フランケンシュタインのレビュー・感想・評価
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悲しく切なく残酷で、「美しい」
マジでとっても良かった。
冒頭に赤い「N」がズズーンと登場して、初めてNetflix作品だと知り、「あら、これ配信すぐ始まるのね。」と自分の予習不足を呪ったが、なんのなんの。
ゴシックホラーの恐ろしさはそのままに、物語はあくまで悲しく、切なく、残酷。
しかし、そこに表現された世界はとてつもなく「美しい」。
まずはビジュアル。
美術・衣装の細部までこだわった豪華さ、有名役者陣の華やかさはもちろん、どのシーンを切り取ってもトレイラーやサムネイルに利用できる様な画面作り。
そして物語の美しさ。
キリスト教世界においての「創造主」という禁忌に、真正面から挑む主人公とその「エゴ」と「暴走」。
生まれてしまった「いのち」と「不死という地獄」。
そして、「赦し」と「救済」。
不死の孤独に耐えられず「伴侶が欲しいんだ」と願う「彼」を、父であり創造主であるヴィクターは「モンスターめ」と罵る。
「彼」にとって「ヴィクター」という存在とその名前は、まさに生まれた当時のすべてであったのに。
最後まで「彼」に名前は与えられない。しかし、それまで何者でもなく、ヴィクターの手によって作られたただの物であった「彼」が、ついにその存在を受け入れられて終わる。
帰るところのある乗組員と、これから終わることのない孤独な旅が始まる「彼」の対比もまた、切なさを誘う。
原作を読んでいないので、是非パンフレットで監督が描きたかった宗教観や死生観、登場人物たちのインタビューなど読みたかったけど、Netflix配信ということでその手の商品は発売が無いっぽいのはとっても残念。
是非多くの方に観て頂きたいな。
死ねない苦痛に考えさせられた
ギレルモデルトロ監督が彼独自の視点で捉えた25年ネトフリ製作作品。...
「愛」を会得したクリーチャーの行く末
149分間の力作
生と死の境界を哲学的に味わう怪奇譚
1994年版の衝撃が強く記憶に残っていたため、どうしても比較しながら鑑賞する形に。
ケネス・ブラナー版のヴィクターは、もっと苦労しながら色んな実験を試みる“苦闘の科学者”だったが、今回のヴィクターは怪物を創造するモチベーションがややあっさり。キャラ的にも魅力薄め。
デニーロ版の怪物は追跡の執念がめちゃくちゃ怖かったけど、今回のジェイコブ・エロルディ版はイケメンすぎて恐怖感がなく、あっという間に感情移入してしまった。
良かったのは怪物のピュアさの描き方。盲目の老人とのやり取りのシーンは言葉の一つひとつが美しすぎて心を洗われた。オレオレ詐欺をやってる人に観てほしい。
エリザベス役のミア・ゴスの魅力にも圧倒された。ヴィクターとの知的な会話、怪物との心の触れ合い…、もっと観ていたかった。衣装の美しさも溜め息もの。
前作のヘレナ・ボナムカーターも良かったけど…(彼女は怪物にされて、絶望感は圧倒的でしたね)。
残念なのは、怪物を創る動機や過程が薄いこと。せっかく頑張って創ったのにもう要らないの⁈って。
あとヴィクターと父親の確執などのドラマが端折られ、怪物がヴィクターを追う道のりもあっさり。
怪物は「絶対に死ねない苦しみ」を抱え、やっと人間としての想いを持つ。現代の延命措置のような死にゆくことのない存在として、死生観を深く問う作品。
ゴシックホラーの映像美に浸りながらも、死と生の境界を哲学的に味わえる幻想的な怪奇譚と言える。
ネトフリで配信されるとのことだけど、映画館で是非!
壮麗な美術と堅実な映像
終わり方ズルい。感動!
