フランケンシュタインのレビュー・感想・評価
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勝手に作って勝手にガッカリすんな
フランケン?今更?とか思いながらもオススメだから見ましたけどめちゃくちゃ良かった(笑)
フランケン側からの物語が辛いことしか起きないであろう事が解ってて辛い、ずっと森の精霊で小さい子の成長を見守るエンドでも俺は納得したよ…ビクターもミア・ゴスとの事やミア・ゴスがフランケンに優しかったりで何かモヤモヤしてたのは解るけどもう少し優しくしてやれよ…あれじゃ泣いちゃうよ
最後はまあ晴れやかになったけども、もっと速ければ色々2人で見たり感じたり出来たろうよバカビクター
何はともあれとても良い映画でした。
フランケンシュタインは愛も無いのに造った。ギレルモ・デル・トロは愛を持って作った
『ピノッキオ』に続いてギレルモ・デル・トロが名作を再映画化するのは、『フランケンシュタイン』。
『ピノッキオ』の時もそうだったが、これも製作を聞いた時から楽しみにしていた。デル・トロ×『フランケンシュタイン』。何と魅惑的な組み合わせではないか! 今年のNetflix映画と言うより、今年特に期待していた一本。やっとお目見え。
映像化は数知れず。スタンダードとなっているボリス・カーロフが怪物を演じた1931年版、ピーター・カッシング×クリストファー・リーのハマー・フィルム版、ケネス・ブラナー監督&主演×怪物デ・ニーロ×コッポラPの1994年版(私が最初にしっかり見たフランケンシュタイン映画はこれだったと思う)…。別口ではティム・バートンが犬で蘇らせたり、日本では特撮怪獣映画になったりアニメで怪物王子の子分になったり…。
多くのクリエイターを魅了し、刺激してやまないフランケンシュタインとその怪物。デル・トロもその一人。念願の企画だったという。
メアリー・シェリーの古典に忠実ながらも、プロローグから始まり、フランケンシュタインと怪物双方の視点、そしてエピローグ。2時間半の長尺で思い入れたっぷりにデル・トロが独自視点で創造したのは、ゴシック・ホラー・ロマンの域を超えた壮大な叙事詩であった。
プロローグ。
北の最果ての地で氷にハマり、立ち往生の探査船。
尚も進もうとする船長と故郷に帰りたい乗組員の間で対立。
そんな時、重傷を負った義足の男を助ける。熊に襲われたか…?
付け狙うように雄叫びと共に現れたのは、フードを被った巨体の男。いや、“人”なのか…?
フードの下から覗くおぞましい形相。銃撃でも死なず、信じられぬ怪力で船を揺さぶる。
船長の機転で“それ”の足元の氷を撃ち、海中に沈める。
だが、救助した男は言う。“それ”は死なない。必ず私の元に現れる…。
男の名は、ヴィクター・フランケンシュタイン。科学者だという。
船長は“それ”の事や何があったか聞く。
“それ”は私が造った。ヴィクターは語り出す…。
のっけからスケールのある映像、見事な船のセット、VFXとアクションを駆使した“それ”の脅威、謎めいた男…。掴みはばっちり!
ヴィクターの視点。
幼少の頃…って、オイオイ、肝心な所じゃなく子供の頃から話すんかい!…と船長も見る側も思ったに違いないが、ヴィクターの人格形成や動機の基盤となる。
高名な医師の父と優しい母の下に産まれたヴィクター。
生活は何不自由無かったが、父は天才ながら傲慢。ヴィクターは反発を抱いていた。
母の存在だけが唯一の拠り所だったが、弟ウィリアムの出産と共に死去。
母を助けられなかった父を見下すようになるヴィクター。
父は死を超越出来なかった。なら、私は死を超越してやる…!
父が亡くなり、ウィリアムは遠縁に引き取られ、名家は没落したが、研究に没頭するヴィクター。
やがて死体と死体を繋ぎ合わせ、電気ショックによって蘇生させる事に成功。
しかしそれは、一時的な反応か、ペテンか、本当に蘇らせたのか…?
