「細田守の不器用で愛らしい善意が溢れる作品」果てしなきスカーレット hakujirowさんの映画レビュー(感想・評価)
細田守の不器用で愛らしい善意が溢れる作品
退屈ではないが面白さを感じにくい映画である。
最初に細田作品全般について触れると、一貫して脚本に難があると言われ続けている。その脚本が破綻する様子を具体的に考えると、恐らく監督の中に描きたい映像や展開、伝えたいメッセージが先にあり、且つそれが何よりも最優先された結果、それらを繋ぐ過程においてキャラクターの言動や該当シーンに至るまでの進行に無理や強い作為が生じてしまう点にある。
さらに、これまでの細田作品の多くは現代の日本を舞台としており、その作為が私たちが普遍的に身につけている常識や倫理と大きく矛盾してしまう場合も少なくなかった。そのため、違和感がより強調され「脚本が悪い」「キャラクターが悪い」といった評価に繋がっていると思われる。
さて、今回の『果てしなきスカーレット』はそれらとは打って変わり16世紀のデンマーク王国、すなわち『ハムレット』の舞台設定をほぼそのまま導入している。冒頭でスカーレットが死に至るまでのストーリーもそれに倣っており、登場人物の名称も引用され、作中での役割も概ね共通している。
このほか随所に『ハムレット』や『神曲』、あるいは歌劇的演出を想起させる要素は散見されるものの、それらが作品を豊かにしているかと言えば疑問が残る。多くの場合、これらの引用は設定やストーリー、画作りの補強として機能しているにとどまり、ファンが期待したであろう哲学的論考や、本作の主題である「復讐」や「生死」への踏み込んだ考察には必ずしも直結していないように感じられる。
つまるところ、本作はシェイクスピアやダンテを履修していなければ理解できない、といった不親切で高慢な構造の作品では決してないことは強調しておきたい。意味不明さが生じるとすれば、別のものに起因するものだろう。
その要因は、大別すると情報量の多さとその処理方法にあると思われる。
本作の物語は早々に細田守オリジナルの死後の世界へと移行していく。そこは年代や場所、生死を問わずあらゆる生命が死後一様に落とされる荒廃しきった世界だ。
この世界には人類の誕生から有史以来、さらには現代を大きく超えた未来に至るまでありとあらゆる人間が集結するという、極めて壮大な設定が与えられている。しかし、そのスケールはあまりにも広大で、破綻なく成立させること自体が困難なレベルに達している。そのため、作品全体が自ら定めた死後の世界の構造設定に終始苦しめられているような印象を受けた。死後の世界にまつわる設定はあまりにも多く、その複雑さを監督自身も扱いきれず、結果として物語の内容に貢献していないように感じられた。
そこにキャラクターや人間関係といった情報がさらに加わることで、映画内に散りばめられた情報量は殆どパンク状態となっている。これらの情報をすべて等しく丁寧に扱おうとした反動として、ストーリーにおいて本来理解のために必要な時間や描写が省略され、唐突な展開の連続となってしまった。キャラクターの心情の変化もそれに合わせて急激になり、それにより行動原理の一貫性が失われ破綻しているような印象を強く残す。
さらに、引用されている『ハムレット』や『神曲』の文脈も、こうした脚本や設定のほころびに対するエクスキューズとして機能しているに過ぎないように感じられる。これらの点が、本作が低評価を受ける主だった理由ではないだろうか。
映画において、整合性やリアリティが必ずしも最重要視されるべき要素であるとは限らない。しかし、それが観客を魅了する魔法として機能しないのであれば、少なくともこの規模の設定は採用されるべきではなかったように思う。
一方で、本作において概して高く評価されている点は、やはり映像演出である。
確かに技術的な進歩は明確で、CGグラフィックはよりリアルになり、モーションキャプチャーを用いたアクションシーンも重厚さを増し、カメラアングルもより劇的なものになっている。しかし、個人的には、これらの進歩がそのまま作品の品質向上に結びついているとは感じられなかった。
前述の通り、細田守作品は常に評価が分かれるが、演出力、特にワンシーン至上主義とも言える瞬間的なダイナミズムについては、誰しもが称賛する氏の真骨頂だろう。では、技術の進歩によって本作はより強烈なダイナミズムを獲得したのかと問われれば、そこにはやや違和感が残る。
