「未来がキャンセルされた時代の『スタンド・バイ・ミー』」メイデン nontaさんの映画レビュー(感想・評価)
未来がキャンセルされた時代の『スタンド・バイ・ミー』
2022年に世界公開され、日本では今年2025年に公開されたカナダの映画だ。現在39歳のグラハム・フォイ監督が、自身の生まれ故郷カナダ・アルバータ州のカルガリーで撮影した青春映画である。
宣伝では「現代のスタンド・バイ・ミー」という言葉も使われていた。しかし、そのコピーから想像するような映画ではなかった。誰が見ても誤解なく分かりやすい「スタンド・バイ・ミー」と比較すると、セリフも物語上の説明も少なく、分かりにくい。
ただ、その分想像の余地が大きい。少ないセリフが大きな意味を持って響いてきて、後を引く。現代的な生きにくさを見事にドラマに昇華した素晴らしい映画でもある。
見終わった後に、知らず知らず自分の人生に影響を与えるような神話的なパワーのある映画であると、一日経って感じている。
この映画から、考えさせられたことを整理してみたい。
まず、この映画の物語について。
ハリウッド式のわかりやすい物語ではない。主人公はティモシー・シャラメを思わせる繊細なイケメン、マルセル・ヒメネス演じるコルトン君だろう。しかし、そう思ってみていくと、中盤に差し掛かるあたりから、このコルトンの出番が激減する。それで「?」となってしまう。
しかし観終わってみれば、やはり主人公はコルトン君だった。
ネタバレ含みで物語を考察してみたい。
この映画は3部構成だ。
第1部は、親友同士の高校生、カイルとコルトンがカルガリー郊外の新興住宅地とその外に広がる渓谷(メイデン)で、スケボーを片手に、やんちゃに退屈を紛らわしながら日々を過ごす青春物語。カイルは無謀で危険を顧みないところがあり、その結果、事故で亡くなってしまう(「スタンド・バイ・ミー」のリバー・フェニックスに当たるのがカイル君だ)。
第2部は、一転して同じ高校の同級生の少女ホイットニーの物語となる。カイルとコルトンと同級生だが、ほぼ交流がない。ホイットニーにも親友はいるが、本音で話すことはできない。だから日記を手放さず、そこに自分の思いを書き込んでいる。繊細で、周囲からみれば病的に神経質な〝イケてない少女〟のホイットニーが親友から縁を切られて、渓谷をさまよううちに行方不明となる。彼女の日記帳を、同じく親友を亡くして鬱々として渓谷を歩き回るコルトンが見つけ出す。
第3部は、この世界からいなくなったホイットニーとカイルの物語である。高校では関係のなかった2人が、向こう側の世界で友情を結ぶ。第3部にもコルトンはほとんど出てこないが、コルトンの空想の世界の物語ということだろう。友人たちが救われていたらいいなという、コルトンの「祈りの世界」と言ってもいいかもしれない。
キリスト教世界の民間伝承でバッドデス(良くない死)という概念がある。予期せぬ突然の死、不自然な死のことで、そうすると魂が現世に残ってさまよってしまう。そんな世界を描いて、本作は終わる。
現代の若者は、周囲から評価され承認されることが大事になっていて、それは生死を分けるほどの大問題である。イケてるグループに入れれば最高だが、そうでなければ、イケてないもの同士でグループを作る。最悪なのは誰にも見向きもされないこと。こうしたスクールカーストの世界を描いた映画でもある。
友人ゼロという最悪の状態になったホイットニーが、魂の世界で友人を得て救済されるというスピリチュアルな希望の物語だが、「魂の世界にしか希望がない」ことが、「スタンド・バイ・ミー」よりさらに深い、喪失感と絶望感を伴った切なさを残すと思う。
もう一つ、気になったのは舞台であるカナダ・カルガリーという土地柄との関連だ。
第1部では、特にカイル君があまりに無謀で、危険への感度がマヒしているように感じさせられる。こんな生き方では未来がないよと、ハラハラさせられるし、正直イライラする。
この蛮勇的な無謀さ、それとカルガリーという土地柄を結びつけたのは、タイガーマスク登場でブームとなった、80年代の日本のプロレスの記憶だ。
タイガーマスクのライバル、ダイナマイト・キッドはカナダ・カルガリーでブレイクしたレスラーだった(出身はイギリス。史上最高のプロレスラーを1人上げるとき、僕は彼を挙げている)。
彼はまさに「未来がないように戦う」レスラーだ。相手の危険な技を全て受け、得意技はトップロープからジャンプして頭から落ちる(ダイビング・ヘッドバッド)という危険な技だった。この技を出す時、彼は受け身など取らず本当に頭から落ちていく。170センチほどの小柄な体格で、アメリカで活躍するために、ステロイドで巨大な体を作り上げ、晩年は長らく車椅子生活を送った。
他にも、ビッグマッチでのスタントに失敗し即死したオーエン・ハートや、脳震盪の後遺症と薬物の影響から、家族を殺害し自殺してしまったクリス・ベノワもカルガリーで鍛えられてブレイクしたレスラーだった。
彼らに共通するのは、安全を度外視するメンタリティだ。未来を計算することなく、今に全てをかけるという男らしさと心意気にファンは熱狂した。しかし、それは自分自身の未来を犠牲にする行為ともなってしまった。
