「予告編からあふれる圧倒的な詩情! カナダの俊英が贈る「おいらのスタンド・バイ・ミー」。」メイデン じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
予告編からあふれる圧倒的な詩情! カナダの俊英が贈る「おいらのスタンド・バイ・ミー」。
珍しく、予告編を観て、ぜひ観たいと思った。
そこには、昔から僕が「映画」とはこういうものだと
思ってきた映像が映っていたから。
この画質。この画角。この動き。
監督の考えている「映画」に共感できる。
好きな割に、あまり自分では足を運ばないタイプの映画。
よくありそうで、その実、意外にないタイプの映画。
純粋で、まっすぐで、映画への愛にあふれた、
抒情的でけれんのない、青春映画。
久しぶりにこの手の映画を観て、やっぱり良いな、と思った。
よくいえば、ピュアでストレートな映画。
悪くいえば、ちょっと幼稚でありきたりな映画。
あまりにも真っ正直に、青春映画らしい青春映画を撮ろうとしているがゆえに、「よくある」ギミックとクリシェのオンパレードになっているし、えらく気恥ずかしいようなストーリーになっている感もある。主人公ふたりの悪戯や破壊衝動も、だいぶと偽悪的な感じで痛々しい。
とはいえ、それでいいのでないか?
僕はそう思うのだ。
撮っているのも、出ているのも、若者だ。
若者が、気恥ずかしいものを撮って何が悪い?
むしろ才走った老成した作品を撮る方が、
よほどこざかしい話なのではないか?
若い才能が、まっすぐフィルムの力を信じて、
受け止める観客を信じて、映画を撮る。
素晴らしいことじゃないか。
― ― ― ―
前半のお話は、とてもシンプルなものだ。
コルトンはカイルと毎日遊んで暮らしている。
ある日、カイルがひょんなことで命を落とす。
それからはカイルの死をひたすら悼む日が続く。
ただ、それだけだ。
それだけだけど、描写は実に丁寧といえる。
●映画の基調を成すのは、横スクロールだ。
画面の向かって左から右方向に、
カイルとコルトンが、歩く。スケボーをこぐ。
川を泳いで下る。車に乗せてもらって走る。
たとえ躍動感と疾走感はあっても、
彼らは常にスクリーンの平面上に囚われて、
そこから逃れることはできない。
いつも、横に流れるカメラのフレームに、
閉じ込められている。
ときには客に背中を向けて、
画面奥へと歩いていくが、
やはりカメラはその背中を一緒に
追いかけていくので、距離は変わらない。
とある平面に囚われたまま、
彼らの息苦しく閉塞した青春は続いていく。
作中で、このルールから外れるのが、
丘を下る、夕陽の見える土手の坂道だ。
この道を、カイルはスケボーでおりられる。
コルトンはおりられない。
ここだけは「解放感」が画面から漂う。
それは少年たちが、ここでだけは、
カメラのルールから解き放たれるからだ。
●カイルはとにかく、やんちゃで破壊的で、衝動的な青年だ。
一方のコルトンもやんちゃはするが、穏やかで、どちらかというと追随的な性格といえる。
いつもろくでもないことをやりだすのはカイルで、コルトンは相方につられて付き合わされているだけだ。
こういう親密でバディ的な関係性があるなかで、「主導的なほうが突然命を落とす」というのは、この手の作品では比較的よく見かける展開かもしれない。
●カイルの死の描写は、できる限り遠まわしに描かれている。
あれだけ、線路から川に飛び込みとかしてたんだし、実際コルトンだってすぐ避けられてるんだし、音と振動で察知すれば脇のどこにでも逃げられるんじゃないのとかつい思ってしまうのは、作り手の仕掛けた思考の罠なのか。
これが予期せぬ「事故」だというなら、「ここからしばらくの区間は陸橋になっていて逃げ場がない」みたいな描写くらいは欲しかったところだけど。
一方、「あれは実は自死だ」という考え方もあるのだろうが、二人で探検に出かけたあのタイミングで、敢えて衝動的に自死を実行に移すというのはかなり無理のある解釈のような気がする。
