「昨今、物語の中でさえ見なくなった「凛とする」美しさに打たれた。」陽が落ちる ふくすけさんの映画レビュー(感想・評価)
昨今、物語の中でさえ見なくなった「凛とする」美しさに打たれた。
文政十二年とは1829年
徳川家斉の時代(文化~文政年間(1804~1831年)
家斉は贅沢三昧の生活で幕府の財政を逼迫させています。
子供が55人いたと言います。
そして4年後の1833年(天保4年)、「天保の大飢饉」が起こります。
将軍家斉の横暴が続いていた時代の理不尽な切腹の通達。
伝兵衛が久蔵に切腹を告げる和歌は
「夏の世の 夢路儚き もののふの 晴れて行方の 西の雲の端」
西の雲の端とは西方極楽浄土を指すのでしょう。
これには元歌があり
「夏の夜の 夢路はかなき 後の名を 雲井にあげよ やまほととぎす」
柴田勝家の辞世の句です。
劇中で久蔵と伝兵衛が手本としていたものだと語られます。
将軍の弓の弦を切ったことによる死罪。
お武家様はなんと惨いことをなさる。
これが百姓の感覚でしょう。
良乃は武士の妻として
◯凛とする
◯取り乱さない
◯最後の差配を行なう
◯駒之助の養子話(自分から息子を取り上げられること)にためらう夫の前で即座にそれを受け入れ礼を言う。
◯取り乱す久蔵をたしなめ、夫の前では決して泣かない。
涙を落とすのは久蔵のほうだ。
この気丈な妻が夫のため扇子腹を申し出る。
夫婦の機微とはこういうものなのだろう。
凛とする、取り乱さないことの美しさに見ているものは背筋が伸びる。
その抑えつけた悲しみを思って観客の胸はキリキリ締めつけられる。
夫はこの妻無しには、おそらく武士の誇りを保つことはできなかったに違いない。
昨今、本音をいうこと、我慢しないこと、「私」の幸せを追求することが奨励されるが、そのなかで、この理不尽さに耐えることの美しさが、果たして世界に受け入れられるのだろうか?
これを理想像にすることに抵抗を感じないだろうか?
私の理性は、このようなブラック企業の言いなりになる必要も必然も正義もない!と言うが、私の感情は、良乃の凛とした美しさに溺れてしまう。
凛とする
このような人はついぞ見かけなくなった。
物語のなかでさえ。
最後、良乃が取り乱して泣く、救いだった。
貴重な映画体験となった
だた百姓の奉公人がなぜ死ななくてはかったのか?
私には説明がつかない。
美しいと思えなかった。
「百姓の奉公人」ことしずの自死については、今日の舞台挨拶での柿﨑監督と竹島さんの説明だと、しずに対する吉乃のモヤっとした嫉妬を演出するためのようです。冒頭の熱いお茶とところてんのシーンは、その伏線のようです。吉乃の心情は奥深いものがあります。