聴聞会でヴィクターと保守派の間で大論争。
ほとんどがヴィクターの天才ぶりを理解出来ないでいたが、理解する者も。ウィリアムの婚約者エリザベスの叔父で商人のハーランダー。研究の費用援助を申し出る。
ウィリアムも協力。が、エリザベスは異を唱える。顔を合わす度に衝突するが、聡明なエリザベスにヴィクターは徐々に惹かれていった。
人里離れた塔を研究の場に。理想的な身体も道具も手に入れた。蘇生に充分な雷雨の夜…。
末期の病であったハーランダーが自分の身体も使って欲しいと頼む。ヴィクターは病の身体を使ったら失敗すると拒否する。揉み合いとなり、ヴィクターはハーランダーを殺してしまう…。
それでも研究は止められない。雷を捉え、ツギハギだらけの身体に流される。
身体は…、動いた。
反応とかではない。一時的なものでもない。まだ身体はおぼつかないが、生きて動いている。
うめき声しか発しないが、やっと一言、「ヴィクター」と…。
成功した。死を超越した。私は神すら超えたのだ。
歓喜するヴィクターだったが、それも束の間だった。
進展が見られない。いつまで立っても鈍い動きと「ヴィクター」とだけ。
苛立ちを隠せない。おぞましい風貌にウスノロに、怪力。私は“怪物”を造り出したのか…?
ウィリアムとエリザベスが訪ねてきて、研究結果を見せる。
エリザベスは怪物に慈愛を示す。怪物は「エリザベス」と発する…。
ヴィクターは遂に、“失敗作”を処分しようと強行に出る。
塔もろとも怪物を焼き払おうと、灯油を撒き、火を放つ…。
…以上ここまでが、ヴィクターの視点。
一見、おぞましい怪物を造り出してしまった天才博士の苦悩…のように思えるが、そうでない事は見てれば明白。
ヴィクターの傲慢さが目立つ。嫌悪していた父以上。
造ったはいいが、そこまで。怪物に愛情を示さない。あれこれ従わせたり、見下したり…嫌悪していた父と同じ。結局、血は逆らえない。
父は傲慢さの中にもシビアなほどの正しさがあったかもしれないが、ヴィクターはハーランダーの死に関して嘘を付くなど人としての卑しさが浮き彫りに。
天才ながら、傲慢で愚か。苦悩と滲む狂気を、オスカー・アイザックが熱演。
ヴィクターが船長に話している所へ、再び怪物が現れる。船長室に乱入してくる。
驚くべきは、ヴィクターの話とは別人と思うほど機知と流暢な人語を話す。
怪物は言う。この男から何を聞いた? どうせ独り善がりの話だろう。
あの後、一体何があった…? 怪物が語り出す…。
ここから怪物の視点になるのだが、同じ話を怪物視点からの羅生門スタイルではなく、続きは怪物視点で描くのが鮮やか。
塔が爆発を起こし、吹き飛ばされたヴィクターは片足を負傷。
鎖に繋がれていた怪物も鎖を切るが、爆発に巻き込まれてしまう。
が、驚異的な治癒力で回復。不死でもあった。
怪物は地をさ迷う。人目を避けて。
おぞましい風貌でも自然の動物たちだけは拒んだりしない。
ある時人に見つかり、銃撃を受ける。
寒さと恐ろしさ。怪物であっても感じるのだ。
民家の小屋に逃げ込む。
身体を休ませていると、この家の持ち主が帰って来る。
どうやら銃撃した人と同一。とその家族。
怪物は息を殺して身を潜めるが、盲目の老人は何かの気配に気付く。
彼らを見ている内に、怪物は不思議な感情を抱く。何かしてやりたい、と。
気付かれぬよう、大量の薪を揃える。狼避けの柵を造る。
きっと森の精霊のお陰に違いない。家族は森の精霊に感謝するが、老人はこの家に隠れ住む何かに感謝。
暫く、老人が家に一人に。老人は出てきなさいと声を掛ける。
恐る恐る出てくる怪物。
本作最大の優しさと温もりと癒しと言っていい怪物と老人の交流が胸に染みる。
この老人が自分を怖がらないのは目が見えないから、と怪物は思うが、本当にそうだろうか…?