まあ、監督としては「自死」の可能性を考える余地を観客に与えたかったのは確かだろう。少なくとも、カイルが「危うくて」「破壊衝動に常に捕らわれていて」「衝動的な行動に出るタイプ」の青年であることは間違いないのだから。
ともあれ、「え? マジで死んだの? なんで?」と観客に思わせた時点で、製作者の意図自体はすでに成功しているともいえる。
電車のシルエットが「貨物列車」というのは、臨時運行も多いと思うので「不意に来る列車」として納得のいきやすいところ。何両も何両も連なって延々と途切れない描写は、コルトンの絶望をいや増しにする。
カイルの死をブラッディ・ムーンで表現するのも品があって良い。
●カイルに死なれてみると、彼がしきりに町中で描き倒していた「MAIDEN」のグラフィティが、あたかも「自分の生きた証を必死で町中に遺している」ようにも思えてきて、ふたたび「自死」説の気配が漂い、なんとも印象深い。彼の死がどういう要因で招かれたものであったにせよ、彼のなかで漠然とした「自分は早逝するのではないか」という予感が常にあったのは確かな気がする。コルトンから将来について訊かれたときも、「音楽をやっていられたらいいんだけどな」と、妙に自信のなさそうな口ぶりで返答していたし。
そういえば、彼は「MAIDEN」と書いた後、いつもそれに「頭」と「足」を描き入れているが、見ようによっては横に羽を広げた「天使」のように見えなくもない。
(ちなみにエンド・クレジットをぼんやり見ていたら、タイトルロゴデザインにジャクソン・スルイターの名前が! これ俳優が自分で書いたものを使ってるんだな。多才!)
●コルトンは、カイルへの依存度が高かった分、カイルの死からなかなか立ち直れない。
最初は引きこもって泣き暮らし、そのあと登校できるようになってからも、毎日カイルとの思い出の場所を巡り歩きながら、追憶に身を任せている。
回りの人間にかなり気を遣わせながらも、いつまでも立ち直れない感じは、ちょっと『エースをねらえ!』の岡ひろみみたいで面倒くさいが、それだけカイルと自分を同化させていた(ベルイマンの『ペルソナ』のように)ということで、喪失感がハンパないのだろう。
巡礼の旅のようにコルトンが、カイルとの思い出とカイルのいた気配とカイルのグラフィティを巡りつづける中盤の展開は、ただただ抒情と余韻に満ちて、美しい。
とくに、コルトンが川に向かって最初は小石を投げていたのが、だんだんと「より大きく」「より角ばった」石を選んで投げるようになり、ついには大きな「岩」を抱え上げて川の中まで入って落とすところまでエスカレートするあたり、彼の鬱屈と破壊衝動が出ていて、とても良いシーンだったと思う(ちなみにこの後出てくるカイルとホイットニーの川遊びでは、投げる石は重力を喪い、水面を何回も飛び跳ねて水切りをしながら、キラキラキランとアホっぽい効果音を鳴らす。なんという対比!)。
●終盤、最初の方で「行方不明」の張り紙を出されていた少女ホイットニー(実はコルトンたちの同級生)が登場し、後半の物語の「新たなヒロイン」として、コルトンとカイルの「喪失の物語」に不思議な絡み方をしてくる。
ここの時系列だとか、現実と非現実の境というのはちょっとわかりにくくて、パンフの高橋諭治さんは「生者と死者が黄昏時に出逢う」といった解釈をされていた。ここの感想でも「生きているホイットニーが死んだカイルと出逢う」と読んでいる方が結構いらっしゃる。
ホイットニーが出逢ったカイルは、間違いなく死者であり、亡霊としてのカイルだ。だが、カイルが死んだ直後の段階で、すでにホイットニーは行方不明だったはずではないか?(山狩り、ポスター)
だとすれば、お話としては後半のストーリーは多少時間軸を巻き戻してスタートしていて、二人は似たような時期にそれぞれ死を迎えていると考えるほうが自然なのでは?(カイルが自死なのか不慮の死なのか判然としないように、ホイットニーも森で最初から死ぬつもりだったのか、彷徨っているうちに思いがけず命を落としたのかは曖昧だ)
