「ヒトラーとしてのわたし」リー・ミラー 彼女の瞳が映す世界 ノーキッキングさんの映画レビュー(感想・評価)
ヒトラーとしてのわたし
不謹慎な表題だが、業界人にはこのポスターがパロディに映る。セルフポートレート作家のシンディー•シャーマンや森村泰昌なら、さしずめ『ヒトラーとしてのわたし』のタイトルがつけられるであろう絵に見えて仕方がない。。
冒頭、酒色に耽る高等遊民どものなか、相変わらず脱ぎっぷりの良いケイト・ウィンスレット。トップモデルから戦場カメラマンに転身するプロセスは、“地の彼女“とも相まって、丹念に描かれ、かなりの熱演なのだが、惜しむらくはその体型。まるまると肥えた体躯で、ドタドタと戦場を駆け廻り、いかにも重そうな尻が強調され、食事もままならない戦時にこんな人間居るのか?と訝られる。まあ、わざとらしく”ガレ”てみせるのも本意ではないでしょうね。
パリ解放時に、路地裏で兵士に襲われそうになった女性を助けたリー。護身用にとナイフを渡すときの台詞が良い!『次はコレで切り落として!』その手の輩は震え上がるだろう。
それは後に語られる彼女のトラウマで、幼少時に受けた性被害。それを実の母親に”恥“であると言われたことがリーの心の傷である。だから、被写体(モデル)としてより、撮る側に拘った理由は、自分よりもっと酷い、もっと残酷な目に遭った人々が居る!として多くの被害者をさがし続け、それを発表することで自身の安寧を得ようとする、専ら個人的な動機であり、悲惨な戦争を記録するという崇高な”使命感“などではない。そう思わせるのは彼女の生き様だ。自由奔放、傍若無人。周囲の人間にぶちギレる。思いやりを見せたのは友人にだけ。
勇躍、駆けつけたアウシュビッツ、累々たる屍の腐臭をものともせずシャッターを切り続けるリー。しかし、いちばん感動させられたのは、リーという女傑に対してではなく相棒のディビッドがヒトラーの部屋で嗚咽するシーン。コイツのために何万人も殺されてと男泣き、リーと抱擁する場面だ。
ほどなく、リーは帰還して、わくわくしながらヴォーグ誌のページをめくるが、自分の写真が一枚も掲載されていないのに、怒り心頭、編集部に殴り込む。編集長は『人々を不安にさせないために載せなかった』と言い訳するも、リーは激高し収まらない。ただ、落ち着いてみれば、写真云々より、要は自分の存在を訴えたいエゴなのだと認める賢明さもあったリー。
結局、後のアメリカ版には発表される事になるのだが……
インタビュアーが実は息子だったというひねりをきかせる演出。あるいはすべてが妄想?のようにも見える。
リーの死後発見された膨大な数の写真やヒトラーのイニシャルAH入りの銀製トレー等は息子達によって世間に紹介され、女性報道写真家リー・ミラーの数奇な生涯は、はっきりと歴史に刻まれた。
コメントイイねありがとうございました😊。
確かに 事項の羅列 に見えて 感情移入できませんでした。
それと ご指摘のとおり 戦争中に あんなに肥えた人居ませんよねぇ 同感👍です。失礼します。
コメントありがとうございます。
食事もままならない戦時に…ほんとそれなんですよ。記者の食事事情とか余計なことを考えてしまいました。
ヒトラーの家での一連のシーンは印象的でよかったです。
初日解説付き上映を見てきたのですが、リーはたった7歳でレイプされて、性病までうつされ
おまけに両親とも、これを恥として他言するなと命じたそうで…
何もわからないまま、両親から恥(罪)の意識だけ背負わされ、そしてその意味するところが分かる年頃には更に絶望したことでしょう…
ケイト・ウィンスレットが、リー・ミラーばりのパワフル中年女性を演じていましたが、半分は彼女そのものを役柄に投影しているようでした
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