この違和感を説明するために、失礼ながらクリスチャン・ラッセンの絵画を引き合いに出したい。ラッセンのマリンアートは、イルカ、波、樹木などの各モチーフ自体は写実的に描かれている一方で、その配置や光源は極めて非写実的である。
まず画面の印象として、『果てしなきスカーレット』にも、これに近い構成を感じた。背景やモーションには写実性がある一方で、エフェクトや人物表現にはアニメ的な誇張が残っている。そのバランスが、先に挙げたラッセン作品における写実と非写実の関係に近いため、同様の感覚があるのだと思う。
ラッセンの場合、これは生物や自然をより幻想的、かつ理想的に描写するために意図的に選ばれた手法であり、それ自体を批判するつもりはない。しかし、本作で描かれる死後の世界は、幻想や理想とは程遠い荒涼とした場所である。そのような世界観において、幻想性を帯びた写実的描写は、むしろ作品のコンセプトと相反しており、結果としてCGが画面に馴染んでいないように感じられた。写実的描写=リアリズムではない以上、半端にCGをリアルかつ幻想的に寄せることは、かえって作品のテーマを毀損する恐れがあるのではないだろうか。
もっとも、すべてが不首尾に終わっているわけではない。理想郷として描写される「見果てぬ場所」や、スカーレットの心象世界における表現については、目的と技術が的確に噛み合っていたと言える。言ってしまえば、本項で指摘した点も、これまでの細田作品と比較しなければ、実は大きな問題として意識しなかった可能性が高い。この違和感については、私自身の感覚に要因があることも否定できない。
それでもなお、汗や涙、血といった液体表現からは、紛れもなく細田節が感じられた。良い部分はやはり非常に素晴らしく、その演出力が失われていないこともまた事実である。
続いて、件のダンスシーンについては巷で言われているほど意味不明なものではないと感じられた。
確かに、提示されるタイミングの唐突さやダンスそのものの絵面については、評価が分かれる要素であることは否定できない。しかし、あのシーンが挿入された意味、なぜダンスなのか、なぜ舞台が渋谷なのかという点については、一定の解釈が可能であると思う。
まずダンスについて考えたい。細田守は本作において、ダンスを最もプライマルな人類の友好の手段、あるいはその証として位置づけているように見える。
劇中では、スカーレットと聖がキャラバンに招かれ、しばらく行動を共にする。 その過程で聖は、彼らから楽器を教わり、食事を共にするなどして、次第に人々と打ち解けていく。そしてそのコミュニケーションの完成形として、最初のダンスシーンへ移行する。 そのダンスもペルシャ圏(と思しき土地)でアラブ系(と思われる)人種がフラダンスを踊るという、かなり大胆なパッチワークなのだが、それも含めダンスや音楽を媒介として異文化や未知の存在を相互に許容していく、極めて直接的な描写だと言える。
やがてキャラバンと別れ、再びスカーレットと聖の二人きりとなった場面で、聖はスカーレットに未来の歌を披露する。それを耳にした瞬間、スカーレットの意識は遠い未来へと飛躍し、渋谷のスクランブル交差点で聖と並んで踊る自分、恐らくは別の可能性を積み重ねてきた自分を示唆する姿を見る。
このような連鎖で、例のダンスシーンへと繋がって行った。
では、なぜ舞台は渋谷なのか。
渋谷の、とりわけ駅周辺は、ビジネス、娯楽、住環境といった要素が一挙に混在するきわめて雑多な都市空間である。交通のハブとして老若男女、あらゆる国籍や人種が行き交い、同時にカルチャーの発信地として多様な文化が集積している。その様相はまさに「scramble」すなわち混沌そのものだ。
新旧の価値観がせめぎ合い、多様な人間が流動する渋谷という場所は、混沌の現世を概念的に示す場所として、それを可視化するための直喩として引用されたように思われる。
現実においても、文化のある場所には必ず音楽や舞踊が存在し、それらはしばしば儀式的、すなわち祈りの性質を帯びる。劇中のダンスシーンに挿入される「祝祭のうた」の「祝祭」もそういった祭礼を指しているものとして、且つ好意的に取り入れられているように思える。
綺麗も汚いも、良いも悪いも、古いも新しいも、すべてを内包した場所であらゆる人間が一斉に踊るという行為は、ダンスに前述のような解釈を見出すならば、恐らくこれは世界平和を願う細田守の祈りとして読み取れるのではないだろうか。
最後に、本作の核心である「復讐」に対して、どのようなアンサーが提示されたのかについて触れておきたい。
