「白黒つけない秋色のグラデーション」秋が来るとき かなり悪いオヤジさんの映画レビュー(感想・評価)
白黒つけない秋色のグラデーション
ここ最近、結構なハイペースで新作を発表し続けているフランソワ・オゾン。『スイミング・プール』のリディヴィール・サニエをはじめ、久々にオゾン組の俳優が一同に集まった作品だそうな。オープンゲイのオゾン作品の中では、善良でいい人→♂️と決まっていて、悪さをするのはのは大体いつも♀️の方だ。ゆえにフェミニズムが席巻していた一昔前はいまいちの扱いだったが、ここにきて元気を取り戻しつつある気がする。
教会のミサに参加する初老の女ミシェル(エレーヌ・ヴァンサン)。耳を傾けるは黒人神父が語る“マグダラのマリア”のお説教だ。この冒頭シーンが、娘ヴァレリー(サニエ)との確執や、近所に住むマリー=クロード(ジョジアーヌ・バラスコ)との固い友情、その息子ヴァンサン(ピエール・ロタン)が臭い飯を食った原因のうまい伏線になっている。それは何かって?是非とも実際に映画を観てご確認いただきたい。
未必の故意かそれとも偶然か。離婚調停中の娘ヴァレリーは明らかにメンヘラ状態で、昔○○として働いていた母親である自分のことを憎んでいる。パリ郊外の村に住んでいるミシェルは、秋深いこの季節友人のマリー=クロードと森にキノコ狩りにいくのが年中行事になっていた。自分には懐いているルカを連れて金の無心のためにやってきたヴァレリーに、ミシェルはキノコ料理を振る舞うのだが…
PTA監督『ファントム・スレッド』でも同じような○○○○事件が起こっていたが、フランスの田舎界隈では結構な日常茶飯事らしい。“よくあること”なのだ。この辺り、ボケているのか確信犯なのか観客にはハッキリわからないようわざと曖昧にカメラを回しており、刑務所から出てきたばかりの友人の息子ヴァンサンへの資金提供とその後におきた事故死?との関係性も、あえてボカしているのである。
もしも故意であるならばとんでもない殺人教唆なのだが、死んだヴァレリーも真相がわからないまま幽霊となってミシェルの回りをうろつくしかないのである。明らかにミシェルとヴァンサンの共犯を疑っている女警部をなんとか煙に巻いてから数年後、秋深い森の中でパリの大学に通う彼女のいないルカ(オゾンと同じゲイか?)&相変わらず独身のヴァンサン(マザコン気味なゲイか?)と散歩中、ミシェルの前に三度現れた娘の幽霊。美しく紅葉した葉陰で安らかな眠りに就いたミシェルは、きっとヴァレリーに許されたのだろう。マグダラのマリアがイエスによって今までの“罪”を許されたように。
