平場の月のレビュー・感想・評価
全384件中、161~180件目を表示
本質的に違いすぎるふたり
偶々予告編をみて気になり、観に行きました。
舞台が埼玉県で河川敷や団地やスーパーなど「平場」を思わせるスポットが多く、出演者も一流で華がある方々なのに庶民的のような芝居や演出はお見事。
これはさまざまな角度からの見方ができる映画です。
自分は映画をみていて青砥と須藤は本質的に分かり合うのは難しいかもと思いました。
須藤はものごころついたころからおそらく頑なで平場になじめず生きる上で疎外感がベースにありる。気持ちは尖りきっていて決して「太い」わけではないのです。
青砥は逆に程よくぬけていて平場で上手くやっていける器用さがあり、周囲の人にも恵まれそんなに大きな挫折もなかったような雰囲気を併せ持つ。
「青砥は丁度良い」と須藤がいうのはこのあたりからきているようにも思います。
須藤にとっての青砥はおそらく「全身を武装したままでも呼吸できる相手」近すぎず遠すぎず、心が軋まない距離感まさに「スープの冷めない距離」の延長線上にある存在なのかもしれません。
須藤はほんとうは愛が欲しいけれど、愛を手に入れることにはまた苦しみがつきまとうと理解している。「夢みたいなこと」を見たあとでも、現実に戻れば自分が越えるべきものがまだ残っているとうすうす勘づいている。なので踏み込む勇気がないし、委ねられないのではないでしょうか。
須藤と青砥、平場において二人の微妙な距離感を月の満ちかけ具合で描かれている丁寧な作品でした。
人生の黄昏時、傷つくことさえ愛おしい「大人の遊び場」
愛って何だろう、と問いかけても明確な答えなんて見つからないけれど、この映画を観ていると「傷付く感じがいいね」と素直に思えてくるから不思議だ。それはあまりにも青春だし、けれど決して青臭くない、熟成された痛みがそこにある。
スクリーンに映し出されるのは、人生の折り返し地点を過ぎた男女の物語。かつて中学の同級生だった二人が、再会し、不器用に距離を縮めていく様は、まるで『花束みたいな恋をした』のシニア版のようでありながら、もっと切実で、もっと静かだ。
**晩年感と告白欲、そのちょうど良さ**
物語全体に漂うのは、心地よい「晩年感」だ。もう若くはない、けれど枯れ切ってもいない。「告白欲」とでも呼ぶべきか、誰かに自分の中身をさらけ出したいという渇望が、ふとした瞬間に漏れ出す。その温度感が、なんかちょうどいい。
主人公たちのやり取りを、まじろがずにみる。彼らの視線の強さ、言葉の端々に宿る「太い」感情の奔流。特にヒロインが見せる、あの「気の強い跳ねっ返り」のような態度は、人生の荒波を乗り越えてきたからこその強靭さと脆さが同居していて、胸を締め付ける。
**私の菜園、そして残された部屋**
劇中に出てくる「私の菜園」という言葉は、単なる物理的な場所ではなく、心の聖域のメタファーのようだ。誰も踏み込ませたくない、けれど誰かに見てほしい、そんな矛盾した場所。
「死ぬまではここで生きてくんだって思ったから、残された人が片付けやすい部屋にしておくの」。そんな台詞が、日常会話の中にふっと混ざる。病気、介護、子育て——それらすべてを経験し、あるいは横目に見ながら、彼らは「終い支度」を意識しつつ、今を生きている。「私も沈みそうになったことあるよ」と、観客自身の記憶さえも呼び覚ますようなリアリティがそこにはある。
**平場とは? タイトルの意味を噛み締める**
タイトルの『平場の月』。「平場(ひらば)」とは、博打用語で特別な席ではない一般の客席や、あるいは建設現場などの平らな場所、転じて「ごく普通の場所」「日常の地平」を指すことがある。
特別なステージではなく、泥臭い日常という「平場」から見上げる月。それは決して完璧な満月ではないかもしれないが、どこか優しく、そして残酷に美しい。彼らにとってのこの恋は、「昔できなかったことをしよう」という、人生最後のご褒美のような「大人の遊び場」なのかもしれない。
**たった一個の価値**
「夢みたいなことって何?」と問われれば、それは劇的なハッピーエンドではないだろう。ただ、隣に誰かがいて、その体温を感じられること。「たった一個がいいんだ、だから価値がある」。多くのものを失ってきた彼らが掴んだその「一個」は、あまりにも尊い。
物語の後半、ある場面で「それ言っちゃあかんやつ」と思うような決定的な言葉が放たれる。親を許せない自分を軽蔑し、そういう自分が大嫌いだと吐露するシーン。その痛々しいほどの人間臭さに、私たちはどうしようもなく共鳴してしまう。
この映画は、傷つき、傷つけ合いながらも、平場で生きるすべての人への賛歌だ。見終わった後、夜空を見上げれば、いつもより少しだけ月が美しく見えるかもしれない。
キラキラしていないところがこの映画のいいところ。
主人公たちと同年代です。