フランケンシュタイン。
映画でもドラマでもアニメでも、いろんな作品にされてきてるので、どんなだろうと期待と不安の半分で鑑賞。
さすがギルレモ。
ダークでありながら憎悪だけだはない文学的なファンタジー。言葉の丁寧さ。ビジュアルの美しさ。音楽の崇高さ。間の取り方、配役。服装。細部にわたるまで完璧。
誰が怪物か。
どうして怪物になったのか。「父親」の愛が悪いのか、受け取り方が悪いのか。成長した男は命を生み出すが、ソレはなんなのか。
ソレは、悲しいのか憎いのか。ほぼ正当防衛?で人間に危害を加えてしまう。
ソレは自分を造った「父親」を恨み、出会った「父親」に育てられ、人間になれるのか。
ふたりの最後。アレはズルいよ。白い大地、光、怪物か人間か。
どこへ行くのか、、、、
彼のその先が知りたい。
言葉と人格
聖者となった彼が邪悪を許して魂を自己犠牲的に救済する、といういかにもキリスト教文化圏テイストがやや鼻につくが、まあ展開上仕方ないか。
言葉で意思表示出来ないからとヴィクターは彼の人格を認めず“it”呼ばわりして切り捨てようとする訳だが、こういう態度は、映画にもなった知的障害者施設の大量殺人事件を思い出させる。また、死ねない事の苦しみが本作の重要な題材なのだが、これは例えば医療現場で、口のきけない末期患者に何が何でも延命治療を続けようとする医療者と何が何でもそれを望む患者家族が、病苦から逃れる最後の手段としての死を本人が望んでいるかも知れないのを一顧だにしない事と繋がる。つまり、蛇足になるが、意思なき者は語らないが、語らないからといって意思がない訳じゃないのだ。
作中では彼が言葉を獲得する事で自我に目覚め、人間として認められていくのだが、では語れない者の意思を確かめる方法は?などと考え始めたらちょっと眩暈に似た感覚に襲われてしまった。
まあ、監督の意図からは外れてるんだろうな。
クリストフ・ワルツはタランティーノ作品中の人を食ったような役を見慣れているので何だか新鮮、ミア・ゴスはこういう役できるのかとちょっとびっくり(声がハスキー過ぎるかも知れんが)。
いやー御大ご健在喜ばしい
デルトロ監督で興味持ちましたが、
おー、クリストフ御大もいらっしゃる❗️
絶対観ないかんてっ!
しかも、口髭無いから気づかなかったが、
主演オスカー兄貴かい!
御大は最近悪者役が名人芸。
それで偶に見せる笑みが堪らない💞
その末路もヨシ👍
オスカーは別人に見えましたが、
狂気の化学者を見事に完遂してます👍
この2人で満足しました😆
話はみんな知ってるやつですよ。
「フンガーフンガーフランケン」
でもそこに濃厚なドラマが含まれて、
ラストまでの推進力は圧巻。
敢えて章立てで見せる必要はない気もするが、
章立てのお陰で見やすくなってますね。
ベタな話ですが、
哀愁が終始通底している、
胸に迫る怪物の話。
フランケンの第1形態は、
「ドラゴンボール」のアレに似てますね😁
他の世界的に有名な怪物も、
デルトロ監督にリメイクして欲しい。
壊れた心は壊れた心のままで生き続ける
クリーチャーが男前なのもあって、こんなに血みどろなのに(絞首刑や死体やツギハギ組み立てとか、見せなくていいところまで見せてる、見たいんだけど)、清々しく晴れ晴れとした気持ちになるラストシーン。
重厚な映像に音楽、絶対に劇場で観た方が良い。
ホラー? ダークファンタジーというのか、怖くはない。
子どもの頃、テレビの洋画劇場でよくやってたピーター・カッシングやクリストファー・リーが出てたフランケンシュタインやドラキュラ、ハマーフィルムって本当に怖かった。今観ても怖いかなぁ。
元祖・SFゴシックホラー
知性と心
デル・トロ監督の新しい美学で描かれた
フランケンシュタイン。
親子の葛藤、知性、愛憎と愛情。
愛情の温もりが分からず乏しく
育ったヴィクター。
医者である父親を越えるにはと
創造と創作を繰り返し怪物を造りあげる。
ただ造りはしたが、どの様に接したら良いか
分からず。
思い出したのは父親からの暴力と知性の強要。
この辺りが人間の不完全さを感じる。
