「物語主体からキャラクター主体へ遷り変わる是非」ズートピア2 hakujirowさんの映画レビュー(感想・評価)
物語主体からキャラクター主体へ遷り変わる是非
続編不要説まで浮上していた『ズートピア』の新作。
本作は前作に引き続き「差別」と「偏見」を根本のテーマに据えているが、その扱い方には大胆な取捨選択が施されており、この選択をどう解釈するかによって本作の印象は大きく変わるだろう。
今作のストーリーラインは大きく2つに分けられる。一つは、ゲイリーを中心とした哺乳類による爬虫類の迫害と、その背景にあるズートピアという世界の成り立ちについて。もう一つは、ニックとジュディの関係性の変化と進展である。
前作同様、マクロな社会構造の物語と、ミクロな個人関係の物語という二軸構成を取っている点は共通している。
しかし前作では、捕食者と被食者という対立関係がこの二軸を強固に結びつけ、社会の問題と個人間の問題をシームレスに往復することが可能だった。
それに対し今作では、二つの軸の間に明確な接続点が見出しづらく、それぞれが独立して進行していく印象を受ける。
物語は『ズートピア』の直後、ニックとジュディが前作での功績を認められ、正式に警察のバディとして配属された場面から始まる。
最初の、そして最も大胆な取捨選択がここにあり、前作で描かれた捕食者と被食者の対立構造が、既に解決されたものとして一切引き継がれないのである。
差別や偏見、それに起因する問題は、特定の事象を取り除いたり、何らか単発の解決によって完全に解消されるものではない。長い歴史の中で醸成されてきた価値観の集積であり、安易に解決可能なものとして、ましてや作中で経過した1週間程度の時間で消し去れるものとして提示することには違和感が残る。
その一方で、草食動物同士の異種間の不和が描かれるなど、取捨選択の意図が判然としない点も否めない。
こうした状況の中で、特にジュディは、自分らがこの問題を乗り越えた存在であることを証明するために、事件解決と実績の積み上げに躍起になる。
しかし前作でも描かれていた彼女の度を越した果敢さはここでも裏目に出て、両名は署内では次第に疎まれていく。
その最中、本来ズートピアに存在しないはずの蛇を目撃したことをきっかけに、二人は重大な事件へと巻き込まれていく。
ここで登場する蛇のゲイリー、そして爬虫類属全体の描かれ方にも本作の評価を分ける取捨選択がある。
ゲイリーおよび爬虫類属は一貫して無辜の被害者として描かれている。作中で彼ら爬虫類属は迫害されウェザーウォール内を追われているが、その原因もウェザーウォール開発者であるゲイリーの曾祖母の功績を巡り、それを奪わんとするリンクスリー家当主が殺人(殺亀?)事件を捏造したことに起因しており、加害と被害の構図は極めて明確に設定されている。本作はテーマを単純明快に提示するため、善悪を明確に分離することで物語の推進力を高めている。
しかし、差別や偏見の問題は本来、正誤で二分できない複雑な構造を内包している。そこにはゲイリーらのような「100%の被害者」という存在が事実上稀であるという側面も含まれる。
ゲイリーのCVがキー・ホイ・クァンであるというキャスティングに象徴性という意図があるとする場合、彼や爬虫類属に対して、観客が特定の民族や集団を重ね合わせる余地を持った存在として設計されていることが伺える。
だが、善悪二元論のアプローチを現実に安易に持ち込もうとすると、問題の単純化は解決を促すどころか、より深刻な形に歪曲してしまう可能性も孕む。この危険性を意識しなければならない。
この迫害が再びニックとジュディの活躍によって解決され、種族間に何の遺恨も残さず和解に至る展開は、前作の対立構造が引き継がれていない点も併せて、スタンスとして軽率に映る。
もっとも、こうした問題点がある一方で、商業映画としての完成度は非常に高い。ズートピアシリーズはディズニー作品であり、子供から大人までが楽しめることを前提に作られている。
