平場の月のレビュー・感想・評価
全150件中、61~80件目を表示
物語はそれほど感心しないけど、芝居がいい
日本人は、美しい女性が病にかかる、という物語が好きなんだろうか。
『世界の中心で愛を叫ぶ』とか、余命何年とか、ナントカの花嫁とか。
宮崎駿の『風立ちぬ』だって、美しい婚約者が病死する。
本作は、二人が中年と言う点と、患っている病気が大腸がんという点で、新鮮味はある。
物語、セリフ、人物造形はやや類型的に感じがして、あまり感心しない。
中学生時代のエピソードも、ありきたりで、なんだかなあ、と思った。
・・・と文句を並べたが、この映画、最初から最後まで、心地よく楽しめた。
物語や演出は感心しなかったのに、何でだろうと考えると、井川遥と堺雅人の芝居が魅力的だった、という点に尽きる。
二人とも姿勢が良くて、とても50代には見えない。
ただ、必死に若作りしている感じもしないから、この映画の設定に馴染んでいた。
堺雅人は安心して見てられるし、井川遥は、こういう、さばさばした女の役もできるんだなあ、と感心。
それから、作中に二人のキスシーンがある。ここまで直接的じゃなくても良かったのに。
幸せな人生とは
埼玉県朝霞市。高卒バツイチ一人暮らしの印刷工の男が人生の黄昏を迎えていた。平凡な住宅街に平凡な日常。胃カメラ検査の結果にびくびくするどこにでもいるような平凡な50代。しかし、ある日の偶然の再会により、錆びついていた日常が滑らかに動き出す。出会ったのは、木造アパートに一人で暮らす50代の女。男の初恋の相手だった。多感な時期に母親に見捨てられ、頼れるものは自分しかいない。図太く生きていくしかなかった。妻子ある男を奪い、若い男に貢ぎ、一文なしで故郷へ帰ってきた女。心の支えは男との淡い恋の記憶だけだった。欠けた月の光が照らす中、再会した二人の心は次第に無垢だったあの頃に戻っていく。互いに夢も希望も失いかけていたが、何物にも代え難い存在になっていく。普通の街を舞台に人生の折り返しを過ぎた男と女のリアルを堺雅人と井川遥が生々しくもナチュラルに演じきる。人生を振り返ってあらためて噛みしめる本当の幸せとは何なのか、中高年の誰もが身につまされる物語。終盤、絶望に叩き落とされた男がヘラヘラと不自然な笑顔を浮かべ平常を装う姿が逆に切ない。かつて震災の被災地で家族を失い茫然と道に立ち尽くしていた人の表情を思い出した。人は心が壊れてしまうほど悲しい時、思わず笑ってしまう生きものなのだ。笑顔からの最後の瞬間に魂が揺さぶられる。
太すぎて
須藤は太すぎる。感情移入ができなかった。
幼少期の過酷な家庭環境があったとはいえ、その後の人生での破天荒さをみるとバチが当たったのかな?とさえ思ってしまった。一方で、青砥と須藤が過ごす日常のシーンはあまりにもありふれていてリアルで見ていて少し恥ずかしくなった。当方、堺雅人が大好きでこの映画を見に行きましたが、どこにでもいそうな中年男性の堺雅人がハマりすぎて井川遥の少し不安定な演技も気にならなかったです。でも元妻が吉瀬美智子、今カノが井川遥って!ここだけはさすがにリアリティがなさすぎたかも。すごく面白かったんだけど、もし青砥が堺雅人じゃなかったら同じように楽しめるか?と考えると少し微妙な気はしました。
日常にある運命を感じる事
ラストの自転車二人乗りのシーンを見て思った事。物語では中学生だった2人が好きだったから50代になって会えたように思えるかもしれませんが。
