「無自覚のカウンター」ルノワール ひつじさんさんの映画レビュー(感想・評価)
無自覚のカウンター
1.ざっくりあらすじ
1987年、バブル真っ只中の東京郊外。11歳の少女・フキは、がんと闘う父、仕事に追われる母と3人暮らし。
本質的な不安を抱えたフキの生活はしかし、どこでにでも日常のなかで進んでいく。
彼女はいつも引き出しを開け、扉をのぞき、見えないものを探している。
彼女は自分の“眼”を研ぎ澄まし、邪気なく(無神経に)残酷に世界を観察していく。
伝言ダイヤル、親の不倫、意思を伝える超能力、死に向かう父との競馬場の思い出。
そして…クルーザー上での祝祭的な(非日常の)ダンス。
フキはどこへ向かうのか。どこにも向かわないのか。
静かなのにざらつく、妙に鮮やかな映像が印象的。
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2.感想文:「無分別のまなざしが、世界の綻びを暴き出す」
この映画を「少女のひと夏の成長物語」として語ると、作品の核心を見誤る。
たしかに、11歳の少女が主人公で、家族の死を経験するという点で、成長譚的な表層を持ってはいる。
だが、実際フキは、成長したのか? そもそも成長すべきなのか?
彼女は最初から最後まで、冷静で、残酷で、そして妙に客観的なまなざしを持って、世界をじっと見つめている。
私はこの映画を通じて、「無神経」という言葉の意味を再確認することになった。
11歳という年齢を考えれば、フキは無邪気だ、というのは簡単だ。
しかし、無邪気の範囲を超えて、彼女の行動は端的に言えば無神経だ。
他人の家に勝手に入り、引き出しを開け、押し入れを覗き、プライベートを容赦なく暴く。果ては友達にそのプライベートを覗き見るように仕向ける。
伝言ダイヤルで赤の他人の人生に耳を傾け、とある男子大学生(これもウソ)と会う約束をする。
他人の心を覗き見る「超能力」に異様な興味を示す。
それらは、どう見ても「悪趣味」であり、快くはない。
だがその“悪趣味”こそが、彼女の真実に対する嗅覚なのだ。
彼女は「正しさ」や「思いやり」では動いていない。
彼女の行動原理はただ一つ——知りたい、確かめたい、という切実な欲望だ。
それは“無邪気”を超えて、明らかに“無神経”の域に達している。
そうした彼女の「悪趣味」な行為は、結果として大人たちの欺瞞や沈黙を暴き出してしまう。
社会の中にある“見て見ぬふり”の断片。
家族という空間に漂う“言葉にならない断絶”。
それらを、フキは誰よりも繊細に、そして誰よりも残酷に暴いてしまう。
父の死は、その極点だった。
家族であるにもかかわらず、父とはまともな対話が成立していなかった。
そしてだからこそ、彼の死は、母と娘の両方に“精神の解放”をもたらす。
怒りでも悲しみでもなく、むしろ不思議な「軽さ」と「自由」。
その象徴として描かれたのが、あのクルーザーのダンスの場面だ。
たしかに、文脈的には唐突で、浮いた印象もある。
だが僕は、あの場面を映画の核心的な断章として受け取った。
踊るフキは、誰にも見られていない。誰とも話していない。ただ太陽のもとでリズムに乗って動いている。
それは救いだったかもしれないし、幻想だったかもしれない。
その解釈は、僕ら鑑賞者にゆだねられている。
でも、確かに映画のなかで最も美しい場面だった。
この映画は、明確なストーリーの起伏があるわけではない。
むしろ、出来事の連なりに意味の因果をつけることを、あえて拒んでいる。
だからこそ観客には、一貫した物語は残らない。
残るのはグロテスクな違和感だ。
そしてその違和感の正体が、「子ども」という存在が抉り出す大人の世界の真実だ。
抉り出された真実は、常にグロテスクで不快なのだ。
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3.芸術としての評価(4.0)/映画としての評価(3.5)
芸術作品として見ると、この映画は非常に完成度が高い。
沈黙、間、視線、画面構成といった要素において、映画らしい映画と言える。
説明せず、誘導せず、ただ映し出す。
その誠実さ、潔さ、美しさを、僕は高く評価したい。
一方で、映画作品として、エンタメとしての評価となると、少し冷静にならざるを得ない。
フキという主人公は、その演出も相まって、万人が共感できる人物とはいえない。
彼女に不快感を覚える観客も少なくないだろうし、それゆえ物語に没入できない人も多い気がする。
そうした点を踏まえ、映画としては★3.5かな、というところ。
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