老人は怪物の縫い目だらけの皮膚に触れ、人間ではない事に気付いただろうが、拒否も嫌悪も一切しなかった。
それどころか受け入れ、言葉の教えや読書も。
怪物の流暢な話し方も英知も全てここから。
教え、導いてくれる存在が必要だった。生まれたての赤子が一人で成長出来るだろうか…? ヴィクターはそれを怠った。
怪物は自分が何者であるか知りたいと言う。老人は探しに行きなさいと旅立たせる。
この時私は察した。これが今生の別れのような…。
怪物は朧気な記憶を頼りに、生まれた地、あの塔の跡地に辿り着く。
残骸の中から“答え”を見つけ出した。
自分は何者でもなかった。死体と死体を繋ぎ合わせ蘇生した“怪物”であった。
怪物の胸中を悲しみが駆け巡る。いやそもそも、感情などあるのか…? 心などあるのか…? 私は怪物だ。
ならば、この悲しみ苦しみは何だ…? 私は、何者なんだ…?
怪物は老人の元に戻る。が、狼の群れが…。
怪物は狼を追い払うが、老人はすでに瀕死。
怪物は老人に旅の答えを話す。私は何者でもなかった。怪物だった。
老人は言う。君は友人だ。
息を引き取った所へ、老人の家族が。死んだ父の傍らにおぞましい怪物。どんな修羅場になったか言うまでもない。
怪物は再び地を行く。が、今度はたださ迷うだけじゃない。明確な目的を持って。
我が創造主の元へ。ヴィクター!
その頃ヴィクターは身体も癒え、ウィリアムやエリザベスの元に。
久し振りに対す。髪が伸び、身体もしっかり動き、何より対話が出来るほどの言語能力を身に付けた“失敗作”に驚くヴィクターだが、さらに驚くべきは怪物からの申し出。
伴侶が欲しい。不死のままの孤独は嫌だ。連れ添える自分と同じ存在を造って欲しい。
断るヴィクター。また私に怪物を造れというのか…?
何処までも傲慢なヴィクターに怒りの雄叫びを上げる怪物。
その雄叫びを聞き付け、エリザベスがやって来る。生きていた“彼”に喜ぶ。
銃を構えるヴィクター。エリザベスにどけ、と。拒否するエリザベス。
そして悲劇は起きた。怪物を狙って放たれた銃弾がエリザベスを…。
そこへ、ウィリアムが。怪物がエリザベスを殺したと、ヴィクターはまたしても愚かな嘘を付く。
怪物を殺そうとするウィリアム。だが、その怪力でウィリアムは…。
その場を多くの者が目撃。この恐ろしい怪物を殺せ!
エリザベスの亡骸を抱いて怪物は逃げる。
その後を追うヴィクター。
追い付き、対する。だが、力の差は明白。形勢逆転。
怪物はヴィクターを圧する。今度はお前が私に服従しろ。
ヴィクターは逃げる。怪物は、逃げても逃げても必ずお前の前に現れてやる。
逃げて逃げて、北の最果ての地。怪物の魔の手を振り切り、探査船の近くへ。今に至る…。
ヴィクター視点と怪物視点。一見トーンは同じだが、全く違うものを感じる。
ヴィクター視点では重厚な雰囲気にヴィクター自身の傲慢。“怪物”とは誰の事か…?
怪物視点では、怪物に対する人や世界の仕打ちは残酷だが、その中にも優しさや美しさ。怪物が見た自然、陽光、雪までも美しい。
ホラーモンスターとして知られる怪物。が、本作の怪物は恐ろしくないのだ。
怪物史上最も複雑な感情を持ち、感受性も豊かで、怪物史上最もイケメン。
オスカーノミネートも噂されるほど、ジェイコブ・エロルディが怪物を体現。
映像美。確かにこれは配信の小さい画面では勿体ない。劇場先行上映で見た方は大正解!
『クリムゾン・ピーク』でも魅了したゴシック調の美術・衣装。その衣装やゴシック世界に映えるミア・ゴス。
役者陣の熱演。ドラマ面やキャラの内面を意識した語り口。
ギレルモ・デル・トロの溢れんばかりの愛があって造った事が、作品全てから伝わってくる。
エピローグ。
過去の作品では怪物はヴィクターに父や愛を求める。
本作ではちょっと違う解釈で、赦し。
愛も無いのに造られた。拒絶され、見捨てられ、世の残酷に見舞われた。それでも、あなたを赦す。
与えられた生命。
創造主から感情と生命を持った“彼”へ。
生きろ。それは遺言でもあった。
最期にもう一度呼んで欲しい。初めて発した時、怒号の時とは違う、感情を込めて。
ヴィクター。
死から生。
どんなに蔑まされても、赦す。
そこから見える世界は、きっと美しい。
ここがギレルモ・デル・トロが伝えたかった所だろう。
恐ろしさ、悲しさ、苦しさからの優しさ、温もり、美しさ。
不死の彼。今、彼は何処にいるだろう…?