むしろ青砥と須藤は人生の後半でいずれ深く交わる事が決まっていて、だから中学生の時に出会えたのじゃ無いかなって感じ方もしました。
追記
映画では日常の生活のように淡々と日々が流れます
でも実は全然普通じゃ無い事が起きています。
運命って想像できない不思議なものです。
中学生の時にお互いに好きだった人と、50代になって、そしてそれは人生の終わりを見送り見送られるタイミングでの再会だと後で分かります。
青砥は日常から離れた旅行を企画したり記念日のネックレスを渡します。一方で須藤は「夢みたいな事だよ」と青砥との日常を夢見ています(と想像します)。
中学生の青砥は特別な人間になりたいと思い、一方で須藤は温かい日常家庭を求めています。
そして50代の再会をきっかけに、青砥は須藤と一緒にいることで毎日が特別な日々に変わり、一方で須藤は普通の温かな日々を手に入れます。
「一緒にいるだけでいい」
50代の恋愛はそんな感じなのだと思います。
実は何歳だってそんなものかもしれません。
自分も好きだった人の死を後で知った事がありました。聞いた時は驚きだけです。涙なんか出て来ません。堺雅人さんの演技そのものです。
本人は病気を教えてくれませんでした。しばらく連絡がつかなくなって、後で知りました。
彼女と歩いた風景 一緒に聞いた音楽 そんな一瞬に遭遇した時、もう彼女がいない事を実感して涙が出て来るのです。居酒屋で嗚咽する青砥の感覚はよく分かりました。
何で出会ったんだろう、どうして言ってくれなかったんだろう、ずっと呪いのように考え続けます。
でも最後に
愛して愛されていたんだな
きっと運命で自分は見送る事になっていたんだな
と思うようになりました。
最後は自分語りですいません。
何年生きたって涙の止め方は知らなくていい…
中学の同級生である50歳の男女がそれぞれ地元に戻り再会をするところから始まる物語
病院での再会というところが年代を感じさせる
そしてそこから2人は再交流を始める
中学生の時同様に苗字で呼び合う2人の焼き鳥屋のデートや家飲みにチャリの2人乗り
ファストファッションや家電量販店で購入した物に囲まれた慎ましい穏やかな生活…
ずっとずっと聞いていたい2人のとりとめのない会話が心地良かった
中学時代に須藤に恋していた青砥は彼女との再会に無邪気に喜び楽しむが家族を捨てた母親の様になりたくないとの思いから青砥の告白を断り中学生にしてすでに1人で太く生きて行く!っと誓っていた須藤は金銭的余裕がない事や自身の時折歯止めが効かなくなる恋愛事情も青砥に包み隠さず話す
そんな2人の温度差を感じながらもこの恋を見守りたいと思っていたのに…
何でもない毎日が愛しく輝かしい事だと改めて思えました
ラストは劇場が涙腺崩壊状態💦でしたね
主演の2人の好演はもちろんの事脇を固めるキャスト陣の普通感が秀悦!
鬼奴は声を聞くまで分からなかったし成田凌君も3度見位して気が付いた
中でも2人の恋を静かに見守る焼き鳥屋の主人役塩見三省さんの演技が印象に残りました
欧米に比べれば大人〜シニア世代の恋愛作品は
やや少なめかな?と思われる日本映画
中高年のラブストーリーへの裾野を広げてくれたようにも思えました
そして何よりも皆さん検診は必ず受けて下さい!自分の身体に過保護になって下さい!
素晴らしい映画ともっともっと出会う為にも
大腸がんサバイバーでもある私からのお願いです!
