陽が落ちるのレビュー・感想・評価
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【主君の名により切腹の沙汰が下った夫。だが妻は武家社会の掟に静な怒りと共に夫の尊厳、家族の絆を護ろうとした新たなる時代劇。私は今作は武家社会の掟に、静な怒りをぶつけた作品だと思ったのである。】
■主君の大切な弓の弦を粗相により切ってしまった直参旗本の夫久蔵に蟄居の命が下る。更にその後、旧友からは、一首の歌にて切腹の沙汰が下される事が伝えられる。
それを知った三河藩の由緒ある家から嫁いできた妻・良乃(竹島由夏)は冷静に、下働きの娘と下男に相当の品を送り、暇を出すのであった。
◆感想<Caution!内容に触れています。>
・今作では、直参旗本の夫久蔵に蟄居の命が下った理由は”主君の大切な弓の糸を粗相により切ってしまった”としか、示されないが、そこから切腹とはこれ如何に、と思うのだが、実は江戸時代には政争などで、無念の詰め腹を切らされた武士が多数居る。
だが、その多くは主君の命を受け、切腹をしている。分かり易い所では、山本周五郎の名著「樫ノ木は残った」などがあるが、読んだ時は”何でだ!”と、大変に憤慨をしたモノである。
・今作では中盤までは、妻・良乃は驚きと哀しみを抑え、夫亡き後の事を考え冷静に行動する。観ている方は、”オイオイオカシイだろ!”と思いつつ鑑賞する。
■一人息子を旧友が引き取ってくれることが決まり、夫婦二人で夜に話すときには夫久蔵も、腹が決まったのか冷静に酒を酌み交わすのである。
だが、陽が昇り夫の切腹の前に現れた大目付の前で、妻・良乃は”一文字や、十文字では貴方の衣服に夫の臓腑が飛び散り、汚してしまいます。扇子腹でお願いします。”とキッと目を見開き、告げるのである。
戦国時代であれば、切腹は一文字が普通で、立派な切腹は一文字に腹を切った後に刃を斜め上に切り上げて、更に”お頼み申します。”と介錯人に告げる最期を遂げると”あの人は、立派だった。”となったそうだが、江戸になると扇子を腹に当てた瞬間に、介錯人に首を撥ねて貰うやり方が普通だった。
妻・良乃は江戸時代で刃による切腹を命じた主君に対し、且つ大切な弓矢だか何だか知らないが、モノを壊しただけで夫に切腹を申し付けた主君に対し、明らかに、激烈な怒りを示しているのである。この時の妻・良乃を演じた竹島由夏さんの表情が、マア怖いのである。
<今作を海外では武士道の潔さや、所作の美しさを絶賛するなどという評が散見されるが、トンデモナイ事である。
武士が主君の命を受け、唯々諾々と腹を切る事が美談とされていたために、日本はその後、大東亜戦争でも、第二次世界大戦でも”一億総玉砕!”などという愚かしきスローガンを掲げるような国になってしまったのである。
第二次世界大戦末期、沖縄がどうなったか、広島、長崎はどうなったか、特攻隊で何人の若者が命を散らしたか。
全ては、ルース・ベネディクトの名著「菊と刀」に記されているように、日本の武士道や”恥じの文化”が根底にあるのである。
今作制作の監督がどのような意図で今作を製作したかは、監督インタビューの上映回ではなかったので聞けなかったが(実は、凄く聞きたかった。)私は、今作をそのような武家社会の掟に、静な怒りをぶつけた作品だと思ったのである。
でなければ、全てが終わった後に、夫が残した扇子を妻が錯乱したかの様に、破り捨てたりはしないと思うし、下働きの娘が、たどたどしい文字の”だんなさま、ひとりではかわいそうだから・・”という遺書を残し井戸に凭れて首を切って死んでいるシーンは、入れなかったと思うのである。
今作は、個人的に大変に腹を立てながらも、妻・良乃を演じた竹島由夏さんの覚悟を決めた怒りの表情に魅入られた作品なのである。>
<2025年6月29日 刈谷日劇にて鑑賞>
狂ってる
時代(上司)も狂ってるけど、奥方も友人も奉公人も狂ってた。ましてや奉公人の父親は何なんだ・・・。
監督が何を言いたかったのかよくわからなかった。命を大切にしろと言いたかったのか、名誉を大切にしろと言いたかったのか。あるいはこんな狂った時代にしてはいけないと言いたかったのか。
他にも、当時の10歳ということは今でいう8歳(か9歳)くらいなのにこんな子をあてていいのかと思ったり・・・。
とはいえ、役者さんは素晴らしい演技でした。順撮りや撮影中は日本のものしか食べない等、徹底したという成果だったのでしょうか。
ただただ、監督が何を言いたかったのかわからなかったことだけが残念です。