期待通りの良さと見応えとデル・トロのクリーチャーLOVE。
『ブレイド2』ではヴァンパイア、『シェイプ・オブ・ウォーター』では半魚人、そしてフランケンシュタイン…。
ギレルモ・デル・トロにはレジェンド・モンスターたちを極めていって欲しい。
自分とは異なるヒトに対するヒトの寛容
集めた死体を繋ぎ合わせて形作られたフランケンシュタイン。人間と違う人間のような異物への不審と拒絶。この苦しいモチーフを活かしたまま作品はクライマックスへ。
ラストの生に対するカタルシスは、この世に産み出された時の陽光を浴びるシーンとは意味が異なる象徴的なシーン。創造主ベクターの死を看取りながらも自らには死が訪れないことへの苦悩は解決されない。地平線を走る日の出の太陽の温もりを、顔を上げ一身に浴びるその表情に、全てが表現されていた。
外見の醜さ、内面の醜さ、醜さにこだわったデルトロの集大成!
怪物は人間社会から差別された事で、自分の生い立ちにその理由を探した。でももし差別されずに人間社会から受け入れられていたら、彼は自分の生い立ちなど知る必要はなかった。
その心の美しさを愛され、たくさん友達を作り幸せに生きていけただろう。
だがこの映画ではそうはならない。
この映画で監督のデルトロは、繰り返し根源的な差別の構造を観客に突きつけてくる。
冒頭の北極船の船員や森の狩人は怪物の姿を見ただけで問答無用で銃撃する。
そこに言葉による交渉の余地はなく、怪物が喋れないことは全く問題になっていない。見た目が異形であるというだけで恐れ攻撃する。
つまり、差別の根源的な構造とは、言葉の違いではなく見た目の違いとルーツ(文化)の違い。
船員たちには船が、狩人には森の小屋が、そしてヴィクターら白人貴族には屋敷と社交界がある。それが彼らの拠り所でありルーツ。
(例えば狩人の小屋にはおじいちゃんがいて父母がいて幼い娘がいる。代々狩人の文化を受け継いできたことが描かれている。ヴィクターも医者である父親からスパルタ教育を受け、それが彼の人格を形成し、成人後の職業に結びついている)
また見た目に関しても、船員は船員の格好、狩人は狩人の格好、貴族は貴族の格好をしてるからすぐに判別がつく。
でも怪物にはそれがない。死体から生まれた怪物には自分のルーツがない。見た目も異形で服装も汚いからどこの何者か判別がつかない。
だから人々は恐れて攻撃する。そこに憎しみはない。集団としての防衛本能だけ。
そこに差別の根深さがある。単に一個人の問題ではなく、人間を階級と職業の枠にはめ込んでそこから外れた者を排除しようとする社会構造そのものに問題がある。
デルトロは物語の中でこの問題を繰り返し提示する。
結婚式会場でエリザベスが傷を負った時、駆けつけた人々はヴィクターの嘘を鵜呑みにし、怪物に問いただすこともなく一斉に攻撃する。
誰か一人でも公平に判断するものがいればヴィクターの嘘をあばけただろう。だが見た目が何者か分からないという恐れが正常な判断力を奪う。
結局怪物は追われ続け、人間が住まない北極まで逃亡することになる。
この物語の中で怪物を恐れなかったのはエリザベスと盲目の老人だけ。
エリザベスに関しては地位や名誉に執着する人間社会に絶望しきっていて(特に欲深い叔父が確実に反面教師になっているせいで)その純粋な心が大分病んでいる。だから現実逃避の手段としてシンプルな昆虫の生態を愛でている。
また普段から昆虫のグロテスクな見た目に慣れているエリザベスは醜さを客観視出来る。
だから初めて怪物に会った時、その外見にとらわれず心の美しさをすぐに見抜いた。そしてそれはエリザベス自身が世の中に求め続けてきたものでもあった。
心の醜い人間ばかりの世の中で、生まれて初めて心の美しい人間を見つけたエリザベス。その感動の大きさは、ミアゴスのセリフのない芝居で見事に表現されている。
ただ勘違いしてはならないのは、エリザベスの怪物に対する愛は決して男女の恋愛感情ではない。
この世には存在しないと思っていたものが目の前に現れた喜び。世の中に絶望しきっていたエリザベスにとって、怪物の存在は生きる希望に繋がる。