カルガリーは「カナダのテキサス」とも呼ばれて、世界最大規模のロデオ大会「カルガリー・スタンピード」でも知られている。そこでは、怪我を恐れ「未来のためにリスクを回避する」のはダサいのだ。そうした文化も、カイル君の無謀さに影響しているのかもしれない。そして、そうした文化の中では「ヘマをした奴が悪い」となりがちで、それが映画の中では「自業自得」という自己責任の言葉として、出てきたのだと思う。
この「未来を考えない感覚」は、土地柄だけではなく、現在の社会環境とも非常に結びついていると思う。
この物語中でもコルトンがカイルに「10年後どうしてる?」と質問する場面がある。そして、その答えはなんだか曖昧だった。また、コルトンが質問したのは、自分の未来が想像できないからのはずだろう。
自分の高校生時代を考えても、10年後の未来なんて、永遠に未来くらいの感覚ではあった。それでもバブルに向かう時代でもあったから、未来はもっと良くなるし、努力すれば、親よりいい学歴といい仕事を手にして、もっと稼いで、いい生活ができるかもしれない、どこかの世界で何かを成し遂げられるかもーーそういう希望は当たり前にあった。
しかし近年の西側社会、特にアメリカやカナダでも、「未来がキャンセルされている」というような論考がされている。低成長と格差が固定した現代では「10年後は現在より良くなっている」という想像力が働きにくい。そして「10年後は若さと自由を失って、親のような疲弊した労働者になるしかない…」そんな感覚がある。その中に、カイルやコルトンはいるのではないだろうか。
そんな時代でも、「自律と自己責任」は宗教のようなものだ。例えば「GRIT やり抜く力」という「自制心こそが成功の鍵である」というビジネス書がベストセラーになったりする。
確かに自制心なくして、達成はないのだけれど、それは成功者バイアスだ。成功した人は「私は自制心を持って努力した」と語り、それは真実でもある。しかし、成功は上位10%程度の限られたイスで、残りは自制と努力を持ってしても、親よりも苦しい生活を送らざるを得ない。
本音では、自分は成功できないと思いつつ、しかしそれを自分の責任として考えざるを得ないのはどれほど苦しいだろうか。マッチョな自己責任文化が強いカナダ・カルガリーでは、その行き詰まり感、葛藤と不安が日本からは想像できないほど強いのかもしれない。
そう考えることで、この物語の切実さは増してくる。それに、日本社会もこれから同様の変質を経験する可能性は高く、他人事ではないのである。
カイルとコルトンが長い時間を一緒に過ごす場所に、渓谷とともに、郊外の建築途中で放置された空き家があった。この空き家は、カイルの親の家のようだ。
カナダでは、ここ数年、金利上昇とインフレで建設コストが高騰し、ローン返済ができなくなって「夢のマイホーム」を放棄されるケースが増えているそうだ。カイルの親も、経済的に行き詰まってしまったのではないだろうか。
現在のカナダ・カルガリーの石油産業の状況を調べてみると、その可能性は高そうだ。
一言で言えば、産業としては好調で、企業は利益が出ている。しかし、その利益は株主と、自動化へのシステム投資に使われて、労働者には回っていない。雇用される労働者は減っていて、レイオフも盛んだ。
かつては「高校中退でも、油田で働けば年収1000万円」という希望があったのが、すっかりその希望は消えてしまっている。資本家だけが稼ぎ、労働者は落ちぶれるという努力ではどうにもならないカルガリーの社会構造があって、それがこの映画の背景になっている。
未来への希望をどう立て直していくのか…。これは監督が意図したメッセージではないかもしれないけれど、本作が提起する課題であることは間違いないと思う。
「未来がキャンセルされている=未来に希望はない」若者は、未来の価値が激減する。だから、より良い未来のために目標を持って、現在はある程度犠牲にして努力するということができなくなる。それよりも、人生で最も美しい青春時代を楽しんで、燃え尽きる方がいい・・・。
昔からロックスターたちは、そんなことを言ったりしてきたけれど、彼らの多くは生き延びるどころか、かつての名声でシニアになっても稼ぎ続ける。
成功者にならなければ幸せになれない、しかし、その道はあまりにも険しいどころか、道は閉鎖されている…そうした感覚が少しでも持てるなら、この映画と若者への共感を取り戻すとともに、ではどうすれば…ということも少しは考えられるようになるかもしれない…と感じている。
この映画の前半で死亡してしまうカイルはさまざまなスプレーアートでMaidenと落書きをしていた。現代社会的には破壊行為だけれど、未来を持たないカイルにとっての「自分がここにいた」という存在証明を残す行為だ。そのグラフィティだけが、ずっと風景の中に残り続けることが、コルトンにとっての救いでもあるし、いつまで経っても過去に引き戻される呪いにもなっていて、切なさを増幅させる。
最後に、本作は16ミリフィルムで撮影されたのだそうだ。フィルム時代の通常は35ミリだから、かなり質感としてはざらざらしているし、コントラストも弱く、影の世界に何があるのかがクッキリ見えてこない。それが現実と幻想の世界を曖昧にしている。
デジタルのクリアな映像では、第3部の亡霊たちの物語のような気配を出すことは難しかっただろう。
現実と向こう側の世界を行ったりきたりする…そんな体験のできる物語と映像を兼ね備えた佳作である。