このタイミングで近々薬師丸ひろ子さんのライブに参戦します「メインテーマ」を聴いたら
きっと泣いちゃうなぁ🥲
タイトルなし(ネタバレ)
離婚後、地元の朝霞に戻り、印刷工場で働く50代の青砥(堺雅人)。
施設に入居させた母に月一回は面会に行くが、認知症が進行した母は都度「息子は死にました」と言う。
そんなある日、胃の具合がよろしくなく、内視鏡検査を受けた帰り、病院の売店で中学生時代の同級生・須藤(井川遥)と再会する。
互いに独り身。
互助会的な感じで旧交を温めることになったふたり・・・
といったところからはじまる物語。
中年の恋愛を描いた・・・というだけで、少々こっぱずかしいところ。
だが、「リリカル」な映画だった。
大林宣彦の尾道三部作の主人公たちが中年になったと言うか。
「まっすぐ」とも言える。
ふたりのあいだには、「かくしごと」はあるが、「嘘」はない。
50年も生きてきたのだから、隠したいことなど、山ほどあるはず。
その多くを、ふたりは本音としてさらけ出す。
たったひとつのことを除いて・・・
最後に描かれる青砥の号泣。
フェリーニ『道』のザンパノの慟哭が脳裏を過った。
薬師丸ひろ子が歌う「愛って よくわからないけど 傷つく感じが・・・」の歌詞が沁みる。
50年生きて来ても、知らないこと、わからないことは多い。
途中、驚くショット繋ぎがあった。
思わず、息をのんだ。
感嘆したそれは、
中学生時代の青砥が須藤の家庭内いざこざを目撃し、逃げる須藤を青砥が追うシーン。
中学生時代のふたりは、現在須藤が暮らすアパート傍の橋を駆け抜ける遠景。
橋の中程に青色の人影が写っている。
切り返しのバストアップショットで青色のコートを着た須藤が写される。
中学生時代の青色の人影=現在の須藤、という文法。
さりげないショットの繋ぎなのだが、こういうあたりにリリシズムを感じる。
物語を超えた詩情のような映画の文体。
付け加えると、塩見三省演じる焼き鳥屋の親父の、ほとんど動かず無口な姿は、『さびしんぼう』の主人公の父僧を思い出しました。
評価は、★★★★★(5つ)としておきます。
物足りなさだけが
堺さんて笑ってるときも泣いてる時も怒ってる時も目元の演技がどれも同じなんですよね
日常感はあるけどエンタメとして観たら話も単調で盛り上がりもイマイチ ラストのオチも予想がついたので星2つ
中村ユリさんの出番をもっと観たかった
次の一歩を
中年期に降りかかる家庭問題・健康問題の苦悩を抱えた二人が再開し、互いを必要としていく。2度目の青春などという甘酸っぱいものではなく、先読みのできる大人だから現実を考える。覚悟を決めた青砥とそこに甘えてはいけないと独りを選ぼうとする須藤。それでも心では月を眺めて夢のような未来を望む…
須藤の家庭環境の特異さや中学時代の2人の特別な交流は映画ならではだが、大人の2人のやり取りは簡素で真実味があった。それだけに最後の青砥の慟哭への見せ方はよかった。ただ全体的に胸に迫るというより頭で捉える映画で終わってしまった印象。
願わくば、青砥の悲しみで映画を終わらせるのではなく次の一歩を見せてほしかった。だって救いがないじゃないか…。救いを見出すとすれば、ボリュームをあげた大将の優しさだろうか。優しい人は必ずいるという希望なのだろうか…
それにしても塩見三省の役どころはズルい。
朝霞台の方に戻ろうって言ったね
この人参のオブジェはまさに朝霞台ですよね
こんなにフォトジェニックに撮ってくださって、さすが映画です
あの川の風景、水門も、見たことある気します
わたしがこの舞台(東上線)のその辺出身だし
年代も主人公達と近いし
ちょっと!いま親の介護で帰ったりしたら…イヤ、起きんだろう。そもそも中学の頃の繋がりや、中学の頃にこんな恋の芽を撒いてない。
ありそうで、なさそうなストーリー
今で言うクラスカースト上位?の、男女交際してたグループならこんな展開もアリか?しょぼいようで…素敵すぎる話です。
「意外と尽くすタイプ」とお茶目に言い放って料理する堺雅人たまらん 「一緒になろう」って古風な感じのプロポーズも良いぞー お互い2回目じゃ「結婚しよう」より、なんか良い。
ただでさえ癌で体が辛いのに、好きな人から離れてるとゆう精神的な辛さ。しかも後者は彼のためだと、自ら選んでる。どこまで太いんじゃ⁉︎
それで良かったのか?
