平場の月のレビュー・感想・評価
全462件中、241~260件目を表示
おセンチな年頃、もう年末ですねぇ。
大人の恋だねぇ〜なんて聴こえてくる作品でしたけど………
完璧やね。完璧。
脚本も演者も流れる風景や空気感に音も。
ここまで隙がないとため息が出てしまうね。
台詞のひとつひとつやエピソードに出逢いに別れ………。
そんな中で迎えた恋心。
切なさが残る作品です。
ジーンときましたけど………観る側のタイミングによりますね。
他のレビューとかにありましたが泣きたくてとか涙溢れてとか人それぞれです。
でも作品自体は『平場』なんです。
結局病気や死を簡単に使って泣かせる映画は安易で辟易してくるなんてレビューもありましたが当たり前です。
『平場』はありきたりなんですから。
自分の身近な人とか自分自身とかが病気や死に直面しない限り他人事でありファンタジーや言い伝え程度の都市伝説と思える人もいるでしょう。
ですが死に関しては今のところ全人類に平等に起こる現象なんです。
確かに死を出汁にして御涙頂戴な映画にドラマに文学にとアホほどありますが。
この作品に関しては少なからずとも死と言うよりも出逢いに別れに願いに未練にと人生におけるいろんな儚さを表現していますね。
ラストシーンは『死』にぶち当たった人なら共感も実体験もある悲しいのに泣けない。スイッチが何処なのか?何なのか?思考も感情も行動も何もわからなく記憶もないほどになってしまう。
まるでパンパンな水風船を小さくて細くて見えない針で刺されたように一気に弾けて溢れてしまいます。
でもその時に肩に手を添えて慰めるのではなく嗚咽を他の人に気づかせないようにそっと有線のボリュームをあげた焼き鳥屋の大将。泣きたきゃ泣け。思い切り泣け。月に届くまで泣けと。
須藤は『月』なんだね。
みんな空を見上げる事も少なくなり忙しい人生に身を委ね、いろんなことが離れ区切り身体の変調などでぽっかり穴が開いたときに見上げた夜空に浮かぶ月。
自分はさておき青砥の健康とこれからを願い、いつも何処かで見守っています。と
私的には登場人物の距離感がどれも絶妙なのがウケる。
葬儀の時に元嫁の察した表情と何ともいえない3人の間が1番かな。
根は深かったのだ
映画館でじっくり観る映画
「人との付き合い方」が器用ではないバツイチのふたり
15歳のままの彼女、50歳の今の自分
主人公たちだけを見れば大人の恋とかすれ違いとか言い方もあるが、「平場の月」というタイトル自体が何か人生そのものを示しているようでとても切ない印象の映画だった。
この映画を観ている自分はすでに50代で、主人公たちよりは少し年上。ただ地元で中学校時代の友人に偶然会ったり、またそのころの旧友とつながりがあったり、親を介護する現実や、結婚や離婚、病院や葬式、成人した子供たちなどの風景は、リアルというよりは見慣れたもので、特に映画で観たいものではない。どちらかといえば、ああ、50代ってこういう会話や絵が人生でも繰り返されるんだな、と。
ただ中学時代好きだった相手を名字で呼ぶようなままで偶然出会う、ということは何かちょっと引っかかるものがあり、この映画では特に須藤のキャラクター設定が、少し変わっているところがポイントなのだと思う。
須藤は、15歳のころからどこか「太い」芯があり、「ひとりでいきていく」という考えをもっていた。この彼女の孤独さというか、不可解さ、男が自由にできない何か、その言葉遣いから態度まで含めてこの映画の魅力の一つだろう。特に中学時代の彼女を演じた一色香澄の雰囲気が独特だ。
この須藤というキャラクターの他を寄せ付けない感じは、彼女の母や家庭環境が原因なのかもしれないが、だからといって青砥をそこまで拒否する理由にはとてもならない。それは井川遥演じる大人の須藤も同じで、略奪婚や若い子に貢いだ経験を経ても、どうして孤独を貫くのか不可解だ。
青砥はそういう意味では、最後まで須藤にとっては中学生の時の彼のまま、大人の関係になったとしても、永遠に中学時代の二人乗りをした想いの先の人物、川辺からいっしょに平場から眺めた月のままだったんだろう。だから一緒に最後を迎えるのではなく、「合わす顔がなかった」のではないか。メインテーマの歌詞の通り、「愛ってよくわからないけど、傷つく感じ」だった。
最後のシーンはやはり15歳のときの彼女と彼だ。いっしょに笑いあったときが永遠に懐かしい。50歳のいまの涙を流している自分とは、どうしてこうなったのだろうか。ひとつだけわかることは、今自分の隣に彼女はいなくなったということだけ。
題名は"平場の月"だが‥‥
カレンダーの◯
井川遥さん演じる須藤はサムライのような人だ
もっと淡いものを想像して観に行ってきたけど
冒頭から漂う何か嫌な不安が
あっ!これは誰かが何か失うやつだと感じ
最近は物語とはいえ人のツライ話観たくないなと日々思っているので瞬間地雷を踏んだ感覚だった
それでも鬼奴さん、でんでんさん、大森南朋さん達の何気ない会話の中に沁みる言葉があったり須藤や青砥の不器用なやり取りを観ていると自分が物語の中に入っていくのがわかった、これは良い映画だと感じつつ
迫りくる終わりと薬師丸ひろ子「メイン・テーマ」が流れ出した時
隣に座り唄う須藤の背中姿が浮かび
あんな何気ない日常がこれほどまで恋しと思えて涙が止まらなかった
なぜ好きと言わなかったのか、須藤の家庭がああじゃなければ、1年と守らず会いに行っていたらと映画が終わってもタラレバが尽きない
でもこんな二人だから惹かれ合ったんだよね
互いのカレンダーにつけていた◯は
月のようで須藤はこの◯を見つめ何を思っていたのかと考えてはやりきれなくなってしまいます
エンドロールまでが物語。
太くて愛しい彼女
そうなのだろうか?