主人公は安達祐実さんの妹かと思いました。
かなり設定に無理がある。役者はいずれも熱演。
柿崎ゆうじ監督が脚本も書いている。エンドクレジットを観た限り時代考証担当は立てておらず柿崎自身が調べた範囲内で映画まで進めたようだ。
時代設定は文政12年ということになっている。文化・文政時代である。徳川将軍は11代家斉。大河ドラマ「べらぼう」の50年ぐらい後で江戸時代もかなり後期の方となる。
続いて「切腹」について。負の記憶であるために多分、聞きにくい、隠されている。だから切腹の事例の系統(時代、背景、作法)だった収集は国内でもあまりなくて考察も意外とまとまったものがない。柿崎監督自身も幕末のドイツ人医師のレポを参考にしたと言っていた。ただ一つ言えるのは切腹はあくまで自裁であり(介錯はあるにしても)、刑罰として成立するためには、武士としてあるまじきことをした人間に所属組織が「恥じ入らせて」自裁を促すというメカニズムであることを理解する必要がある。つまり万事武張っていた江戸初期ならともかくこの時代になって官僚化された直参旗本に対して、将軍の弓を傷つけたいう微罪かつ過失でもって、幕閣が切腹を申し付けるということはまずなかったと言い切って良い。不条理を印象づけるためにこのような設定にしたのだろうがそもそも無理がある。
他にも、上使を迎えるのに当人が月代を剃っていないとか、扇子腹のやりとりであるとかあり得ない設定が多い。
切腹が室内で行われるのもそう。大名家などで事例はないことはないのだが、旗本の拝借屋敷程度ては介錯の刀が天井につかえるでしょう?あり得ないですよ。
細かいところは私もわからないし、少しぐらい違っていても構わないのだけどストーリーの骨格になる部分が滅茶苦茶だとちょっとね。
役者は真面目に熱演しているんだから気の毒ですよ。
武士の本音
武士と聞くと、仕える大名や将軍に熱い忠義を持ち、
迷うことなく一本筋の通った生き方を貫く、というイメージだが、
この映画では、沙汰の理不尽さに疑問をもち、戸惑い、苦悩し、逡巡、葛藤する姿が描かれる。
対照的に、妻の良乃は、家を守るため、
武士としての誇りを全うできるように夫を気丈に支え、励ます姿をみせるが、
ラストでは抱え、抑え込んでいた内面が噴出する。
通常は切腹という運命を当然のごとく受け入れるように描かれる武士やその家族について、
現代を生きる我々にも近しい感情をもって、一昼夜の出来事について
時代劇では珍しく動きも少ない中で、小道具など使って濃密に心理描写しているところが面白い。
翻って現代と比較してみると、
命を懸けて、誇り、名誉を守るという生き方は、
美しくはあるけれど、何と生き難い、苦しいものかと思ったり、
一方で病気などで余命宣告を受けた時に自分の存在を維持できるのかとか、
とにかくいろいろなことを考えさせられる映画でした。
観る度に新しい発見
切腹を言い渡された侍の妻
死ななければならない己の不運、不幸を憂い、決定を下した武家社会への恨みつらみを叫び、御家断絶となることについての先祖への申し開きのなさと路頭に迷いかねない残される妻子の身を案じ、そして死そのものに対する恐怖から旗本古田久蔵正成は慟哭する。そんな夫に対し良乃は侍としての潔さを求める。また一人旅立つことへの恐怖に怯える夫に自分も一緒に連れて行って欲しいと懇願する。生への執着を見せる夫の発言には生き伸びるために逃亡することを示唆する。考え得るすべてを、侍の妻良乃は夫にそしてスクリーンの前の我々に披露してくれる。ある時には叱咤し、またある時は夫ともに嘆き悲しみ、また冷静沈着に提案してみせる。そして夫との最後の夜を過ごす。夫に甘え熱い愛をかわす。
夜が明け、その翌日にすべてが終わる。
今日にも明け渡さなければいけない誰もいなくなった屋敷で、良乃は夫の名を呼ぶ、いや叫ぶのだ。いるわけもない夫を探し回る。そしていなくなった息子の名を呼び(親友が養子として引き受けてくれた)、可愛がりまた慕ってくれた使用人の名を呼び慟哭する。あんなにも気丈だった良乃が狂人のように激しく慟哭する。
夏の世の 夢路儚き もののふの 晴れて行方の 西の雲の端
将軍愛用の弓を傷つけて蟄居を命じられた、三河以来の直参旗本、古田久蔵正成。その顛末。物語は想像の通りに進み、結末も予想を裏切らない落としどころに。なのに、あまりにも役者陣の熱量が高すぎて、目が離せない。武家の社会なので騒ぎ立てることもなく、淡々と振舞い、理不尽も受けいれる。「扇子腹」の申し出で侍の妻としての矜持をみせるのが、せめてもの抵抗だ。そこを美学と言い切るには、現代社会の感性からみれば随分とかけ離れてしまっているが、これがこの時代の常識なのだとこちらは襟を正さずにいられなかった。