だから死んだと思っていた怪物が結婚式会場に現れた時、エリザベスはただ生きていてくれて良かったとその喜びを伝えたかっただけ。
一方怪物の方も、この世で唯一自分の存在を肯定してくれるエリザベスに会えることは喜び以外の何物でもない。
少なくともエリザベスは劇中一言も怪物に対して好きだとは言っていない。怪物の方にも全くそういう言動はない。またラブシーンもない。だからこの2人の間に恋愛感情があったとは考えにくい。
この2人は多分、エリザベスが生き続けていれば友達になれたかもしれない。だがそうならないのは社会がそれを許さないから。だからエリザベスは死ぬ。そしてエリザベスはそれを運命と受け入れる。
そして自分が唯一心を通わせられる怪物の腕に抱かれて、幸せのうちに人生を終える。純白のドレスが血で真紅に染まるのは、傷の痛みとは裏腹に心が幸福で満たされていることのメタファー。
言い換えると世の中に絶望していたエリザベスは死ぬことによって幸福を得る。だが同様に世の中に居場所のない怪物は、死ぬことすら出来ないのでひたすら不幸のまま生き続けなければならない。
(デルトロはこのシーンで、エリザベスと怪物を対比させることによって、より怪物の孤独と不幸を強調し印象づけている)
そしてたどり着いた北極の地。
ここで怪物は自分を生み出したヴィクターに許しを与える。誰からも愛されない自分をなぜ生み出したのかと、ヴィクターに対する怒りと復讐心に燃えていたのになぜ許したのか?
それはヴィクターと父親の関係を比較対象にすると分かりやすい。
ヴィクターは愛する母親を死なせた虚栄心だけの無力な父親を許せず、父親に対する復讐心から死者復活の研究にのめり込むようになった。だがその結果は不幸しか生まなかった。
エリザベスがヴィクターの事を「あなたこそ怪物」と言ったように、復讐心に支配され続けると心が醜くなってしまう。
だから怪物は、ヴィクターを許すことで自分の人間性を肯定し、心の平穏を保とうとしたのだと解釈出来る。
そしてラストシーンで怪物は、氷漬けになっていて身動き出来ない北極船を、氷床から引き剥がして沖へ押し出し救出する。だがそれは北極船とその船員を助けるためにしたことではない。
怪物は人間社会にいるとひたすら差別され攻撃される。そしてそれに対する復讐心から心が歪んでいく。
だから怪物は、北極から北極船を遠ざけることで、完全に北極で独りになって生きていくことを選択したのだ。
これは怪物が過酷な状況の中で唯一取りえた選択肢であり、怪物なりの孤独なハッピーエンドだったと言える。
しかしそうは言っても、この物語の中で怪物に対する差別の問題は全く解決せずに終わってしまう。後には悲愴感しか残らない。
興行的な事を考えるなら、ラストシーンで怪物と北極船の船員たちが和解して交流し、分かりやすいハッピーエンドにすることも出来たはず。でもデルトロはそうはしなかった。
現実世界で差別の問題は解決するどころか深刻さを増している。なのに物語の中で安易に差別が解決されてしまえばリアリティを失う。デルトロはそう考えたのではないか。
だからこの物語の中でどうすれば怪物に対する差別が解消されるのか、その方法や可能性については一切提示されていない。おそらくデルトロは、この映画を観た一人一人がそれぞれ考えるべき問題だと言いたかったのではないか。そんな風に感じた。
2025/11/01 ヒューマントラストシネマ渋谷にて鑑賞
孤独のつらさ…
不老不死は誰もが望むものかも知れないが、それは愛する人々と共にいれるから。周りは死んでいくが自分は一人孤独に生き残る。姿形は醜く、人々から恐れられるが心は優しい悲しき怪物を描かせたら得意のギレルモ・デル・トロ。新たなフランケンシュタインだった。
劇場で観たかったとても丁寧に作られた古典のリブート作
デルトロのフランケンシュタイン
デルトロのフランケンシュタインと言うだけで
もう引きがある。
さてどんな奇怪な物語でどんな造形なのか?