中学生時代の初恋の二人は、今は別々の人生を歩みそれぞれ一人で暮らしている。そんな二人が50歳になって偶然再会する。青砥(堺雅人)と須藤(井川遥)の二人は静かに距離を縮めながら恋に堕ちていくが、須藤は癌が発症して亡くなってしまう。ストーリー的には目新しくはないが、金持ちではなく質素でごく普通の日常的なスチュエーションの中で大人の二人が距離を縮めていく過程は心に沁みて、中学生時代の彼女を思い浮かべてしまった。それはともかく、癌が発覚し自分の死を意識すると別れ(絶縁)を切り出してしまうストーリーにしたのはナゼだろうか?現実世界では、大人であれば愛する相手のことを想えば最期まで頼ることでお互いに納得して死を受入れるのではないのか?作品上のストーリーとして相手への思いやりや日本人的な美学を表現したのかも知れないが、リアルな世界感の中で死に直面した二人の哀しみや刹那さと向き合い全うして行く時間を表現した方が現実的な重みが伝わると思った。それとも、ラストシーンでの青砥の哀しみや悔しさに充ちた表情によって、黙って亡くなってしまうことを反面教師として描いたのだろうか?
素敵な脚本
かなり、大人びた作品。
でも、予告編からすごく雰囲気に惹かれていたから、観ることができてよかった。
この作品は劇中いろんな箇所に魅力的なセリフが散りばめられていて、観ていて面白かった。
でんでんさんの「一緒にいてくれる人がいるって当たり前のことじゃ無いぞ」って言葉。このセリフがとても沁みた。人は性別問わず、「この人となら」と思える人と一緒にいたい生き物だと思う。だから、「両思い」なんていうのは奇跡で、お互いに「この人と一緒にいたい」って思えるの、とても素敵なことだと思うし、当たり前じゃ無い。そしてこれは恋愛関係だけでなく、友情にも通づることだと思う。
この作品を観て、今”一緒にいてくれる人”の偉大さと温かさ、そして改めて感謝しようと感じさせてくれた作品。
月は形を変えて毎日空にいるように、
きっと須藤も、空から青砥を見ているんだろうな。
凡作のザ•邦画
とってつけたような病気で死に別れる量産型邦画
これで泣ける人は身の回りに病気の人がいない人かな
病気モノとしても恋愛モノとしても中途半端
病気の必要性がまったくない
ただ死に別れがあれば成り立つ話
この設定なら女(須藤)側から描いたほうが良かったんじゃないかなー
主人公は気持ち悪いけど狙ってるならアリ
なし崩し的に付き合ったが、特にその感動というか情動みたいなものもないし、主人公なんだおまえ…って感じ
もう会わないとは言ったが、でも会いたいとか、心配だとか、最も葛藤しているであろう箇所はLINE送ってるだけ(笑)で「…1年後」っと簡単にはしょったせいで亡くなったことを知ってからの涙がギャグみたいだった
時折挿入される風景のシーンが綺麗だったので☆2
期待度○鑑賞後の満足度○ “笑っちゃう、涙の止め方も知らない、50年(60年)も生きてきたのにね…“
恋愛を遊びやキレイ事で片付けられなくなった全ての人へ
リアルとファンタジーの境目のような映画
とにかく堺雅人と井川遥が素晴らしい。
井川遥の波瀾万丈だった己の人生に疲れ果てた“諦観”のようなやさぐれっぷり。
堺雅人が井川遥の死を後から知り、そこからの呆けたような表情と最後の号泣。
そして二人とも約束の令和7年12月20日のカレンダーに赤丸をつけていたなんとも言えないやるせ無さ。
主人公の二人と世代的に近いこともあって、自分の人生と重ね合わせてしまうかのような物語は、どこか心か痛くなる。
もっと上手くやればより幸せな結末を迎えられた二人なのに、こうなってしまうことが運命だったのかもしれない。
でも、二人は決して不幸ではなかったと信じたい。
PS 「メインテーマ」は泣けた。さすが松本隆。
初恋から50代の恋
全462件中、241~260件目を表示
映画チケットがいつでも1,500円!
詳細は遷移先をご確認ください。








