「科学の落とし子に救いはあるか」フランケンシュタイン 島田庵さんの映画レビュー(感想・評価)
科学の落とし子に救いはあるか
フランケンシュタインの映画は、いっさい観たことがない。
なんたってホラーは苦手なので。
その代わりと言っちゃぁなんだが、
メアリ・シェリーによる原作小説は読んだ。
作者二十歳の時の作品なので、
完成度という点からは突っ込みどころはあるけれど、
メアリが北斎の娘お栄とほぼ同い年で、
書かれたのが「南総里見八犬伝」刊行開始とほぼ同時期、ということを考えると、
感嘆あるのみ。
* * *
で、久々のギルモア・デル・トロ監督。
かなり原作リスペクトらしい、と聞いていたんだが、
全体の構成――北極海+博士の回想+博士がつくった「それ(it)」の回想――と、
「それ」が、1931年の映画で確立したイメージとは違い、美しさを指向して作られたことは、
原作どおりと言っていい。
でも、それ以外は、
ヴィクター・フランケンシュタインの家族
――父も母も「きょうだい」エリザベスもウィリアムも、
まったく違う設定で戸惑った。
なぜあんなものを創り出したかという説明に必要だと、
監督は思ったんだろう。
同時に「それ」を創り出すまでの時間が、ちと迂遠。
だが「それ」の回想は、かなり原作のイメージに近かった。
とくに、隠れ家とした小屋の隣の農家の
盲目の老人から、言葉と心を教わった話は、
原作の核心でもあるけど、この映画でも、そのままだったのがよかった。
* * *
映画では、さらに踏み込んで、
「それ」に不死身の身体を与えた。
そして「死」もある意味救済であって、
死ねないということは救われないことだ
という主張がなされる。
それはたしかに、そうかもしれない。
死とは、救いなのかも。
だから、ヴィクターは最後、救われた。
だが、「それ」に、救いはあるのか?
「それ」は、
後先考えずにつくられた科学の落とし子である。
科学の落とし子に、救いはあるのか?
監督の問いかけは、そこにあるのかもしれない。