再発を告げたら、尽くす彼のことだから、ほんとに自分と結婚して尽くすだろうと…見越して、そっちね。
無口で芯の強い女性です。美しい。
人生の折り返し地点を迎えた世代に刺さる青春恋愛映画
いや〜ホントにいい映画でした。
主役の堺さん井川さんの演技もさることながら脇を固める演者さん達がいい味出してます。
特に焼き鳥屋さんのシーンが実に良い。塩見さん痩せて心配になるけど温かい気持ちにさせてくれまをす、近所にあったら通うのに。中学時代と
日本の現状をありのままに、高卒で町工場勤めであったりパート勤めで経済的に苦しかったり、親の介護問題だったり、バツイチだったりと現代社会を真摯に映し出して決して綺麗に恋愛映画にせずお互いにキズもあり、ありのままをしかも観るものにも起こり得る生活、恋愛をストーリーにしてて映画として好感が持てます。
中学時代の回顧シーンも無駄がなくて現在に繋がってたり思い出させたりと実に巧みです。
何よりも大腸がんから人工肛門、ストーマを装着しなくてはならない、それに悩む様を実にリアルに包み隠さず描かれていることに驚きとこの映画が現実とかけ離れていない実にリアルで良い映画です。
誰もが中学時代や高校時代の恋愛事情や友情を思い出すだろうし、現在はどうしてるんだろうかと懐かしむでしょう。
人生百年時代の半ばを過ぎた男女二人の、中学時代の出会いと数十年後に再会してからを描いた大人の恋愛ストーリー。ただ甘いだけでなく年齢を経た分ビターかも。
TV番組でこの作品を紹介しているのを見まして
その中で堺雅人のことは、かなり評価しておりました。
大河ドラマ「真田丸」で真田信繁役を演じてたなぁと
やや遠い目モードになりつつ、この作品観てみよう
という気持ちになり鑑賞。・_・デス
” 大人の純愛 ”
勝手にそうイメージしながらの鑑賞です。
爽やか …かなぁ
◇
主演は二人。中学の同級生。
青砥(堺雅人) 妻子あるも離婚。離婚後地元にUターンし再就職
須藤(井川遥) 妻子ある男と略奪婚。後死別。財産を燕に貢ぎ…
検診で病院に来ていた青砥。
病院の売店でレジ打ちバイト中の須藤とばったり遭遇。
軽く再会の言葉を交わし、何もなく… 終わりません。あら
須藤のバイト終業時間まで、外で待ち伏せる青砥。あらら
折角の再会。この後も、定期的に会わないか?
そう須藤に持ちかける青砥。
互助会みたいな感じで。愚痴を言い合ったり。
いいわ と首を縦にふる須藤。
場末の居酒屋で焼き鳥をつまんで。
流れてくる曲のタイトルが分からなくて。
薬師丸ひろ子 と教える店のオヤジとも
意気投合するようになって…。
やがて健康診断の結果が。
ポリープが良性と分かり、須藤に伝える青砥。
自分が結果オーライだったものだから
須藤の検査結果も問題無いだろう と
ややうかれ気味に軽い気持ちで訊く青砥だったのだが
須藤の方の検診結果は…
さあどうなる二人の関係
と、いうお話。 …うーん
◇
中学時代の二人の出会いの頃からの回想シーンを交え
二人の繋いできた過去と未来を描いたお話でした。
確かに大人の恋愛ドラマだったと思います。
中で描かれたのは、単なる恋愛ではなく
もっと複雑な感情のからみあう姿。
一見の価値のあるドラマでした。
観て良かった。
◇
心の中にくすぶっている埋み火が、
幾歳かの時間を経て再び燃え上がる男女の物語。
自分が当事者だったり
当事者のパートナーだったり
身近にそんな人たちがいたり …と
そんな人の心には刺さります きっと。
私には刺さりました。 サクサク
とはいっても私は
青砥や須藤よりも少し(…かなぁ)
上の世代ではありますが。
大切な人が、指の間からこぼれ落ちていく喪失感。
それを感じる機会が増えてきた気がします。 嬉しくない…
中学生のときも
再会した現在も
自転車を二人乗りしている瞬間が、ドキドキして
幸せな時間だったのかもしれない
最後の場面は…もう
あの場面で あの曲が流れるのはなあ…。(涙)
◇最後に
薬師丸ひろ子さん。
役者としても好きで、歌手としても大好きです。
なので、
思い出の曲として薬師丸ひろ子の曲が流れるのは
嬉しいのと同時にそんな昔の人じゃないのにさ と
ちょっぴり複雑な気分にもなりました。
そんな時には機関銃をぶっぱなすしかない です。
か・い・か・ん♪
☆映画の感想は人さまざまかとは思いますが、このように感じた映画ファンもいるということで。
悲しい
新しい人生を2人で歩んで欲しかったなぁ
あとみなさん、井川遥と堺雅人が普通の人っぽくてよかった?おばさんとおじさんに見えた?
