終わりの鳥のレビュー・感想・評価
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難しい概念を平易なお話しにしています
期待していたよりも遥かに面白かったです。
終わりの鳥、すなわち死神を巡る物語。
生きるとは何か。
そして、死とはある種の救いでもある。
そういう難しい概念を、映像的にも物語的にも、非常に平易なお話しにしています。
お話しとして説得力もあるし、映像的にもハデさはないけれど面白かった。
こういう映画は、私は好きだな。
長く記憶に残りそうです。
これぞ奇想天外A24作品
命の終わりを告げる鳥(デス)という設定が面白いと感じたし、
まもなく死が訪れようとしている娘(チューズデー)と母(ゾラ)を
どう描くのか非常に楽しみに鑑賞した。
刺さったポイントはあらかた次の通り。
・デスの佇まいが人間っぽくて笑える。特にタバコを吸うシーンは秀逸(予告でも気になった場面)
・デスがチューズデーとRapする
・ゾラがデスを食べることにより、デス化してしまう
(実際には体内にいるため、その能力がゾラの体で体現されていた)
・デス化したゾラの体が伸縮する(巨大化すると巨人さながらなので、インパクト大)
・ゾラがデスを食べることにより、しばらく「死を訪れさせる」ことが停止したため地球?国?町?が大混乱に
人や動物がゾンビ化してしまう
・ゾラがデスの能力を得ることにより、まさか娘チューズデーの命の終わりを告げることになるのか!?
(実際はそうではなかったので安心したが、このどうしようもない結末は観る私たちも覚悟が必要だった)
チューズデーは母ゾラに自分がいなくても残りの人生を充実した時間にして欲しいと願って
死までコミュニケーションを取り続けたに違いないし、
ゾラもチューズデーに安心して旅立って欲しいと願って娘と接していたに違いない。
そして来世はあるというデス。
そこでゾラがどう生きるべきかの示唆を与えて物語は終わるのだが、
私としては希望を持てる良い鑑賞後感だった。
これぞA24的なつくりあがりで、私は大満足だった。
「死」は穢れていない
「鳥」は「死(Death)」の擬人化(擬鳥化)。Deathという単語には「終わり」「死神」の意味もあるから、鳥は「死」「終わり」「死神」のすべてを表していると考えるのが適切なのかもしれない。
超現実的な世界観。死ぬ運命にある娘の死を受け入れることができない母親が、「死」を飲み込んでしまい、「死」と一体化し、母親自身が「死」として、娘を背負いながら世界中を巡る。
シーンのディティールはリアルだがストーリーは神話的。母親の子に執着する思いが世界の法則をもねじまげてしまう、というところは、なんだかインド神話や北欧神話にありそうな壮大さであった。
場面の1つ1つが美しく、この映画そのものが現代芸術作品のようだと思った。
いろいろと考えさせられる要素がある。「死」そのものは、自分がなぜ存在するのかを知らない無知な存在であること、「死」はすべてのものに終わりをもたらす恐ろしいものであると同時に、「救い」でもあること。そして「死」は宇宙の自然法則にとって不可欠なものであり、「死」がなければ世界の循環は断たれてしまう。その意味で「死」は「生」と同じくらい尊く、重要なものだ。
「死」の大きさが微小にも巨大にもなるのは、妖怪の見上げ入道のよう。人間のとらえ方によって、小さくも大きくもなる(とるに足らないことにも、深刻なことにもなる)、ということを表しているのだろうか。母親が「死」と一体化したとき、微小な世界にも行ったところでは、「死」は世界の大きなところにも小さなところにも偏在している、というメッセージを感じた。
主人公の少女に出会ったころの「死」は、すすで黒く汚れていた。すすは、「死」を厭う人々の負の感情を表しているのだろう。人々が「死」を穢れたものと考える想いによって、鳥は汚らわしい姿になってしまう。しかし「死」は自然現象であるが故に、本来穢れてはいない。
少女は、「死」に対して悪感情をもっていなかったから、「死」を洗うことができたし、「死」も少女によっていっときの安らぎを得ることができた。
この映画の裏テーマは、「延命治療」や「安楽死」ではないか、と思った。母親が娘の生に執着するのは、実は娘のためではなく、自分自身が娘の喪失に耐えられないためである。「延命治療」の目的が患者のためではなく、自分のエゴのためになっていないか、ということを批判しているように思える。
「死」は自然なことであり、憎むものや穢れたものではない。避けられない「死」であれば、看取る側は看取られる側が最大限安らかに死を迎えられるように配慮しなければならない。
すごく良かったのだけど、母親が「死」と一体化していろいろなところに行くところは、短かすぎたように思った。ここをもっとちゃんと描くことで、映画全体の面白さがずいぶん変わるように思う。
難しく入り組んだ映画か?と思ったら めっちゃそのまんまだったという...