前作はテーマに対して真正面から向き合った結果、内容を咀嚼できる年齢層を高めたことに加え、観客自身が作中からそれを発見する必要がある構造を取っていた。今作はテーマを単純明確にすることで、年齢や経験を問わず共通した教訓を受け取れる作りへと舵を切っている。その点において、本作はより多くの観客に響く作品になったと言える。この一点をもって、『ズートピア2』は成功作であると定義して差し支えないはずだ。
しかし、続いて浮かび上がる疑問は、これらの物語とニックとジュディの関係性の進展が、ほとんど結びついていない点だ。マクロとミクロ、二つの独立したストーリーを110分という尺に同時進行で詰め込んだ結果、それぞれが観客を十分に説得するだけの厚みを持てなかった、という印象が強く残る。全編を通してテンポは良好だが、その反面、不自然で強制的な展開が連続していることも否めない。
その兆候は物語の冒頭からすでに表れている。ゲイリーの真意が明らかになる以前から、ジュディだけが無条件に爬虫類属を信用し、ニックもまたこの問題に対して、前作で見せたような洞察力や問題解決能力をほとんど発揮しない。結果として、キャラクターの性格や特性が歪められ無理に整合性を取り繕っているような印象を受ける。
ニックとジュディのコミュニケーションについても同様で、前作と比較すると内容的に後退していると感じられる場面が散見される。とりわけジュディの衝動的かつ独善的な側面は、作劇の都合上、改善されるどころか誇張されているように映る。ニックの「この仕事に命を懸ける価値はない」という発言も、二人を仲違いさせるために趣旨が歪められた台詞のように感じられた(ただし、ここについては翻訳の問題である可能性がある)。
こうした物語やキャラクターの構築に、極めて人工的なコントロールの気配を感じてしまう点からは、取捨選択と簡略化の弊害が如実に伺える。爬虫類属の属性が単純化され、テーマに即した掘り下げが不足している点も、その影響の一つだろう。
終盤、ニックとジュディの不和が、映像的な必然性を伴わない言葉の応酬のみで解消される場面に至っては、個人的には脚本の敗北であるとすら感じた。
ただし、対象年齢を考慮すれば、あらゆるパートナーシップに応用可能な実例として提示されたものとも解釈でき、明確に是正すべき欠陥と断じることはできないが、そこに卓越性を見出せなかった、というのが正直なところである
もう一人、本作における重要な登場人物としてパウバートがいる。彼はリンクスリー家の御曹司という立場にありながら、実際には末席の扱いを受け家族からも冷遇されている存在だ。
集団やコミュニティから排除された者という点でゲイリーとリンクし、同時に家族に認められたい、一緒になりたいという「承認欲求」の面ではジュディとも重なる、複層的なキャラクター造形がなされている。さらに物語の進行上、ニックが逮捕され一時的に戦線離脱するタイミングで前面に出てくるため、ニックとの間にも微妙なコントラストが生まれている。
似た境遇を持つ者同士のシンパシーからか、パウバートはゲイリーおよびジュディに協力する立場を取る。彼らが共有する目的は、ゲイリーの曾祖母こそが真のズートピア創始者であり、殺人事件が事実無根であったことを証明し、爬虫類属全体に着せられた汚名を返上する証拠を掴むことだ。一見すれば、互いの利害と感情が一致した理想的な協力関係に見える。
しかし実際のところ、パウバートは「家族の一員として認められたい」という価値観にのみ固執しており、最初から2人を利用するために接近していた。そのためにジュディとゲイリーを裏切り、むしろ証拠を抹消することで自らの功績を示し、真にリンクスリー家に受け入れられることを選ぶ。
こうしたパウバートの悪役としてのデザインは、今作のテーマの単純化と取捨選択と非常に相性が良い。リンクスリー家が一貫して悪玉として描かれているため、そこに反抗する動機は十分に腑に落ちるものであり、ゲイリーやジュディに協力する流れも、想像ではあるものの、前述のシンパシーといった根拠を観客は無理なく作中から抽出し、これを受け入れることができる。いわゆる謀反という、馴染みのあるプロセスとして理解できる点も、物語として非常に親切だ。
