「果てしなきスカーレットの酷評をみて」果てしなきスカーレット tomさんの映画レビュー(感想・評価)
果てしなきスカーレットの酷評をみて
果てしなきスカーレットの酷評をみて
ただ、悲しくなる。
こんなに深い作品は、他に本当に無いのに
これに相対しない人が、
これほどに多いのかと
GPTと話し続ける。
戦いの業、死後の救い、
愛とは、赦しとは、許しとは、
魂の向かうべき方向、
求める魂の叫び、苦悩
聖書の一場面のような群衆の心
この許しを
自分を許すという
自己啓発的な視点で
捉えられることに、違和感を持つ。
GPTと話してた
段階0:許せない世界(スタート地点)
段階1:自分を責めるのをやめる(自己否定の解除)
段階2:自分の足で立つ(自立・責任を引き受ける)
段階3:愛と共に生きる視点(自分+他者+世界)
段階4:他者を赦す(相手の存在をまるごと認める)
段階5:魂レベルでの許し(祈りとしての許し)
段階6:善悪を超えた受容(すべてを抱きとめる愛)
キリストもブッダも段階4ぐらいの話はしている。
ごく稀だけど、段階3で生きている人を見る
そもそも、僕も含め多くの人は、段階0を
揺れ動いている。
そして、死後、霊の世界がわかるなら、
段階5-6の世界が理解できるのかもしれない。
善も悪もなく、愛は唯あるということ
物質の体では、たどり着けない境地
赦しとは、全てを包み込む存在
それは、人間的な赦しではなく、
当たり前の赦し、存在、構成要素
当たり前の事、
そう、つまりワンネスなのか?
そして、映画でも描かれていた
真の王は、死後の地獄にはいない
争いの輪廻、業からの解脱
奪う事ではたどり着けない
明け渡す、委ねる、受け入れる
その先に、答えがあるのか?
ガラスの階段、大学生の時に読んだ物語
ここで出てくるのか、って思ったけど、
そう、見えないものを信じれるのか
見えないからこそ信じるのか
そして、そもそも、信じることさえ不要なのか
自己存在の定義
自分は、体なのか、心なのか、魂なのか
それを、頭でなく、心でなく、魂で実感すること
知識でなく、知恵でなく、体感として、感じること
やっぱり、
深くて、優しくて、愛がある
最高の作品のように思えるけどなー
作り手の掲げたテーマは理解できるし今の時代に投げかけたのは確かに崇高で挑戦的とも言えるでしょうけど、それが物語として整合性のとれた形で観客に提示できておらず、かつ作品世界に引き込むような脚本になっていないから批判されてるのだと思います。
ただ、全ては王女の見た夢。
夢の中で時空を越えた死者に出会い、自ら問い、自ら答えを出した。
全て夢の中で王女の中で完結している物語だからこそ、気になりませんでした。
テーマ、主張は良いと思うのです。
それを語るための舞台作り、物語作りに問題があると言うのが、私を含め否定的なレビューを書いた人の主張です。
死者の国が時間を越えるなら16世紀以降の武力を持つ者がいないのは何故?
王の部下が勢揃いなのは何故?
どうやって城が作れた?
等々、気にならずに鑑賞出来たのなら、その秘訣が知りたいです。
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