結論から言えば、ここにもやや問題が残るように感じられた。
物語終盤、スカーレットは復讐相手であるクロ―ディアスのもとへ辿り着く。彼女はそこに至るまでの道程で、亡き父の「許せ」という一言の遺言を発端に、自身の決意を揺さぶられ続けてきた。激しい葛藤の末、スカーレットは「赦せ」という言葉が、他者ではなく自分自身に向けられたものであったと悟る。そして彼女は、「クロ―ディアスを許さないが、復讐はしない」という結論に至る。その選択は、最終的に聖のいる未来の世界において、争いの連鎖が起こらぬよう祈りを込めた決断へと繋がっていく。
父の遺言は、自分が処刑されてでもそれがこの国で流れる最後の血であるならば、それを赦せ。という性質のものだったとして、スカーレットはその意志を汲み、クロ―ディアスを討つことを選ばなかった。と解釈した。
ここで注目したいのは、スカーレットの復讐が、二つの側面を持っている点である。ひとつは「父を殺された娘」としての視点。もうひとつは「王女という為政者」としての視点だ。この二重の立場と、今回提示された回答とが噛み合いきらないことが、テーマの理解を阻害している。
例えば、復讐に固執するなという主張は理解できるにしても、クロ―ディアスは相当な暴君として描かれており、決して野放しにしてよい存在ではない。復讐の可否に関わらず排除されるべき思想の持ち主ともいえる。そのため「民を思うならば、むしろ殺すべきではないか」という疑念が生じ、先ほどの結論に対するノイズとして残ってしまう。
さらに、元の時間軸へ帰還したスカーレットは、武力ではなく対話を用い、友好と信頼によって平和を築くことを民に誓う。そして、それが可能かという問いに対し、彼女はできると断言する。しかしこの選択は、作中のスカーレットの地位や境遇だからこそ成立するものであり、現実の私たちには実現可能性を想像しにくい点が問題だ。
「それができるなら、そもそもこんな世界にはなっていない」と、スクリーンの前で感じた観客も多かったのではないだろうか。作中と同じスケールでアンサーを提示するのではなく、もう少し身近な落としどころが用意されていれば、と非常に惜しまれる部分である。
なお、クローディアスは死後の世界においては雷に撃たれ、現世においては自滅的に服毒して命を落とす。結果として、スカーレットの復讐は成就することになるが、ここについても物語上の必然より作為の色が前面に出ており、復讐劇としての緊張感や倫理的問いを弱めてしまっている。
ここまで長々と問題点を挙げながら、本作にそれなりの点数を付けたのは、この映画から、従来の細田作品に見られがちだった社会へのクレームめいた主張や、強引な曲解が感じられず、純粋に平和を願う善意が伝わってきたからだ。正直なところ、温いと言わざるを得ない平和観ではある。しかしそれをいい歳の大人に、ここまで真っ直ぐに提示されると「でも、もしかしたら…」と、わずかに夢を見る気持ちが芽生えてくるのもまた事実である。
厳密な評価点は2.8~2.9としたい。
文字数制限で書ききれなかった、スカーレット役を務めた芦田愛菜の演技について。
これは巧拙の問題ではなく、演技のチューニングの違いとして受け取った。
あくまで想像に過ぎないが、声優が声入れに臨む際には、基本的にフルコンディションであることが前提になるかと思う。日常的なボイスケアを行うなどの入念な下準備を経たうえで、万全な設備の整った環境で、最良の状態の演技を収録する。実際の演技内容がどうであったかは別として、芦田愛菜の声からはそうした状態の良さが感じ取れた。
一方で、劇中のスカーレットは文字通り泥を啜り、辛酸を舐め、極めて苛烈な環境と境遇の中で、それでも復讐という目的のために、地べたを這ってでも進み続けるというまさに臥薪嘗胆の只中を生きる人物だ。
果たして、そのような人間の喉からフルコンディションの声が発せられるだろうか。
このズレが観客が覚える違和感の正体なのではないかと思う。つまり問題は演技の善し悪しではなく、演技の趣旨の違いにある。
また、この点についてはセリフそのものも影響しているように感じられる。
細田守の書くセリフには具体的すぎる、説明的すぎるなど、何かと作為を感じさせる表現が多い。内容理解のために良かれと思ってそうしているのだとは思うが、その言葉の設計が前面に出てしまうことで、結果的に演技の質の問題へと転嫁されてしまっているのではないだろうか。
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