愛情の表現をどうしたかったのか。
死と仲良しになる為に。
死と鳥
そういえばヤマトタケルは白鳥になって死出の旅に出た。
She needs die.
鳥が一端焼かれ、母に喰われて再生する間に、世界から死がなくなる。
生首の犬や足の切断された男、首の千切れた小鳥、焼けただれた男が、死ねないでいる。
人間の思うような神はいない。
でも来世はある。
子を亡くした親の想いと共に、子が生き続けることが来世だと言う。
抽象的でなくリアルなあり方として来世が描かれる。
仏教的でもある。
しかし、全体を覆う死生観は東洋のものと微妙に違う。
母は狼狽し、ジタバタし、抗う。
娘は、死を受け入れている。
鳥の邪魔をするなという気持ちと、母の態度も当然だよなという想いがないまぜになって、それが良い。
死は救いである。
このメッセージ自体はそれほどの大きなインパクトでは無いが、その語り口はユーモアを含み、ラップにのり、飄々としてかつ軽くならない。
苦しみを無理に永らえさせて生かし続けることは虐待であるという北欧的な感覚も感じた。
死と仲良しになる。
この映画の感性は出会ったことが無い。
ラップが、要約出来ない空気感をよく反映していて良い。
監督は、クロアチアの若い女性。
クロアチアはセルビア難民を多く生んだ戦闘の絶えない国であった。
原題はTuesday。
このタイトルて何か死を想起させる隠れた意味があるのだろうか?
わからなかった。
どうせいつか死ぬんだから笑って受け入れようぜ。その準備だ。
A24映画らしい独特の世界観を楽しむ作品
命の終わりを告げる鳥Deathと病を患う主人公Tuesdayの出会い、その娘と暮らす母が鳥と対峙するという奇想天外な設定。鳥は状況に応じて大きさを大きく変え、低い声で語る。
当初から鳥を受け入れ、鳥からも慕われる存在のTuesday、一方で鳥と真っ向から戦おうとする母。そして鳥は姿を消し、母娘の関係はドラマチックに展開していく。
何とも奇抜な鳥の存在、独特の空気感に包まれながら、生と死というものをこれまでにない側面から描いている。ラップミュージックを巧みに使い、突飛な設定の中、A24の作品らしい独特の世界観を随所に感じ、引き込まれていく。
中盤からかなり突飛な展開となっていくが、それが逆に最近観た真っ当な映画と異なり、最後まで興味深く観ることが出来た。
鳥のシーンは妙な迫力と魅力がある
お前は私を静かにした
こないだ鑑賞してきました🎬
デスという鳥を死を具現化した存在として描き、ゾラとチューズデイという母娘との関わりが軸となるストーリー。
ゾラにはジュリア・ルイス=ドレイファス🙂
彼女がデスに対してとった行動はちょっと恐ろしいのですが、これも娘への愛ゆえか。
一方で怠惰な面もあり、ストーリーが進むにつれ自分を見つめ直していく様はリアムでした😀
チューズデイにはローラ・ペティクルー🙂
デスが目の前に現れた時は、自分の運命を察知しますが機転を利かせます。
余命が短いからか、達観したところと年相応の部分を併せ持つ女性を独特の魅力で演じていました😀
A24ならではの奇抜なストーリーに加え、デスの不死身ではあるが無敵ではない設定など、絶妙なバランスで成り立った1本です👍
誰しも避けられない
「その時」
に思いをはせるきっかけにもなるでしょう🫡
デスに持ってかれる死も悪くない
騙し絵のような幻覚のような、ちょっと気味悪いオープニングに、これは当たりだと。
デスに連れていかれる人たちの、それぞれの死の迎え方も良かった。
不吉なイメージのカラスではなく、人の言葉を話してもおかしくはないオウムなのも良いチョイス、色味も派手だし。
水浴びをして水が真っ黒になる場面では、長い間デスが背負ってきた業を感じて少し切ない気持ちになった。
デスが現れてから死を受け入れたチューズデーとは対照的に、受け入れられず電話にも出ない母。
死にゆく本人からすると、痛みや苦しみから解放されるならばと受け入れてしまうものなのか。
だけどちょっと期待しすぎたかな。お母さんがやらかしてから、女型の奇行種に見えてしまって少し残念。
上手く綺麗にまとめましたなエンディングも、まあ及第点。
残されたものが作る「来世」
A24らしい「普通」じゃない作風の映画でした。
ある母娘が死を受け入れるまでの物語です。
死とはそれぞれの人間に平等に訪れるものの、それを受け入れる時までは平等ではない。
「死」を具現化したオウムが登場しますが、彼は人々に死をもたらしているというよりは死ぬべきときが来た生物に死を与えている、と言った方がいいでしょう。
