「余白なんて一切ない、白紙の映画」ルノワール YYYさんの映画レビュー(感想・評価)
余白なんて一切ない、白紙の映画
泣く顔で始り、笑う顔で終わる。極めて希望に満ちたような終わり方である。しかしそれで良いのか?この映画は何をしたかったのか、これは全く分からなかった。
フキが出会う数人の大人との点描的なシーンで積み上げられる時間を扱っている、それぞれのシーンの大人とフキの関係性にはいくつかの解釈が許されているように物語上で説明されることは少ない。これは観客に委ねているに違いないのであるが、それを全て「余白」という都合の良い言葉で纏め上げて高尚な雰囲気にしてしまうのは、いかがなものだろうか。
まずこの作品の時代設定にいささか疑問を持たざるを得ない。80年代後半なのは分かる、しかし、インサートで挿入される電車は余りにも現代のものであり、LEDすら登場する。サマーキャンプでの『RYDEEN』もある種テクノ×キャンプというミスマッチを演出するシュール的且つ時代設定を説得するために?使用されるが、、、しかも『RYDEEN』は79年の楽曲である。自分はあまりここら辺の時代感をダイレクトに吸い取ることはできないが、聞く人が聞いたら果たしてどう思うのか。どっちにせよクレバーな使い方とは言えない。おそらく監督にもそこら辺の教養はないのだろう。ガバガバな時代設定は最後まで80年代後半である必要性を認めさせてくれない。
主人公のフキは、役割不能に陥っている父親とその面倒に追われている母親の元、放置されている。ネグレクトではないが、信頼して生活を任せられているとも言えない塩梅だろう。
そうやって一時的な自由を手に入れた子供だったらどこまで跳躍して親元から離れていくか、これによって得られた一夏の経験は9/1には彼女をどこまでも無敵な小学5年生に大きくさせる。たとえそれが様々な大人に迷惑を掛けたとしても、だ。ガキの加虐性と奔放さに向き合うには格好の題材である、にも関わらず点描法で上部しか攫わない関係性の蓄積という断片性に目をむけてしまったため、フキは大変大人しい。ただ相手を正面から眼差すだけでシーンが終わると関係は続かない。フキに魅力を感じるか否かは観客それぞれだろうが、なんかあまり可愛気はなく、かと言って大人を振り回すほどのエネルギーを持ち合わせてもいない。英語教室になんか通わされて上流階級の友達を見つけては、彼女の家でケーキや靴下をもらう。履いている靴下は袋に縛られる。これ自分の娘がそうされて帰宅したら母親としてはとても侮辱に感じやしないか??なのにこの作品では汚い靴下と同様にシーンすらゴミ箱に入れらてしまう始末だ。フキは座って大人の営みに巻き込まれていくだけに終始する。その結果彼女が興味を持つのは、超能力やマジックなのだ(テレパシーを使ったラストシーンも品がない)。あみこの方がより生き生きとしていた子供を映した素晴らしい映画だ。『ミツバチのささやき』になんて到底及びもしない。
タイトルにもあるルノワール。だいぶ大きく出たな、光や自然というものをさぞ美しく描いているのだと大きな期待を抱いたが、これは結局カンヌへの目配せなのか??『PLAN75』の時にも題材の選び方が映画祭へのおべっか以上の深掘りはされていなかったが、本作も結局大した提示もないまま、あらゆるものが中途半端に垂れ流されていった。
ムーディー勝山的「PLAN11」とでも言おうか。