どれだけの凄い作品を造っても心持って
接するがどうかはその人次第。
ミア・ゴスのドレスは可憐で綺麗でお似合い。
怪物役のジェイコブ・エロルディ
196㎝もあるんだ、そりゃ迫力でるわ。
あの巨体でエリザベスと小声で思い出し
口にする姿は可愛い。
盲目のおじいさんとの優しい知性の学び方。
あそこが平和だった。
あの家に入った時『旅をしている』
と返答したのは良いなぁ。
人間の欲望で創作されたのは本当に
怪物なのか。弟にも怪物と言われた
創作主が怪物なのか。
与えられた環境と愛は其々の
心に引き継がれていき、息吹きが
芽生え本物の心になるのかもしれない。
どうにもならない深い哀しみ
英国の小説家メアリー・シェリー原作、ギレルモ・デル・トロ監督の本作。
エル・ファニング主演映画「 メアリーの総て 」を以前観ており、本作が気になり鑑賞。
科学者ヴィクター・フランケンシュタイン( オスカー・アイザック )は、亡骸を繋ぎ合わせ、生命を創造するという野心を抱く。
自身のルーツや存在意義に苦しむクリーチャーを身長196㎝のジェイコブ・エロルディが怪演。
クリーチャーと心を通わせる女性エリザベスをミア・ゴスが、北極探検隊の船長をマッツ・ミケルセンの兄、ラース・ミケルセンが演じる。
清らかな心、相手を許し認めるということ、人としての存在意義、突き進んで行ったその先に何が起き得るのか、生きていくということ。
クラシカルな色彩が美しい哲学的な作品。
映画館での鑑賞
名もなき不死身の怪物の孤独と苦悩
文字や知識を教えてくれた盲目の老人との別れを経験してから、怪物は自分が死な(ね)ないことに気付きます。痛みは感じるが再生してしまう。と同時に取り残される孤独を感じ始めるのです。
不老不死は過去から人間の夢ですが、一旦手に入ると実は辛いものなのです。バンパイアものでも時々でてきます。孤独を癒すため、怪物はヴィクターに伴侶を作るよう求めますが、叶いませんでした。
従来のフランケンシュタインもので云われる「神の領域の侵害」や「親子関係の業」に加え、今回新たなテーマとして描かれたのではないでしょうか。
ミア・ゴスは今回も魅力的です。二役とは言え79歳のチャールズ・ダンスと夫婦役とは!エリザベス役の方は登場シーンのミステリアスな感じが良かった。両役とも衣装が素晴らしかったです。
科学の落とし子に救いはあるか
フランケンシュタインの映画は、いっさい観たことがない。
なんたってホラーは苦手なので。
その代わりと言っちゃぁなんだが、
メアリ・シェリーによる原作小説は読んだ。
作者二十歳の時の作品なので、
完成度という点からは突っ込みどころはあるけれど、
メアリが北斎の娘お栄とほぼ同い年で、
書かれたのが「南総里見八犬伝」刊行開始とほぼ同時期、ということを考えると、
感嘆あるのみ。
* * *
で、久々のギルモア・デル・トロ監督。
かなり原作リスペクトらしい、と聞いていたんだが、
全体の構成――北極海+博士の回想+博士がつくった「それ(it)」の回想――と、
「それ」が、1931年の映画で確立したイメージとは違い、美しさを指向して作られたことは、
原作どおりと言っていい。
でも、それ以外は、
ヴィクター・フランケンシュタインの家族
――父も母も「きょうだい」エリザベスもウィリアムも、
まったく違う設定で戸惑った。
なぜあんなものを創り出したかという説明に必要だと、
監督は思ったんだろう。
同時に「それ」を創り出すまでの時間が、ちと迂遠。
だが「それ」の回想は、かなり原作のイメージに近かった。
とくに、隠れ家とした小屋の隣の農家の
盲目の老人から、言葉と心を教わった話は、
原作の核心でもあるけど、この映画でも、そのままだったのがよかった。
* * *
映画では、さらに踏み込んで、
「それ」に不死身の身体を与えた。
そして「死」もある意味救済であって、
死ねないということは救われないことだ
という主張がなされる。
それはたしかに、そうかもしれない。
死とは、救いなのかも。
だから、ヴィクターは最後、救われた。
だが、「それ」に、救いはあるのか?