まず、大俳優と大女優なのになんでここまで普通のおじさん、おばさんを演じられるんだろうと、すごく感銘を受けました。
全くそこら辺にいる人を見ているような感覚でした。
全くキラキラしていない。
そこがこの映画の最もいいところなんじゃないかなぁ〜と感じました。
本当にそこら辺にいる人たちを、この大俳優の皆さんが普通の人になりきって演じている、そういうように見せている、ある意味すごい映画です。
主人公たちと私は同世代。
こんな純愛に落ちることなんてないかもしれないけど、自分もこういうシーンの時は同じような振る舞いになるよなぁ〜とか感情を出しすぎないところとか、セリフの一言一言とか、見ていてとても共感するところが多かった。
そしてこの映画は繰り返し見れば見るほど味わいみたいなのが増してくるかもと思いました。
時間があったらもう一回見てみたいです。
市井の人
おセンチな年頃、もう年末ですねぇ。
大人の恋だねぇ〜なんて聴こえてくる作品でしたけど………
完璧やね。完璧。
脚本も演者も流れる風景や空気感に音も。
ここまで隙がないとため息が出てしまうね。
台詞のひとつひとつやエピソードに出逢いに別れ………。
そんな中で迎えた恋心。
切なさが残る作品です。
ジーンときましたけど………観る側のタイミングによりますね。
他のレビューとかにありましたが泣きたくてとか涙溢れてとか人それぞれです。
でも作品自体は『平場』なんです。
結局病気や死を簡単に使って泣かせる映画は安易で辟易してくるなんてレビューもありましたが当たり前です。
『平場』はありきたりなんですから。
自分の身近な人とか自分自身とかが病気や死に直面しない限り他人事でありファンタジーや言い伝え程度の都市伝説と思える人もいるでしょう。
ですが死に関しては今のところ全人類に平等に起こる現象なんです。
確かに死を出汁にして御涙頂戴な映画にドラマに文学にとアホほどありますが。
この作品に関しては少なからずとも死と言うよりも出逢いに別れに願いに未練にと人生におけるいろんな儚さを表現していますね。
ラストシーンは『死』にぶち当たった人なら共感も実体験もある悲しいのに泣けない。スイッチが何処なのか?何なのか?思考も感情も行動も何もわからなく記憶もないほどになってしまう。
まるでパンパンな水風船を小さくて細くて見えない針で刺されたように一気に弾けて溢れてしまいます。
でもその時に肩に手を添えて慰めるのではなく嗚咽を他の人に気づかせないようにそっと有線のボリュームをあげた焼き鳥屋の大将。泣きたきゃ泣け。思い切り泣け。月に届くまで泣けと。
須藤は『月』なんだね。
みんな空を見上げる事も少なくなり忙しい人生に身を委ね、いろんなことが離れ区切り身体の変調などでぽっかり穴が開いたときに見上げた夜空に浮かぶ月。
自分はさておき青砥の健康とこれからを願い、いつも何処かで見守っています。と
私的には登場人物の距離感がどれも絶妙なのがウケる。
葬儀の時に元嫁の察した表情と何ともいえない3人の間が1番かな。
根は深かったのだ
映画館でじっくり観る映画
「人との付き合い方」が器用ではないバツイチのふたり
15歳のままの彼女、50歳の今の自分
主人公たちだけを見れば大人の恋とかすれ違いとか言い方もあるが、「平場の月」というタイトル自体が何か人生そのものを示しているようでとても切ない印象の映画だった。
この映画を観ている自分はすでに50代で、主人公たちよりは少し年上。ただ地元で中学校時代の友人に偶然会ったり、またそのころの旧友とつながりがあったり、親を介護する現実や、結婚や離婚、病院や葬式、成人した子供たちなどの風景は、リアルというよりは見慣れたもので、特に映画で観たいものではない。どちらかといえば、ああ、50代ってこういう会話や絵が人生でも繰り返されるんだな、と。
ただ中学時代好きだった相手を名字で呼ぶようなままで偶然出会う、ということは何かちょっと引っかかるものがあり、この映画では特に須藤のキャラクター設定が、少し変わっているところがポイントなのだと思う。
須藤は、15歳のころからどこか「太い」芯があり、「ひとりでいきていく」という考えをもっていた。この彼女の孤独さというか、不可解さ、男が自由にできない何か、その言葉遣いから態度まで含めてこの映画の魅力の一つだろう。特に中学時代の彼女を演じた一色香澄の雰囲気が独特だ。
この須藤というキャラクターの他を寄せ付けない感じは、彼女の母や家庭環境が原因なのかもしれないが、だからといって青砥をそこまで拒否する理由にはとてもならない。それは井川遥演じる大人の須藤も同じで、略奪婚や若い子に貢いだ経験を経ても、どうして孤独を貫くのか不可解だ。