さらに、ベテラン役者陣の存在感。「目立ちすぎ」ではなく、オーラ消し過ぎ。羽場裕一なんてまさか?まさか?と思いながら観てた。そして村上弘明のいやらしさ(褒めてます)。他人の命、他家の存亡などお構いなしの上役の憎らしさが上手い。そんなキャスティングが見事だった。
竹島由夏さん
若い世代の方にこそ観て頂きたい作品
理不尽さに抗する武士と妻
たかが弓を傷付けたくらいで切腹は無いだろーと言いたいところだが、将軍の弓と、それを預かる旗本の関係なので、当時としては致し方無いのだろう。泰平の世で緩んでしまった武家社会の内部統制の為の理不尽な沙汰。その中で抗う武士達。切腹させられる本人はもとより、その妻、息子更には奉公人までをも巻き込む理不尽な決定。最初から最後まで丁寧な作りで、緊張感を維持したまま最後に、たった1人残された妻の狂乱で終わる。悲しくも、当時、この様な理不尽に翻弄された武士達が数多くいたのだろう。良い時代劇です。
物語に望みなくとも観賞しての宝は豊か
たまにこういう救いようのない映画がありますね。物語は最後にはハッピーエンドにならないと興行にならない、という暗黙の了解がただの思い込みにすぎないと気づかされます。
時代が違うから今の価値で考えてはダメなのは当然。なので精一杯追従して『そういう時代なんだ』と受け容れていくのですが、それが無理な箇所があります。とくにしげの自害とか。
そうして溜まっていった消化不良の塊こそが「その時代と精神性」という理解で裡に描かれるのです。時代を越えて時代を理解できました。
これまで武士の精神はたくさん描かれてきましたが、侍の妻を通して描かれた武士の精神は少数派でしょう。この構成による私の気づきは『優しと厳しさは同居しえる』ということです。その対極にあるのは、いつかテレビでみた我が子のお弁当を過剰に彩っておもねる傾向にある現代の母の姿。
この他にも時代が違うからこそ浮き彫りにされる、時代をまたいで輝く生き様の美学が全編にわたって埋まっています。物語に望みなくとも観賞しての宝は豊かです。
骸に添えなかった扇子をみて箍が外れたよし乃の哀しみが、思考をかき混ぜてくれて幕となる。最後の解釈は観客それぞれにゆだねたのかな、と解釈しました。
振り返って一番よかった点が何かを探りますと、俳優さんたちの演技と全体に枠を与えた監督の力でしょうか。身分格差を息遣いの一呼吸ごと、立ち居振る舞いの一挙手一投足、そらには骨身にまで染み込ませた丁寧な演技と映像、それが映像の緊張感となって物語が深く心に入ってきました。
時代劇も日本語字幕がほしい世代
雨の日曜日 桜も散って路肩に模様の頃 昼さがり
しっとり落ち着いてみたくって、評価高いし、山本周五郎の時代が好きなので
期待して新宿武蔵野館行ってみた。
時代劇は 会話が 小声だし 武士言葉は元々聴きとりにくいから、
(侍タイムスリッパー みたいな、明快な分かりやすいコメディ とは違って)
字幕が、ほしいと思った。
ブルーピリオドの「 ごうどん」(千葉真一 息子)ほど、
セリフの聞きとれない奴はいなかったケド。
斜め後ろの白頭のおじさん ひたすら持ち込みお菓子に手を入れる音、噛む音 までまる聞こえ、
おまけに嚥下機能低下してるから 咳ばらいも時々、、。
大事なシーンの会話が かき消されちゃう。
ストーリーはひたすら地味、感動的シーンは 、、、。
頚動脈なら、血しぶき天井 屏風まで 染まったら 、と思ったけど海外出品意識か、
きれいにまとまっていた。
ラストシーン 空は茜色 「陽は落ちる」
こんな春の夜の雨の歩道、 人波の中、ちょっと濡れるのもよいかも。
2時間があっという間!
良乃役の竹島由夏の武士の妻の演技がとても印象に残りました。
武士の妻の矜持、夫婦愛、友愛を描いた作品だが、とても切なくて何度も泣いてしまった。
江戸幕府の直参旗本で書院番を務める古田久蔵は将軍の弓に傷つけ蟄居の身となってしまう。
蟄居中の久蔵は妻良乃、息子の駒之助と共に過ごしていたが、ついに久蔵に切腹の沙汰がおりる。
動揺する久蔵を武士の妻として潔い最期を迎えさせるべく気丈に振る舞う良乃。
侍タイムスリッパーのように多くの映画館で観られる映画になって欲しい。
超超超大傑作
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