「『ボヴァリー夫人』の倒錯と退廃を20世紀に移植し映像化した傑作『アブラハム渓谷 完全版』」アブラハム渓谷 完全版 LukeRacewalkerさんの映画レビュー(感想・評価)
『ボヴァリー夫人』の倒錯と退廃を20世紀に移植し映像化した傑作『アブラハム渓谷 完全版』
ポルトガルの女性作家アグスティーナ・ベッサ=ルイスが、19世紀半ばのフランスを舞台としたフローベール『ボヴァリー夫人』を1960~80年代のポルトガルの山間の農園に舞台を移した物語に翻案した『アブラハム渓谷』。
これをポルトガルの鬼才マノエル・ド・オリヴェイラ監督が 1993年に映画化・公開したが、その後ディレクターズカットで15分延長版を世に出していた。
それがこの春に公開されていたのだけれど、マークしていながらぼやぼやしていたら大手の劇場で終映してしまっていた。スクリーン鑑賞を半分諦めていたら、映画ドットコムで「下高井戸シネマにてリバイバル上映」との情報が。どこ、それ?(笑)。
で、行ってきました。
映画館はもちろん、下高井戸自体に行ったことがなかったので、久々にいろいろと新鮮な体験ができた。
しかし、いやはや3時間20分超w 鑑賞料金も、回転が悪いからでしょう、特別料金で2300円均一なり。
しかしミニシアターながら8割の入りというのはすごい。
小生、恥ずかしながら『ボヴァリー夫人』は読んだことがないが、当時はかなりセンセーショナルな小説で発禁処分にもなったとのこと。
『ボヴァリー夫人』はともかく、恐らく心理臨床の実務家の方々は、虚心坦懐に?安心して?この『アブラハム渓谷』を観られないのではないか。
小生は臨床の実務に携わってはいないが、心理職のそれなりの資格は取得しているので、多少なりともその方面の知識を持っている(まったく実務者の方の足元には及ばないけれど)。
ルッキズムの誹りを恐れずに言うならば生来の「美しさ」を持つ女性エマが、村の裕福な家に生まれながら持つ生い立ちの孤独感と、もともと持っていたかも知れぬ自己愛的な傾向と、それに相反して永遠に満たされない空洞の感覚を持て余しつつ、医師の妻となり2人の娘をなした後も男性を誘惑し続け、晩年まで奔放に生きる。
いや、積極的に誘惑しているとは言えない。男が勝手にふらふらと惹き付けられてしまうのだ。
おまけに幼少期の大病で右脚を引きずって歩くその姿に惹かれる、という男性のセリフを聞くに至っては、もう完全に倒錯とある種の特殊なフェティシズムの色を濃くするが、これを女性作家が描き出しているというところが二重に入り組んでいる。
露骨に肌を見せるセックスシーンは一切出てこない。
しかし、エマの存在そのものがエロティックである。
ナレーションが補足していた
「物理的な接触のセックスを望んでいるのではない。男たちの欲望の対象となることそのものが、エマの欲望である」(大意)
という語りは、DSMやICDに登場するある種の典型的な症状を表しているように思えてならない。
エマの快楽は物理的なもの以上に、「関係性」に淫することが快楽なのかも知れない。
そしてその関係性を振り回し、男を袖にして足蹴にしていく一種のサディズムもそこにある。
逆に、元執事が外国で成功して後年エマのもとに現れ、昔からお慕いしておりましたと想いを告白したが、「気持ち悪い」とばかりにものの見事に振られるあたりは、マゾヒズムの極致である。
一方、舌を巻いたのは、エマの実家に長年勤め、その後もエマの自宅で働き続ける洗濯女の存在である。
彼女は耳が聞こえず、話すこともできない。家電製品が当たり前になった世の中にひたすら手で洗濯物を叩きつけ、一言も発さずにもみ洗いをし続け、失意のエマを抱擁する。
田舎貴族が徐々に没落していく20世紀に、魂が放浪するように生き続けるエマの傍らで、結婚を拒否しながら頑として洗い続ける洗濯女。
流れ、変わっていく人間と社会に対比して、一切変わらない存在。この存在があるとないとでは、作品の骨格がまったく違っただろうとさえ思う。
映画を観終わって、どうしても原作小説『アブラハム渓谷』を読みたいと思ったが、翻訳が出ていないのか、Amazonでヒットしない。
さすがに原著で読む気にはならなくて残念・・・。
