「外見の醜さ、内面の醜さ、醜さにこだわったデルトロの集大成!」フランケンシュタイン デッキブラシと飛行船さんの映画レビュー(感想・評価)
外見の醜さ、内面の醜さ、醜さにこだわったデルトロの集大成!
怪物は人間社会から差別された事で、自分の生い立ちにその理由を探した。でももし差別されずに人間社会から受け入れられていたら、彼は自分の生い立ちなど知る必要はなかった。
その心の美しさを愛され、たくさん友達を作り幸せに生きていけただろう。
だがこの映画ではそうはならない。
この映画で監督のデルトロは、繰り返し根源的な差別の構造を観客に突きつけてくる。
冒頭の北極船の船員や森の狩人は怪物の姿を見ただけで問答無用で銃撃する。
そこに言葉による交渉の余地はなく、怪物が喋れないことは全く問題になっていない。見た目が異形であるというだけで恐れ攻撃する。
つまり、差別の根源的な構造とは、言葉の違いではなく見た目の違いとルーツ(文化)の違い。
船員たちには船が、狩人には森の小屋が、そしてヴィクターら白人貴族には屋敷と社交界がある。それが彼らの拠り所でありルーツ。
(例えば狩人の小屋にはおじいちゃんがいて父母がいて幼い娘がいる。代々狩人の文化を受け継いできたことが描かれている。ヴィクターも医者である父親からスパルタ教育を受け、それが彼の人格を形成し、成人後の職業に結びついている)
また見た目に関しても、船員は船員の格好、狩人は狩人の格好、貴族は貴族の格好をしてるからすぐに判別がつく。
でも怪物にはそれがない。死体から生まれた怪物には自分のルーツがない。見た目も異形で服装も汚いからどこの何者か判別がつかない。
だから人々は恐れて攻撃する。そこに憎しみはない。集団としての防衛本能だけ。
そこに差別の根深さがある。単に一個人の問題ではなく、人間を階級と職業の枠にはめ込んでそこから外れた者を排除しようとする社会構造そのものに問題がある。
デルトロは物語の中でこの問題を繰り返し提示する。
結婚式会場でエリザベスが傷を負った時、駆けつけた人々はヴィクターの嘘を鵜呑みにし、怪物に問いただすこともなく一斉に攻撃する。
誰か一人でも公平に判断するものがいればヴィクターの嘘をあばけただろう。だが見た目が何者か分からないという恐れが正常な判断力を奪う。
結局怪物は追われ続け、人間が住まない北極まで逃亡することになる。
この物語の中で怪物を恐れなかったのはエリザベスと盲目の老人だけ。
エリザベスに関しては地位や名誉に執着する人間社会に絶望しきっていて(特に欲深い叔父が確実に反面教師になっているせいで)その純粋な心が大分病んでいる。だから現実逃避の手段としてシンプルな昆虫の生態を愛でている。
また普段から昆虫のグロテスクな見た目に慣れているエリザベスは醜さを客観視出来る。
だから初めて怪物に会った時、その外見にとらわれず心の美しさをすぐに見抜いた。そしてそれはエリザベス自身が世の中に求め続けてきたものでもあった。
心の醜い人間ばかりの世の中で、生まれて初めて心の美しい人間を見つけたエリザベス。その感動の大きさは、ミアゴスのセリフのない芝居で見事に表現されている。
ただ勘違いしてはならないのは、エリザベスの怪物に対する愛は決して男女の恋愛感情ではない。
この世には存在しないと思っていたものが目の前に現れた喜び。世の中に絶望しきっていたエリザベスにとって、怪物の存在は生きる希望に繋がる。
だから死んだと思っていた怪物が結婚式会場に現れた時、エリザベスはただ生きていてくれて良かったとその喜びを伝えたかっただけ。
一方怪物の方も、この世で唯一自分の存在を肯定してくれるエリザベスに会えることは喜び以外の何物でもない。
少なくともエリザベスは劇中一言も怪物に対して好きだとは言っていない。怪物の方にも全くそういう言動はない。またラブシーンもない。だからこの2人の間に恋愛感情があったとは考えにくい。
この2人は多分、エリザベスが生き続けていれば友達になれたかもしれない。だがそうならないのは社会がそれを許さないから。だからエリザベスは死ぬ。そしてエリザベスはそれを運命と受け入れる。
そして自分が唯一心を通わせられる怪物の腕に抱かれて、幸せのうちに人生を終える。純白のドレスが血で真紅に染まるのは、傷の痛みとは裏腹に心が幸福で満たされていることのメタファー。
言い換えると世の中に絶望していたエリザベスは死ぬことによって幸福を得る。だが同様に世の中に居場所のない怪物は、死ぬことすら出来ないのでひたすら不幸のまま生き続けなければならない。
(デルトロはこのシーンで、エリザベスと怪物を対比させることによって、より怪物の孤独と不幸を強調し印象づけている)
そしてたどり着いた北極の地。
ここで怪物は自分を生み出したヴィクターに許しを与える。誰からも愛されない自分をなぜ生み出したのかと、ヴィクターに対する怒りと復讐心に燃えていたのになぜ許したのか?
それはヴィクターと父親の関係を比較対象にすると分かりやすい。
ヴィクターは愛する母親を死なせた虚栄心だけの無力な父親を許せず、父親に対する復讐心から死者復活の研究にのめり込むようになった。だがその結果は不幸しか生まなかった。
エリザベスがヴィクターの事を「あなたこそ怪物」と言ったように、復讐心に支配され続けると心が醜くなってしまう。
だから怪物は、ヴィクターを許すことで自分の人間性を肯定し、心の平穏を保とうとしたのだと解釈出来る。
そしてラストシーンで怪物は、氷漬けになっていて身動き出来ない北極船を、氷床から引き剥がして沖へ押し出し救出する。だがそれは北極船とその船員を助けるためにしたことではない。
怪物は人間社会にいるとひたすら差別され攻撃される。そしてそれに対する復讐心から心が歪んでいく。
だから怪物は、北極から北極船を遠ざけることで、完全に北極で独りになって生きていくことを選択したのだ。
これは怪物が過酷な状況の中で唯一取りえた選択肢であり、怪物なりの孤独なハッピーエンドだったと言える。
しかしそうは言っても、この物語の中で怪物に対する差別の問題は全く解決せずに終わってしまう。後には悲愴感しか残らない。
興行的な事を考えるなら、ラストシーンで怪物と北極船の船員たちが和解して交流し、分かりやすいハッピーエンドにすることも出来たはず。でもデルトロはそうはしなかった。
現実世界で差別の問題は解決するどころか深刻さを増している。なのに物語の中で安易に差別が解決されてしまえばリアリティを失う。デルトロはそう考えたのではないか。
だからこの物語の中でどうすれば怪物に対する差別が解消されるのか、その方法や可能性については一切提示されていない。おそらくデルトロは、この映画を観た一人一人がそれぞれ考えるべき問題だと言いたかったのではないか。そんな風に感じた。
2025/11/01 ヒューマントラストシネマ渋谷にて鑑賞
