「愛する者の死との向き合い方」終わりの鳥 レントさんの映画レビュー(感想・評価)
愛する者の死との向き合い方
生きとし生けるもの、その命の終わりは必ず来る。人の命も例外ではない。人が命の終わりを知るとき、命の終わりを望んだ時にデスはその声を聞いてその声のもとに駆けつける。そして彼は死をもたらす、安らかな死を。
本作は寓話の形をとり愛する者の死とどう向き合うべきかを問う作品。
オウムの姿をしたデスはまるで劇中で死神のように描かれるが、本当は彼が死をもたらしてるのではなく死はけして逃れようもないものであり、彼を死神のように描きながら避けようのない死を人がどう受け入れていくかを描いた作品。あくまでも彼の姿は死を擬人化(?)したに過ぎない。
死は恐ろしいもの。なぜならそれは未知のものだからだ。どんなに長い人生を生きてもどんなに経験を積んでも死ぬことだけは経験できない。だから誰もが死を恐れる。でも必ず誰にでも死は訪れる、誰もが必ず死を受け入れざるを得ない。
死は拒否し続ければ恐ろしいもの、しかしそれは受け入れたとたん安らかなものとなる。デスが訪れるのはそんな死を受け入れた者たちのところ。
死を受け入れた者たちは皆デスを歓迎した。そしてここにも一人、死が間近に迫る難病の少女チューズディがいた。
しかし何の手違いか彼女にはデスを、自分の死を受け入れる準備が出来ていなかった。彼女にはまだ気がかりなことが残っていた。
彼女はジョークでデスを喜ばせその場を取り繕う。しかし彼女の母親ゾラは破天荒すぎる女性で娘の死を阻むためにデスを丸吞みしてしまう。
デスの能力を受け継いだ彼女はデスの代わりに死の配達人の仕事を請け負うこととなる。失業中の彼女はその仕事に満足するがこのまま仕事を続けることはいずれ娘に自ら死を与えることを意味する。
デスを吐き出し彼の指示に従い彼女は娘の運命を受け入れざるを得なかった。チューズディは最後に母に確認する。私がいなくなってもお母さんは大丈夫だよね、と。チューズディの気がかりはなくなり彼女は安らかに息を引き取るのだった。
娘の死を受け入れたはずのゾラだったが、娘を亡くしたことにより開いた心の穴はあまり大きかった。それからというもの彼女は取り留めもない日々を送り続けた。
そんな時おせっかいのデスが様子を見に現れる。ゾラはデスに問う。来世はあるのかと。来世もなく死んだままなんてあまりにも虚しすぎると。
デスはそれにこたえる。お前の愛する娘は来世でまた生き続ける。でもそれはお前次第だと。娘が生き続けるにはお前が娘のためにも生き続けることが大切だと。娘が生きた証はお前の中にある。お前が自分の人生を悔いなく生きることが娘の生きた証であり、そのように生きていかない限り娘の存在は失われる。娘を生かすも殺すもこれからのお前の生き方次第だと。それを聞いて彼女は自分の人生を前を向いて歩きだすのだった。
亡くなった愛する者がこのまま消えてなくなる、存在してなかったことになるなんて誰もが耐えられない。来世があると信じたい。
でも愛する者は自分の中で生き続ける。自分が生きている限りその存在は消えやしない。自分の中で生き続けるということが来世で生き続けるという意味なのかもしれない。デスがゾラに伝えたのはそういうことなのかもしれない。
かけがえのない愛する家族や友人を失うことは人生で最もつらい出来事。それにより生きる気力を失うこともあるくらい。しかし、その愛する人の生きた証は自分自身の中にしかない、その存在を生かすも殺すも自分次第だ。だから前を向いて生きなければならない。愛する者のためにも。
愛するものを失った人がその事実をどう受け止めその後どう生きていくべきなのか、そんな普遍的な人生観を寓話のような手法で描いた佳作。
浜辺で手を振るチューズディに手(羽)を振り返すデスの姿にドはまりしてしまった。