冗談は辞めてください、あんな綺麗な50代、自由が丘や田園調布で、たまぁに見るかな?くらいです。朝霞にはいません(朝霞を批判しているのではなく)ていうか、ほとんどの場所にいません。笑
唯一、堺雅人のキスシーンはおじさんらしく、ちょっとグロく感じたので、ああ上手い役者さんだなぁと感じました。
二度と戻れない月が満ちていた日々
昔、中年の恋愛ものや不倫ものがどうにも受け入れられなかった。原理が理解できなかったのである。しかし、自分の年齢が中年を過ぎて、なんとなく理解が及ぶようになってきた。本作もそうで、抗えない病気や性愛や嫉妬や諦めなど、随所で共感してしまう。おそらくもうこれ以上ない幸せな日常から、死へ淡々と過ごす日々。月の満ち欠けが人生の終焉を意図していそうで、映るたびにちょっとずっしりくる。そしてエンディングの星野源に泣かされる。
ストーリー展開は想定内だったけども、現在と昔日とのコントラストが痛々しく、結末が分かった上で見せつけられるピュアな情景がなんとも美しかった。よくある手法でもあるが、少し違うのは現在のパートも、くたびれた中年が寄り添う姿も、それもまた、美しいとも思った。愛おしい、かもしれない。切なくも不思議と多幸感が溢れる。堺雅人と井川遥だからこその空気かもしれない。
ところで映像の作りがここ最近では好みの絵になっていた。夜でもぱきっとした描写で、コントラストもはっきりしている。色調も良い。東京の空気がよく表現できていたと思う。
何か、切実さが・・・感じられないんだよね
痴呆症の母親に、人工肛門(ストーマ)の彼女。
介護に医療とこの映画の客層に刺さるキャッチーな問題を扱っていながら、描写はあっさり。
淡々と諦念と。それでも終わらない日常は続く。
久々の恋心で日常が色付いたのなら、対称的に母親に暴言を吐かれる・ストーマでの失敗など厳しい現実を何かしら上手く描写してほしかった。
須藤がしばしばトイレで悩んだり、スーパーで匂いを気にするカットは悪くはないがもう少し現実的に腹部の着用カットを挟むなり「逃れられない現実」を示した方が、「それでも一緒にいたい」という青砥の覚悟が伝わったと思う。
正直、この映画を見るまでストーマの事など詳しく調べる事もなかった。
ラッパーの漢さんが装具を付けた動画を過去に見た記憶がある。
原作の描写がどうかは不明だが、映像化にあたってこういう問題の核心をぼやかしてエンタメの背景に安易に使用してしまうのはどうなのだろう。
それこそ須藤の言う「こんなのまるでファンタジーだよ!」って感じがした。
後になって最愛の人の死を知らされるという似たような経験がある身としては、このあっけないオチの展開は共感ができた。
自分は久々にメールした携帯に下手な入力間違いのようなものが返信されて。
後でそれが慣れない携帯を使用して返信した彼女の母からのものだと知った。
・・・と、不満な点はあるがこの地味ーな堺版「パーフェクトデイズ」もキャスティングが上手いので飽きずに見ていられた。
エンディング、脳出血の後遺症で麻痺が残る塩見さんがオーディオのボリュームを上げるアシストが印象的だ。
ふと・・・盲目役の夏帆さんが牛丼を口にして涙を流す「箱入り息子の恋」を思い出した。
*蛇足になるが、月が合成なのはやっぱり萎えるぜ。
人生の後半戦を迎えた大人たち
結婚や離婚、親の介護、病気、離職。多くの人生経験を経た50代の男女が、その再会を通じて、得た「平場」の日常を、淡々と描いているという印象。起伏があまりなくオフビートで、ドラマチックな演出はないのだけど、不思議と2時間退屈することはなく(日本映画らしい良さがあって)、最後まで観ていて心地良かった。
