「人生の黄昏時、傷つくことさえ愛おしい「大人の遊び場」」平場の月 Akiさんの映画レビュー(感想・評価)
人生の黄昏時、傷つくことさえ愛おしい「大人の遊び場」
愛って何だろう、と問いかけても明確な答えなんて見つからないけれど、この映画を観ていると「傷付く感じがいいね」と素直に思えてくるから不思議だ。それはあまりにも青春だし、けれど決して青臭くない、熟成された痛みがそこにある。
スクリーンに映し出されるのは、人生の折り返し地点を過ぎた男女の物語。かつて中学の同級生だった二人が、再会し、不器用に距離を縮めていく様は、まるで『花束みたいな恋をした』のシニア版のようでありながら、もっと切実で、もっと静かだ。
**晩年感と告白欲、そのちょうど良さ**
物語全体に漂うのは、心地よい「晩年感」だ。もう若くはない、けれど枯れ切ってもいない。「告白欲」とでも呼ぶべきか、誰かに自分の中身をさらけ出したいという渇望が、ふとした瞬間に漏れ出す。その温度感が、なんかちょうどいい。
主人公たちのやり取りを、まじろがずにみる。彼らの視線の強さ、言葉の端々に宿る「太い」感情の奔流。特にヒロインが見せる、あの「気の強い跳ねっ返り」のような態度は、人生の荒波を乗り越えてきたからこその強靭さと脆さが同居していて、胸を締め付ける。
**私の菜園、そして残された部屋**
劇中に出てくる「私の菜園」という言葉は、単なる物理的な場所ではなく、心の聖域のメタファーのようだ。誰も踏み込ませたくない、けれど誰かに見てほしい、そんな矛盾した場所。
「死ぬまではここで生きてくんだって思ったから、残された人が片付けやすい部屋にしておくの」。そんな台詞が、日常会話の中にふっと混ざる。病気、介護、子育て——それらすべてを経験し、あるいは横目に見ながら、彼らは「終い支度」を意識しつつ、今を生きている。「私も沈みそうになったことあるよ」と、観客自身の記憶さえも呼び覚ますようなリアリティがそこにはある。
**平場とは? タイトルの意味を噛み締める**
タイトルの『平場の月』。「平場(ひらば)」とは、博打用語で特別な席ではない一般の客席や、あるいは建設現場などの平らな場所、転じて「ごく普通の場所」「日常の地平」を指すことがある。
特別なステージではなく、泥臭い日常という「平場」から見上げる月。それは決して完璧な満月ではないかもしれないが、どこか優しく、そして残酷に美しい。彼らにとってのこの恋は、「昔できなかったことをしよう」という、人生最後のご褒美のような「大人の遊び場」なのかもしれない。
**たった一個の価値**
「夢みたいなことって何?」と問われれば、それは劇的なハッピーエンドではないだろう。ただ、隣に誰かがいて、その体温を感じられること。「たった一個がいいんだ、だから価値がある」。多くのものを失ってきた彼らが掴んだその「一個」は、あまりにも尊い。
物語の後半、ある場面で「それ言っちゃあかんやつ」と思うような決定的な言葉が放たれる。親を許せない自分を軽蔑し、そういう自分が大嫌いだと吐露するシーン。その痛々しいほどの人間臭さに、私たちはどうしようもなく共鳴してしまう。
この映画は、傷つき、傷つけ合いながらも、平場で生きるすべての人への賛歌だ。見終わった後、夜空を見上げれば、いつもより少しだけ月が美しく見えるかもしれない。
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