「それ」は、
後先考えずにつくられた科学の落とし子である。
科学の落とし子に、救いはあるのか?
監督の問いかけは、そこにあるのかもしれない。
ゴシック小説の古典「フランケンシュタイン」を基にしたダーク•ファンタジー ギレルモ•デル•トロ風味たっぷりでそこそこ楽しめるが 新鮮味はない
場内が明るくなって劇場の椅子から立ち上がり、家路へと歩を進めかけたときに脳内に「訓詁学」という単語が浮かびました。半世紀ほど前、私がまだ大学生だったころ、ゼミでどんなテキストを使うかを議論していたときに、学友のひとりがある古典的テキストを評して「ゼミでこれを読み進めてゆくと訓詁学のゼミになってしまう」とか言っておりました。調べてみたら、訓詁学とは元々は儒教の経典にある難解な語句を解釈したり、説明したりする学問だそうです。この映画もメアリー•シェリーが今から200年以上前に書いたゴシック小説の古典「フランケンシュタイン」の古典的解釈に基づいているということで、私の脳内に訓詁学なんて言葉が浮かんできたのでしょうか。
この「フランケンシュタイン」、私、実は原作を読んだことがないのですが、未読なのに読んだ気になっている小説のひとつです(同様にして、観たことがないのに観た気になってる映画なんてのもありますが)。この作品が紹介されるたびに出てくる耳タコ話題ですが、フランケンシュタインというのはあの怪物を造った科学者の名前で、怪物自体は名無しなんですよね。「フランケンシュタイン•コンプレックス」という言葉があります。科学技術によって人工的な生命体を生み出すことへの憧れと、その生命体が自分たち人間を滅ぼすのではないかという恐怖、その二律背反するふたつの感情が混ざり合った複雑な心理状態を言います。この部分が、今でも AI の開発時に当てはまりそうな感があり、この小説が発表から200年以上もたった今もなかなか賞味期限が切れない要因だと思います。
上記のフランケンシュタイン•コンプレックスがいわば造物主側のキーポイントだとすると、造られた側の名もなき怪物のキーポイントは永遠かとも思われる生命を授かった者の悲哀と孤独ということになるのでしょうか。この映画内では「無慈悲な生」とかの言葉が出てきました。おまけにあの醜い姿です。出会った人々のほとんどがその姿に恐怖を感じ、逃げまどったり、攻撃をしてきたりします。でも、心を通い合わせることのできた人もいたんですよね。エリザベス、山小屋の爺さん…… 愛に飢えた怪物の究極の選択が永遠に続く孤独のように思われたのには涙を禁じ得ませんでした。
最果ての地、北極には今もあの人工生命の最果て、怪物の咆哮が轟いているのでしょうか。
時間と空間を超越するギリシャ悲劇のよう
ギリシャ悲劇は見たことないし知識もありません。それなのにそう思うほど、壮大な文学で、詩で、戯曲で、運命で、哲学でした。美しい映像と言葉と音楽に全身包まれ、客席が明るくなっても茫然としてました。シェリー原作の「フランケンシュタイン」、ケン・ラッセル監督の映画「ゴシック」、カンバーバッチがヴィクターとクリーチャーの両役を演じたナショナル・シアター・ライブ(映画2本)「フランケンシュタイン」のそれぞれが脳内に現れては消え、絵一枚一枚、言葉ひとつひとつに胸が躍りました。
自分も相手もただそのように生まれて存在しているだけで、双方が憎み合っている訳ではないことをクリーチャーは学ぶ。誰しも生まれたくて生まれた訳でないことも学ぶが、自分だけは死にたくても死ねないことを知ることになった彼は、共に生きて行ける伴侶を自分と同様のやり方で作って欲しかっただけだった。クリーチャー演じるジェイコブ・エロルディ、表情もセリフも体の動きも目の輝きも素晴らしかった。ミア・ゴス演じるエリザベートから、世界のどこにも居場所の無い疎外感と虚無が強烈に伝わってきた。
コスチューム、美術、ヘアメイク、セット、バックドラフト、厳しい優しい自然、地平線の映像が美しく迫力あった。映画館で見られる期間が長くなるといいなと思いました。
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