いつもは淡々と死を与えるオウムが、難病にかかり達観した15歳の少女と出会うことで少し仕事をサボり、娘の死を受け入れられない母親によって、とんでもない展開を迎えます。
ここから先の世界のオウムが消えた世界のパニック描写や残された時間が少ないことを悟った母娘の行動が秀逸。
そして最後に語られる「神はいないが来世はある」という解釈が素晴らしく、終幕の鮮やかさも印象的。
地味でシュールな作品ですが、上半期ベスト級。
映画館を入ったときより、出るときの方が元気になれる映画のひとつです。
死の視覚化
A24×クロアチア
愛する者の死との向き合い方
生きとし生けるもの、その命の終わりは必ず来る。人の命も例外ではない。人が命の終わりを知るとき、命の終わりを望んだ時にデスはその声を聞いてその声のもとに駆けつける。そして彼は死をもたらす、安らかな死を。
本作は寓話の形をとり愛する者の死とどう向き合うべきかを問う作品。
オウムの姿をしたデスはまるで劇中で死神のように描かれるが、本当は彼が死をもたらしてるのではなく死はけして逃れようもないものであり、彼を死神のように描きながら避けようのない死を人がどう受け入れていくかを描いた作品。あくまでも彼の姿は死を擬人化(?)したに過ぎない。
死は恐ろしいもの。なぜならそれは未知のものだからだ。どんなに長い人生を生きてもどんなに経験を積んでも死ぬことだけは経験できない。だから誰もが死を恐れる。でも必ず誰にでも死は訪れる、誰もが必ず死を受け入れざるを得ない。
死は拒否し続ければ恐ろしいもの、しかしそれは受け入れたとたん安らかなものとなる。デスが訪れるのはそんな死を受け入れた者たちのところ。
死を受け入れた者たちは皆デスを歓迎した。そしてここにも一人、死が間近に迫る難病の少女チューズディがいた。
しかし何の手違いか彼女にはデスを、自分の死を受け入れる準備が出来ていなかった。彼女にはまだ気がかりなことが残っていた。
彼女はジョークでデスを喜ばせその場を取り繕う。しかし彼女の母親ゾラは破天荒すぎる女性で娘の死を阻むためにデスを丸吞みしてしまう。
デスの能力を受け継いだ彼女はデスの代わりに死の配達人の仕事を請け負うこととなる。失業中の彼女はその仕事に満足するがこのまま仕事を続けることはいずれ娘に自ら死を与えることを意味する。
デスを吐き出し彼の指示に従い彼女は娘の運命を受け入れざるを得なかった。チューズディは最後に母に確認する。私がいなくなってもお母さんは大丈夫だよね、と。チューズディの気がかりはなくなり彼女は安らかに息を引き取るのだった。
娘の死を受け入れたはずのゾラだったが、娘を亡くしたことにより開いた心の穴はあまり大きかった。それからというもの彼女は取り留めもない日々を送り続けた。
そんな時おせっかいのデスが様子を見に現れる。ゾラはデスに問う。来世はあるのかと。来世もなく死んだままなんてあまりにも虚しすぎると。
デスはそれにこたえる。お前の愛する娘は来世でまた生き続ける。でもそれはお前次第だと。娘が生き続けるにはお前が娘のためにも生き続けることが大切だと。娘が生きた証はお前の中にある。お前が自分の人生を悔いなく生きることが娘の生きた証であり、そのように生きていかない限り娘の存在は失われる。娘を生かすも殺すもこれからのお前の生き方次第だと。それを聞いて彼女は自分の人生を前を向いて歩きだすのだった。
亡くなった愛する者がこのまま消えてなくなる、存在してなかったことになるなんて誰もが耐えられない。来世があると信じたい。
でも愛する者は自分の中で生き続ける。自分が生きている限りその存在は消えやしない。自分の中で生き続けるということが来世で生き続けるという意味なのかもしれない。デスがゾラに伝えたのはそういうことなのかもしれない。
かけがえのない愛する家族や友人を失うことは人生で最もつらい出来事。それにより生きる気力を失うこともあるくらい。しかし、その愛する人の生きた証は自分自身の中にしかない、その存在を生かすも殺すも自分次第だ。だから前を向いて生きなければならない。愛する者のためにも。
愛するものを失った人がその事実をどう受け止めその後どう生きていくべきなのか、そんな普遍的な人生観を寓話のような手法で描いた佳作。
浜辺で手を振るチューズディに手(羽)を振り返すデスの姿にドはまりしてしまった。
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