青砥はそういう意味では、最後まで須藤にとっては中学生の時の彼のまま、大人の関係になったとしても、永遠に中学時代の二人乗りをした想いの先の人物、川辺からいっしょに平場から眺めた月のままだったんだろう。だから一緒に最後を迎えるのではなく、「合わす顔がなかった」のではないか。メインテーマの歌詞の通り、「愛ってよくわからないけど、傷つく感じ」だった。
最後のシーンはやはり15歳のときの彼女と彼だ。いっしょに笑いあったときが永遠に懐かしい。50歳のいまの涙を流している自分とは、どうしてこうなったのだろうか。ひとつだけわかることは、今自分の隣に彼女はいなくなったということだけ。
題名は"平場の月"だが‥‥
カレンダーの◯
井川遥さん演じる須藤はサムライのような人だ
もっと淡いものを想像して観に行ってきたけど
冒頭から漂う何か嫌な不安が
あっ!これは誰かが何か失うやつだと感じ
最近は物語とはいえ人のツライ話観たくないなと日々思っているので瞬間地雷を踏んだ感覚だった
それでも鬼奴さん、でんでんさん、大森南朋さん達の何気ない会話の中に沁みる言葉があったり須藤や青砥の不器用なやり取りを観ていると自分が物語の中に入っていくのがわかった、これは良い映画だと感じつつ
迫りくる終わりと薬師丸ひろ子「メイン・テーマ」が流れ出した時
隣に座り唄う須藤の背中姿が浮かび
あんな何気ない日常がこれほどまで恋しと思えて涙が止まらなかった
なぜ好きと言わなかったのか、須藤の家庭がああじゃなければ、1年と守らず会いに行っていたらと映画が終わってもタラレバが尽きない
でもこんな二人だから惹かれ合ったんだよね
互いのカレンダーにつけていた◯は
月のようで須藤はこの◯を見つめ何を思っていたのかと考えてはやりきれなくなってしまいます
エンドロールまでが物語。
太くて愛しい彼女
そうなのだろうか?
中学生時代の初恋の二人は、今は別々の人生を歩みそれぞれ一人で暮らしている。そんな二人が50歳になって偶然再会する。青砥(堺雅人)と須藤(井川遥)の二人は静かに距離を縮めながら恋に堕ちていくが、須藤は癌が発症して亡くなってしまう。ストーリー的には目新しくはないが、金持ちではなく質素でごく普通の日常的なスチュエーションの中で大人の二人が距離を縮めていく過程は心に沁みて、中学生時代の彼女を思い浮かべてしまった。それはともかく、癌が発覚し自分の死を意識すると別れ(絶縁)を切り出してしまうストーリーにしたのはナゼだろうか?現実世界では、大人であれば愛する相手のことを想えば最期まで頼ることでお互いに納得して死を受入れるのではないのか?作品上のストーリーとして相手への思いやりや日本人的な美学を表現したのかも知れないが、リアルな世界感の中で死に直面した二人の哀しみや刹那さと向き合い全うして行く時間を表現した方が現実的な重みが伝わると思った。それとも、ラストシーンでの青砥の哀しみや悔しさに充ちた表情によって、黙って亡くなってしまうことを反面教師として描いたのだろうか?
素敵な脚本
かなり、大人びた作品。
でも、予告編からすごく雰囲気に惹かれていたから、観ることができてよかった。
この作品は劇中いろんな箇所に魅力的なセリフが散りばめられていて、観ていて面白かった。
でんでんさんの「一緒にいてくれる人がいるって当たり前のことじゃ無いぞ」って言葉。このセリフがとても沁みた。人は性別問わず、「この人となら」と思える人と一緒にいたい生き物だと思う。だから、「両思い」なんていうのは奇跡で、お互いに「この人と一緒にいたい」って思えるの、とても素敵なことだと思うし、当たり前じゃ無い。そしてこれは恋愛関係だけでなく、友情にも通づることだと思う。
この作品を観て、今”一緒にいてくれる人”の偉大さと温かさ、そして改めて感謝しようと感じさせてくれた作品。
月は形を変えて毎日空にいるように、
きっと須藤も、空から青砥を見ているんだろうな。
凡作のザ•邦画
とってつけたような病気で死に別れる量産型邦画
これで泣ける人は身の回りに病気の人がいない人かな
病気モノとしても恋愛モノとしても中途半端
病気の必要性がまったくない
ただ死に別れがあれば成り立つ話
この設定なら女(須藤)側から描いたほうが良かったんじゃないかなー
主人公は気持ち悪いけど狙ってるならアリ
なし崩し的に付き合ったが、特にその感動というか情動みたいなものもないし、主人公なんだおまえ…って感じ
もう会わないとは言ったが、でも会いたいとか、心配だとか、最も葛藤しているであろう箇所はLINE送ってるだけ(笑)で「…1年後」っと簡単にはしょったせいで亡くなったことを知ってからの涙がギャグみたいだった
時折挿入される風景のシーンが綺麗だったので☆2
期待度○鑑賞後の満足度○ “笑っちゃう、涙の止め方も知らない、50年(60年)も生きてきたのにね…“
全384件中、161~180件目を表示
映画チケットがいつでも1,500円!
詳細は遷移先をご確認ください。