テレビではヒーロー然とした役の多い堺雅人が、少しガサツで飄々とした「普通のおじさん」を演じるのが新鮮で見応えがある。
終始感情を抑えた(個人的には別れのシーンでは少し物足りないかなとも感じた)井川遥の演技も、その生い立ちと「太い」心を持った役どころからすると、それも納得がいく(その伏線として、男のために子どもを捨てた母親の存在と自分もその業を引き継いでいるというトラウマがあると考えれば)。
「50代になってそれはない」と宅飲みの誘いを躊躇する台詞。
別れを告げられて、一旦トイレに入って気持ちを落ち着かせてから冷静に説得する妙なリアルさ。
死を知らされたときの驚きと、その事実を淡々と、まずは頭で理解しようとする表情。咳を切って流れる涙。
青春時代の思い出。流れてきたあまりにも多くの時間。それでも誰かと共に生きる時間の大切さ。そんなことを感じられる映画でした。
(エンドロールの星野源の書き下ろし曲が染みます。)
人生の黄昏時、傷つくことさえ愛おしい「大人の遊び場」
愛って何だろう、と問いかけても明確な答えなんて見つからないけれど、この映画を観ていると「傷付く感じがいいね」と素直に思えてくるから不思議だ。それはあまりにも青春だし、けれど決して青臭くない、熟成された痛みがそこにある。
スクリーンに映し出されるのは、人生の折り返し地点を過ぎた男女の物語。かつて中学の同級生だった二人が、再会し、不器用に距離を縮めていく様は、まるで『花束みたいな恋をした』のシニア版のようでありながら、もっと切実で、もっと静かだ。
**晩年感と告白欲、そのちょうど良さ**
物語全体に漂うのは、心地よい「晩年感」だ。もう若くはない、けれど枯れ切ってもいない。「告白欲」とでも呼ぶべきか、誰かに自分の中身をさらけ出したいという渇望が、ふとした瞬間に漏れ出す。その温度感が、なんかちょうどいい。
主人公たちのやり取りを、まじろがずにみる。彼らの視線の強さ、言葉の端々に宿る「太い」感情の奔流。特にヒロインが見せる、あの「気の強い跳ねっ返り」のような態度は、人生の荒波を乗り越えてきたからこその強靭さと脆さが同居していて、胸を締め付ける。
**私の菜園、そして残された部屋**
劇中に出てくる「私の菜園」という言葉は、単なる物理的な場所ではなく、心の聖域のメタファーのようだ。誰も踏み込ませたくない、けれど誰かに見てほしい、そんな矛盾した場所。
「死ぬまではここで生きてくんだって思ったから、残された人が片付けやすい部屋にしておくの」。そんな台詞が、日常会話の中にふっと混ざる。病気、介護、子育て——それらすべてを経験し、あるいは横目に見ながら、彼らは「終い支度」を意識しつつ、今を生きている。「私も沈みそうになったことあるよ」と、観客自身の記憶さえも呼び覚ますようなリアリティがそこにはある。
**平場とは? タイトルの意味を噛み締める**
タイトルの『平場の月』。「平場(ひらば)」とは、博打用語で特別な席ではない一般の客席や、あるいは建設現場などの平らな場所、転じて「ごく普通の場所」「日常の地平」を指すことがある。
特別なステージではなく、泥臭い日常という「平場」から見上げる月。それは決して完璧な満月ではないかもしれないが、どこか優しく、そして残酷に美しい。彼らにとってのこの恋は、「昔できなかったことをしよう」という、人生最後のご褒美のような「大人の遊び場」なのかもしれない。
**たった一個の価値**
「夢みたいなことって何?」と問われれば、それは劇的なハッピーエンドではないだろう。ただ、隣に誰かがいて、その体温を感じられること。「たった一個がいいんだ、だから価値がある」。多くのものを失ってきた彼らが掴んだその「一個」は、あまりにも尊い。