同時に、他者を犠牲にしてでも自身の欲求を叶えようとする狡猾さと残忍さという、リンクスリー家に共通する悪の特性がパウバートにも付与されていることが明らかになる点も巧みである。ここにおいても彼の境遇や承認欲求は、非情な選択へと彼を駆り立てる動機として十分に機能しており、前項で問題として挙げた善悪の二極化が、ここでは彼の二面性というキャラクター造形と噛み合っている。
さらにパウバートは、ゲイリーとジュディが誤った選択をしていた場合の未来を示唆する存在でもある。彼らを分けたものがあるとすれば、それは能力の差ではない。パウバートはごく月並みの若者であるが、精神的に孤独な環境に置かれていた。その境遇ゆえに自己スティグマに陥り、他者よりもほんの少しだけ脆く、なおかつその心を支えてくれる存在を欠いていたのである。
ジュディやゲイリーのように、不撓不屈を貫き続けることは決して容易ではない。彼女らですら、友人や家族など何らかの存在が支えとなり、辛うじて倫理と道徳の上に踏みとどまっている。そう考えれば、友人や家族に恵まれない彼が道を外れずにい続けることが、いかに困難であったかは想像に難くないだろう。
今作の具体的なテーマに「異なる存在といかに共存するか」という点があるが、そこには必然的にアイデンティティの問題も含まれる。厳密に言えば、誰もが異なる存在であり、自己認識は多様な場面や他者との関係の中で、流動的に形作られていく。しかしパウバートは、家庭環境の影響によって「異なること」そのものに恐怖を抱き、それを肯定する強さを持ち得なかった。
最終的に、パウバートひいてはリンクスリー家の野望はニックとジュディによって挫かれる。権力者が自ら歪めた権力構造によって生み出された存在、今作ではゲイリーとパウバートによって滅ぼされるという結末は、現代社会にも見受けられる人間の愚かさを映し出すものだが、過度な断罪や嫌味な逆撫でがなく、丁寧に処理され提供されている点を評価したい。問題提起と事例を示しつつも、耳触りの良い形で着地させているのは、本作の中ではバランス感覚が光る部分である。
なお、ゲイリーが家族と再会した一方で、パウバートは家族と共に収監されることとなる。奇しくも同じ「家族と一緒にになりたい」という願いが、歪んだ形ではあるが叶った瞬間とも解釈できる。その点において、彼の行き着いた先は決して完全な破滅ではなく、かすかな救いの余地を残す結末となっている。報われてくれ!
ラストは、ジュディ宅の窓辺に鳥の羽が残され、つまりは鳥類が登場する続編の存在を示唆する形で幕を閉じる。
しかし今後、ズートピアシリーズに求められる要素は、より多く、より精密になっていくだろう。単話だからこそ許容されていた意図的な設定の空白や、不明瞭さが許されなくなっていくはずだ。その意味で安易な続編制作は、シリーズ全体の完成度をスポイルする可能性も宿している。
ズートピアシリーズは人間社会全体の擬獣化ではあるが、現実のすべてを投影しているわけではない。意図的に持ち込まれていない要素や、逆にズートピア独自の定義も存在する。それらの点と点を線で結ぶストーリーテリングが可能かどうか。そしてそういった製作上の不都合を克服して、再びテーマに真摯に向き合えるのかが、シリーズの今後を左右するだろう。
とはいえ、前作から9年を経た続編として、今作から新たにズートピアシリーズに触れる子供たち、そしてニックとジュディを心より愛するファンに対し、十分なエンターテインメントと教訓を提供したように思う。
かく言う自分自身も、これまでに羅列してきた諸点を一旦傍に置き、ニックが自室でピーナッツバターを肴にHuluを眺める何気ない一幕や、随所に挿入される名作洋画へのオマージュなどを素直に楽しんでいた1人である。
厳密な評価は 3.6 としたい。
私はパウバートがゲイリーを裏切るのでなく、ジュディやゲイリーの前に今一度"表返って"、自ら父親と対決するようなカタルシスある山場があればよかったのに…と思っていたんですが、父親と一緒に収監されることで救われる…という視点は見落としてました。
本当に「救われてくれ!」というのが今回で一番星を減ずるな…と個人的に感じております。
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