「空虚をまとう“芸術風”への怒り」ルノワール 平岡 靖宏さんの映画レビュー(感想・評価)
空虚をまとう“芸術風”への怒り
「ルノワール」という映画を私は全く評価しない。星一つすら与える価値を感じなかった。
最大の問題は、この映画が観客の知性や感性をまるで信頼していないことにある。題名は「ルノワール」。しかし、その名が意味する絵画的背景や人物像、芸術思想に踏み込む描写は極めて乏しく、ジャン・ルノワールの絵画を父の病室に飾る、ただそれだけに等しい。それは“ルノワール”という看板を借りた、まやかしのブランドにすぎない。
確かに、演出は一見「印象派的」だった。だが、そこに明確な意図や構造美があったとは到底言えない。無音とノイズを用いた場面転換は単調で、リズムの変化も読めてしまう。演出意図が透けて見えるほど浅く、むしろ想像力を萎えさせる。
物語も問題だらけだ。起承転結がなく、一貫性も欠けている。自由奔放な少女の心象世界を描くためにあえて構造を破壊したのだとしても、それが成立しているとは思えなかった。類似の構造を持つ作品「怪物」は、あどけなさや危うさを描きながらも、大衆映画としての体裁を保っていた。この映画はそれすら持たない。
終盤の“家出”が夢オチであるという演出も、明確な伏線や文法的示唆がなく、観客の理解に委ねすぎている。たまたま私には読み解けたが、同行した母は「どうやって帰ってきたの?」と私に尋ねた。そこに対し「夢オチなんだよ」と説明することはできたが、それは観客に課すには過酷すぎる読解の強要だった。
加えて、時代設定にも整合性がない。1980年代という設定の中で、「コンプライアンス」や「パワハラ」への言及が登場するのは、あまりにも安直な現代性の押し込みである。まるで時代に対する理解や敬意が感じられない。
私がこの映画に向ける怒りは、ただ「つまらなかった」というような感情的なものではない。
これは映画という形式に対する冒涜だ。
映画は芸術であっていい。しかし、同時に“娯楽”としての顔も持っている。観客がいてこその映画であり、独りよがりのオ○ニー作品を観客に強いることは、“映画”という形式そのものを裏切る行為である。
私はこの作品を見ている間、ひどい現代音楽のコンサートに閉じ込められたような、不快さを覚え続けた。形式に酔い、意味を殺し、感性を麻痺させるその手法は、もはや虚飾でしかなかった。
仮にこの映画が賞を受賞したとしても、私はその審査員やその賞の価値を疑わざるを得ない。なぜならこの作品は、賞を得るために“らしさ”を全振りした、空疎な模倣品にすぎないからだ。
「意味はなく、その時間を感じるだけの映画」──そう表現した自分の言葉が、最もこの映画の本質を言い表しているように思う。だが、その時間は私にとって、ただ無意味な苦痛でしかなかった。
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