物語の後半、ある場面で「それ言っちゃあかんやつ」と思うような決定的な言葉が放たれる。親を許せない自分を軽蔑し、そういう自分が大嫌いだと吐露するシーン。その痛々しいほどの人間臭さに、私たちはどうしようもなく共鳴してしまう。
この映画は、傷つき、傷つけ合いながらも、平場で生きるすべての人への賛歌だ。見終わった後、夜空を見上げれば、いつもより少しだけ月が美しく見えるかもしれない。
おセンチな年頃、もう年末ですねぇ。
大人の恋だねぇ〜なんて聴こえてくる作品でしたけど………
完璧やね。完璧。
脚本も演者も流れる風景や空気感に音も。
ここまで隙がないとため息が出てしまうね。
台詞のひとつひとつやエピソードに出逢いに別れ………。
そんな中で迎えた恋心。
切なさが残る作品です。
ジーンときましたけど………観る側のタイミングによりますね。
他のレビューとかにありましたが泣きたくてとか涙溢れてとか人それぞれです。
でも作品自体は『平場』なんです。
結局病気や死を簡単に使って泣かせる映画は安易で辟易してくるなんてレビューもありましたが当たり前です。
『平場』はありきたりなんですから。
自分の身近な人とか自分自身とかが病気や死に直面しない限り他人事でありファンタジーや言い伝え程度の都市伝説と思える人もいるでしょう。
ですが死に関しては今のところ全人類に平等に起こる現象なんです。
確かに死を出汁にして御涙頂戴な映画にドラマに文学にとアホほどありますが。
この作品に関しては少なからずとも死と言うよりも出逢いに別れに願いに未練にと人生におけるいろんな儚さを表現していますね。
ラストシーンは『死』にぶち当たった人なら共感も実体験もある悲しいのに泣けない。スイッチが何処なのか?何なのか?思考も感情も行動も何もわからなく記憶もないほどになってしまう。
まるでパンパンな水風船を小さくて細くて見えない針で刺されたように一気に弾けて溢れてしまいます。
でもその時に肩に手を添えて慰めるのではなく嗚咽を他の人に気づかせないようにそっと有線のボリュームをあげた焼き鳥屋の大将。泣きたきゃ泣け。思い切り泣け。月に届くまで泣けと。
須藤は『月』なんだね。
みんな空を見上げる事も少なくなり忙しい人生に身を委ね、いろんなことが離れ区切り身体の変調などでぽっかり穴が開いたときに見上げた夜空に浮かぶ月。
自分はさておき青砥の健康とこれからを願い、いつも何処かで見守っています。と
私的には登場人物の距離感がどれも絶妙なのがウケる。
葬儀の時に元嫁の察した表情と何ともいえない3人の間が1番かな。
15歳のままの彼女、50歳の今の自分
主人公たちだけを見れば大人の恋とかすれ違いとか言い方もあるが、「平場の月」というタイトル自体が何か人生そのものを示しているようでとても切ない印象の映画だった。
この映画を観ている自分はすでに50代で、主人公たちよりは少し年上。ただ地元で中学校時代の友人に偶然会ったり、またそのころの旧友とつながりがあったり、親を介護する現実や、結婚や離婚、病院や葬式、成人した子供たちなどの風景は、リアルというよりは見慣れたもので、特に映画で観たいものではない。どちらかといえば、ああ、50代ってこういう会話や絵が人生でも繰り返されるんだな、と。
ただ中学時代好きだった相手を名字で呼ぶようなままで偶然出会う、ということは何かちょっと引っかかるものがあり、この映画では特に須藤のキャラクター設定が、少し変わっているところがポイントなのだと思う。
