を自宅に連れ込み逮捕される男のニュースを頻繁に目にするが、本作の後半の展開はまさにそれを映像化。
そうしたニュースが報じられた際のヤフコメを閲覧すると、男側に言及する意見は少なく、大半が少女やその親を非難する内容ばかりであることに、毎回驚きを禁じ得ない。
そのたびに、「本来ならば男側が大問題であるはずなのに、なぜこれほどまでに男側に甘いのか」と感じてしまう。
「おそらく、ヤフコメに書き込む層の中には、少女を自宅に連れ込みたいと考える人々が多いのだろう」と勝手に推察。
被害女性やその親を非難する人々は、この映画の後半の展開を観ても、被害者側を叩こうとするのだろうか?
タイトル通り
『ルノワール』を観ていると、2022年公開の『こちらあみ子』がふと頭に浮かんだ。
どちらも、普通とは少し違う感覚を持った少女の視点から世界を見つめている。
言葉や感情を大げさに説明することはなく、映像や音の中に少女の内面を静かに映し出している。
この2作品に共通しているのは、少女たちの「世界の見え方の違い」を欠点や悲しみとしてではなく、もう一つの大切な視点として描いていることだ。
普通とは違うからといって劣っているわけではなく、その違いこそが彼女たちの世界を豊かにしている。
その静かな優しさや誠実さが、観た後に心にじんわりと残り、軽くなるような感覚をもたらしてくれる。
『ルノワール』には派手な展開や劇的な出来事はほとんどない。
しかし少女の視線を通して、世界の輪郭が揺らぎ、観ているこちらの心の中にある何かと静かに出会わせてくれる。
それはまるで、澱んでいた水が少しずつ澄んでいくように、自然と心が癒されていく感覚だ。
この映画は、誰かと感想を語り合うためのものではなく、ひとり静かに見つめて、自分の中にあるもやもや、よごれにそっと触れる時間をくれる。
だからこそ、個人的には一人で鑑賞されることを勧めたい。
フランス映画みたいな
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