「「“生まれる”のではなく、“親になる”ために潜る映画」──8番出口が突きつける、責任と再誕の物語」8番出口 基本的に映画館でしか鑑賞しませんさんの映画レビュー(感想・評価)
「“生まれる”のではなく、“親になる”ために潜る映画」──8番出口が突きつける、責任と再誕の物語
正直、また“ゲーム原作の邦画”かと侮っていた自分を、恥じるしかない。
本作『8番出口』は、地下通路という閉ざされた空間を舞台に、人間の内面をえぐり出すような映像体験を用意していた。いや、それだけではない。これは一種の男性版「出産映画」であり、さらに言えば、父性という概念の“誕生”を描いた作品であると理解した。
作中、主人公(二宮和也)は、恋人との別れと妊娠という「逃れられない現実」と向き合うことになる。ループする地下通路は、明らかに胎内を模した構造であり、出口へ向かう彼の姿は「自分が生まれる」物語ではなく、「自分が父になる」通過儀礼のように描かれる。
注目すべきは終盤の濁流シーンだ。これは単なる演出ではない。破水のメタファーとして、父になることへの心理的限界突破=破綻を描いている。しかも、本来“上に向かうはずの”出口8が、まさかの「さらに地下へ続く階段」であるという構造的逆転。この瞬間、観客は気づく。
この物語において、「出口」とは救済ではなく、覚悟と引き受けの入口なのだと。
極めつけは、随所に現れる赤ん坊の存在。あれは「命の重さ」の具象でもあるが、同時に「見て見ぬふりできない未来」の象徴でもある。SNSのようにスワイプして消すこともできない、自分自身の“責任”としての赤ん坊。それを受け止めたとき、主人公は出口にたどり着く──この映画は、その一瞬の変化を、決して大仰にせず描き切っている。
川村元気の初監督作『百花』も親子の記憶と断絶を描いていたが、本作はよりプリミティブで身体的な“親子の起源”に迫った野心作だ。
一見ミニマルな設定に見せかけて、現代における「成熟」とは何か、「向き合う」とはどういうことかを問い直す、非常に豊かな作品ではなかろうか。
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