須藤は、15歳のころからどこか「太い」芯があり、「ひとりでいきていく」という考えをもっていた。この彼女の孤独さというか、不可解さ、男が自由にできない何か、その言葉遣いから態度まで含めてこの映画の魅力の一つだろう。特に中学時代の彼女を演じた一色香澄の雰囲気が独特だ。
この須藤というキャラクターの他を寄せ付けない感じは、彼女の母や家庭環境が原因なのかもしれないが、だからといって青砥をそこまで拒否する理由にはとてもならない。それは井川遥演じる大人の須藤も同じで、略奪婚や若い子に貢いだ経験を経ても、どうして孤独を貫くのか不可解だ。
青砥はそういう意味では、最後まで須藤にとっては中学生の時の彼のまま、大人の関係になったとしても、永遠に中学時代の二人乗りをした想いの先の人物、川辺からいっしょに平場から眺めた月のままだったんだろう。だから一緒に最後を迎えるのではなく、「合わす顔がなかった」のではないか。メインテーマの歌詞の通り、「愛ってよくわからないけど、傷つく感じ」だった。
最後のシーンはやはり15歳のときの彼女と彼だ。いっしょに笑いあったときが永遠に懐かしい。50歳のいまの涙を流している自分とは、どうしてこうなったのだろうか。ひとつだけわかることは、今自分の隣に彼女はいなくなったということだけ。
カレンダーの◯
井川遥さん演じる須藤はサムライのような人だ
もっと淡いものを想像して観に行ってきたけど
冒頭から漂う何か嫌な不安が
あっ!これは誰かが何か失うやつだと感じ
最近は物語とはいえ人のツライ話観たくないなと日々思っているので瞬間地雷を踏んだ感覚だった
それでも鬼奴さん、でんでんさん、大森南朋さん達の何気ない会話の中に沁みる言葉があったり須藤や青砥の不器用なやり取りを観ていると自分が物語の中に入っていくのがわかった、これは良い映画だと感じつつ
迫りくる終わりと薬師丸ひろ子「メイン・テーマ」が流れ出した時
隣に座り唄う須藤の背中姿が浮かび
あんな何気ない日常がこれほどまで恋しと思えて涙が止まらなかった
なぜ好きと言わなかったのか、須藤の家庭がああじゃなければ、1年と守らず会いに行っていたらと映画が終わってもタラレバが尽きない
でもこんな二人だから惹かれ合ったんだよね
互いのカレンダーにつけていた◯は
月のようで須藤はこの◯を見つめ何を思っていたのかと考えてはやりきれなくなってしまいます
そうなのだろうか?
中学生時代の初恋の二人は、今は別々の人生を歩みそれぞれ一人で暮らしている。そんな二人が50歳になって偶然再会する。青砥(堺雅人)と須藤(井川遥)の二人は静かに距離を縮めながら恋に堕ちていくが、須藤は癌が発症して亡くなってしまう。ストーリー的には目新しくはないが、金持ちではなく質素でごく普通の日常的なスチュエーションの中で大人の二人が距離を縮めていく過程は心に沁みて、中学生時代の彼女を思い浮かべてしまった。それはともかく、癌が発覚し自分の死を意識すると別れ(絶縁)を切り出してしまうストーリーにしたのはナゼだろうか?現実世界では、大人であれば愛する相手のことを想えば最期まで頼ることでお互いに納得して死を受入れるのではないのか?作品上のストーリーとして相手への思いやりや日本人的な美学を表現したのかも知れないが、リアルな世界感の中で死に直面した二人の哀しみや刹那さと向き合い全うして行く時間を表現した方が現実的な重みが伝わると思った。それとも、ラストシーンでの青砥の哀しみや悔しさに充ちた表情によって、黙って亡くなってしまうことを反面教師として描いたのだろうか?
全150件中、61~80件目を表示
映画チケットがいつでも1,500円!
詳細は遷移先をご確認ください。











