「視線の意味」ニッケル・ボーイズ つとみさんの映画レビュー(感想・評価)
視線の意味
「ティル」のレビューにも書いたが、バラク・オバマ氏のリストを参考にしている影響で、黒人映画を観る機会がうなぎ上りである。当然「ニッケル・ボーイズ」も彼のリスト作品だと思っていたのだが、2024年のリストを確認したところ選外であった。
人は他人に影響を受ける生き物だが、私もオバマ氏からの影響をかなり受けているらしい。
それにしても「ニッケル・ボーイズ」選ばないって、どういうこと?!ここ最近観た中ではズバ抜けて面白い、野心的で美しい傑作映画なのに!
確かに「アカデミー賞にノミネートされたから観てみた」くらいの軽い気持ちだと迷子続出になるような映画ではある。一見ストーリーとは関係なさそうな映像、狭い画面、一人称視点とブレるカメラ。
実際はそういう「小難しげ」な演出が物語とテーマと登場人物の心情を伝えるための鍵として重要な役割を果たしているのだけれど。
要所で「アポロ8号」の様子を伝えるニュースが挿入されるのは、ケネディ大統領時代という時代背景の他、「今まで誰も成し遂げなかった、勇気ある行動」の比喩でもあり、主人公の一人であるエルウッドが成そうとしている「ニッケル校の告発」の困難さを示唆する役割を担っている。
また、一部の映像は映画の終盤に「どの時点で起こった出来事なのか」が判明する。よく分からないまま観せられていた車窓の風景がその代表例だ。
最後まで観れば、脱走したターナーがタラハシーまでたどり着くまでの旅程であることがわかり、ターナーの逃避行の長さはエルウッドがニッケル校へ送られてきた長さと一致する。
登校中の不幸な偶然が、一人の少年を家から遥かに離れた孤独の地へと追いやる理不尽さを物語るのだ。
そして、数々の映像の最も素晴らしい点は、観ている側の心を揺さぶってくることにある。基本の映像は全てエルウッドとターナーの視点で撮影されている事はすぐにわかるのだが、一瞬どちらの視点なのかわからなくなることで緊張感が生まれる。
エルウッドを救うために脱走した二人が自転車を漕ぐ。後ろからターナーについて行くエルウッドの視点から、自転車のメーター、そしてまた前方へと切り替わったとき、そこにターナーがいない。
目の前にいたはずのターナーがいなくなった、なぜ?一瞬で?何があった?まさか捕まったのか?と不安が押し寄せる。
その後振り返ったことで「ターナーの目線だったのか」と安堵するまでの間に感じた不穏さ、それは分の悪い逃避行の不穏さとシンクロして観客の心を波打たせるのだ。
さらに、「この視点は誰の視点なのだろう?」と考えた時に、初めて「映像にいない人物」という消えた存在に気づくことが出来る。
映画には2010年代の成人した「エルウッド・カーティス」が登場するが、カメラはずっと彼の後ろ姿をとらえている。これは一体誰の目線なのか。
ともにニッケル校で過ごしたピートが登場した場面で、この「エルウッド」への違和感は最高潮に達するのだ。もしかして、彼はターナーで、ターナーを後ろから見守り続けているのはエルウッドなんじゃないだろうか?
ターナーはエルウッドを助けようとし、しかしそれは叶わず、逃げ延びたタラハシーでエルウッドの代わりにエルウッドとして生きていくことにした。
それが正しいことなのか、良いことなのかはわからない。だが、ニッケル校で「孫の代わりにハグを」と抱きしめてくれたエルウッドの祖母は「彼は大丈夫」と泣きながら繰り返し、やはり帰ることのなかった孫の代わりにターナーをしっかり抱きとめてくれた。
その時彼女はターナーの肩越しに、ターナーを見守っているエルウッドに語りかけたのではないだろうか。
大量の映像が燻り出す「喪失」、それこそがこの映画の醍醐味であり、エルウッドという存在が、エルウッドと同様の大勢の黒人少年が、まるで煙のように消えてしまったことを強烈に訴える。
細かくシーンを分析すればするほど、緻密に組み立てられた素晴らしい映画である。構成も演出も申し分ない。
エンドロール前の無音の数十秒、犠牲となった多くの黒人少年たちに黙祷を捧げてこの映画は終わる。
オバマ氏がベストムービーに選出しないなら、ささやかながら私の今年観た映画のベストムービーリストに加えておこうと思う。