ホイットニーが夜の林下を歩いているシークエンスで、「花から液体が垂れる」ようなショットがあって(そういうふうにしか見えなかった)、僕はあれがホイットニーが「死んでいる」ことを暗示するショットだと思ったのだが、いかがだろうか。
よしんば、二人が死んだタイミングがだいぶ「ずれていた」としても、それこそ黄昏時のトワイライトゾーン(死者の待合室)では、時間のズレなどは些細なことだろう。二人は時間を超克して、孤独な魂どうしで惹かれ合い、出逢った。
死後の世界に旅立つ前のひととき、ふたつの魂が邂逅し、お互いの孤独を癒し合う、その二人の道行の間近で過ごしながら、コルトンのほうからは、もはや二人を見ることができない。そういう話だと少なくとも僕は判断しながら、この映画を観ていた。
●ホイットニーは、わかりやすい感じで発達障碍、それも自閉症スペクトラムのかなり重い傾向を示すキャラクターとして描かれている。ASD特有の生きづらさ、他者とのコミュニケーション不全、特定の友人への執着、行動パターンへのこだわりと融通の利かなさ、感情の急な爆発と思い込みの強さなど、ほぼ典型的な症例を示しているように思う。
芸術面・文芸面での突出した能力もまた、ASDでよく見られる傾向だ。
●一方、死後のカイルが、迷えるホイットニーの導き手として取る行動が、そのまんま、コルトンと過ごしていたときに取っていた行動とまるで同じというのも面白い。
地縛霊は、基本的に「生前の行動を模倣し、繰り返す」存在なのだ(笑)。
彼は、愉しかったコルトンとの思い出を「なぞる」かのように、新たな相方であるホイットニーを連れて、「かつての二人にとってのとっておき/秘密の場所」を巡礼する。その行動は、「生きている」コルトンが平行して繰り返している「聖地巡礼」と軌を一にするものだ。
たしかに、カイルの亡霊は「生きているかのように」ホイットニーに接している。だが、もしかするとこのカイルは、「コルトンとの楽しかった思い出の残滓」であり「土地に沁みついた二人の行動パターンの残影」に過ぎないのかもしれない。
●結局、この物語がどう終わったかと言われても、それにちゃんと答えるのは難しい。冒頭に出てきた死んだ猫とラストに出てきた生きた猫が同じ猫だとは限らないし、単純に監督が「映画をそれらしく終わらせるために仕掛けたギミック」に過ぎないのかもしれない。
とはいえ、歌に乗せて放たれたメッセージは、どこまでも堅固でストレートだった。
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その他、雑感。
●カイル役のジャクソン・スルイターは、「リバー・フェニックスの再来」というより、単純に髪型と顔立ちが、『スタンド・バイ・ミー』出演当時のリバー・フェニックスに激似である(笑)。この子を主役に選んで、鉄道を重要な要素として出している時点で、監督が『スタンド・バイ・ミー』を強く意識し、かつ、強く影響を受けているのは間違いない。
あれもまさに「青春と冒険と死」の関係を描いた小説であり、映画だった。
●コルトン役のマルセル・T・ヒメネスは、なんとなく見た顔だなあと思ったら、パゾリーニの超お気に入りだったニネット・ダヴォリと微妙に似た感じがするんだな(笑)。
●監督自身もまた学生時代は「はみ出し者」だったはずで、カイルとコルトンとホイットニーに対しては、およそ全幅の共感を寄せた作りとなっている。
一方で、スクールカースト上位の連中に対しては、かなり子供っぽい戯画化をもって愚弄せんと試みており、「グルーピー」「テンガロンハット」「拳銃試し撃ち」「大金持ちの別荘持ち」「ピアノ(オルガン)が弾ける」など、思いつく限りの下品な属性を付与して、笑いものにしようとしている。よほどつらい思い出があるんだろう(笑)。
●今の時代に若い監督が「16mmフィルムで撮ろう」と思いつくこと自体、十分に「ロマンティック」な発想であり、映画全体のテイストや演出がやけに情緒的で「青春映画のクリシェ重視」のつくりであるのも、うなずける部分がある。
で、最初に述べたとおり、僕はこういう映画が嫌いじゃない。
また監督が新作を作ってくれたとすれば、ぜひ観に行きたいと思う。