とワクワクしてたのだけど、ハードルが上がり過ぎたのか
見終わった感想としては、綺麗にまとまり過ぎてたな
と言う感じでした。
デルトロの、人が嫌がる所、汚らわしい所に美を見つける
と言った世界観や背景美術は流石だし、
怪物の造形も好きだったが、
物語はそのままフランケンシュタインと言う感じで
デルトロらしさ、みたいな物はなかったように思う。
怪物の章からやっと面白くなって来たと感じましたが、
ヴィクターの章は陰鬱で長い。
ヴィクターから解放されて、怪物がどう言う人生を
送るのか…終わらない旅ではあると思うが、
穏やかで良い人たちに出会う人生であってほしい。
化物はどっち?
今夜(2025/11/08)観ました。
ギレルモデルトロらしさが溢れる良作です。『シェイプオブウォーター』や『クリムゾンピーク』を思い出させるシチュエーションやコスチュームやセットを見られます。
『フランケンシュタインの怪物』は、なんと1818年にメアリーシェリーという18歳の女の子が書いた物語だそうです。なんと革新的なSFストーリーでしょう😳
テレビシリーズの『テラー』を思い出させる極地で、氷に閉ざされて立ち往生した船の元に得体の知れない咆哮が聞こえるところから本作は始まります。
怪物の姿は、持っていたイメージより痩せぎすで背が高く、序盤は少し戸惑いましたが、すぐに慣れました。悲しげな彼の姿に心が痛みます。
作り物とはいえ、人の死体や、動物を銃殺する場面があり、かなりリアリティがあってゾッとします。
自己満足で死体を寄せ集め、蘇らせ、その癖地下に鎖で拘束する“創造主”ヴィクターの姿に怒りを覚えます。生まれたばかりの怪物は、言語は介せないながらも、力を振り回す様なことはせず、相手を傷つける様な振る舞いをしません。なんで初めから優しいのかが気になりますね🤔
本作は150分超えの長編なので、分割してみるのがお勧めです。ヴィクター編と怪物編で分かれているので、ちょうど良いと思います。
悲しいストーリーながらも、要所要所で安らぐシーンもあり、緊張を適度に緩めてくれます。
悲しいストーリーですが、『ダンサーインザダーク』や『ミリオンダラーベイビー』の様な二度と観たくない作品とは違う、“また観たい悲しい物語”が、本作の印象です。
怪物の目に哀しみ。
ちょうど今年の3月に原作読了。
SF小説の祖といわれるこの物語が約200年前の20歳女性の作品とは思いもよらず。
SFというより漱石の「こころ」を読んだ時に近い読後感と余韻。
この映像作品はその小説を上手に解釈し直した作品だった。
(小説の方はもっと俯瞰的に人類を捉えていた。
また2世紀も前なのに現代にも通じる文明批判と科学への依存に対する警告、
今と変わらぬ人間どもの善と悪と偏見に満ち溢れていた)。
映像作品の方はもっと個人(フランケンシュタインと怪物)にインサイト。
フランケンシュタインがわかりやすぎるくらい(≒ステロタイプ)の
嫌な奴的な描き方だったのはこっちに置いてておいて
(小説のほうは当時の常識人で当時の科学者として真っすぐに前向き。)、
なんといっても目を見張ったのは怪物の捉え方。
「おれは誰だ」というのは小説にも映画にもあったが、ちょっと角度が違った。
フランケンシュタインに対する「憎しみ」は共通だが、
小説は「おれは誰だ」と自分がわからないことへの「怒り」に対して、
映像作品に感じたのは「おれは誰だ」がわからないことに対する「哀しみ」。
その「哀しみ」の裏側にはあるのは、
友達もいず、連れ合いもいず、人とも交わることもできず、
永遠に不死であり続ける怪物の今後の長い時間。
(小説はそれほど不死の強調はなかったような)
それがいちばん感じた作品かな。
小説と映像作品で2度おいしいフランケンシュタインでした。
追記>
小説と違い、フランケンシュタイン自身が抱える苦悩はそれほど深く描かれず。
描かれたのは怪物が主。
でいうと、「フランケンシュタイン」というタイトルではないような…。
“ビクター“から解放される怪物
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